光に導かれて
総合病院の隣のビルの屋上から射撃姿勢をとっていた雪緒は、スコープを覗いたまま舌打ちした。
「っ……だから最初から阻霊符を使っておけって言ったのに!」
スコープ越しの視界と、召喚獣ヒリュウの目によって彼女は病院の屋上での戦いを見ていた。かといって何もしないわけではなく、状況に応じて援護射撃やヒリュウによるサポートも行った。
屋上で戦うバステットの手足を撃って、攻撃の軌道や速度を変えるという戦法は彼女からの提案だった。雪緒は狙撃に絶対の自信を持っていたものの、移動中にその提案をされたときは面食らったものである。
だが、いざ行ってみると案外楽しいものであったし、対するアグニも上手く対応できてはいないようだった。残念ながら、味方が開けた場所にいることが前提の戦法であるため、一度室内に逃げられるとどうしようもない。
つい先ほど、アグニが一瞬の隙のうちに透過能力によって室内へと逃げ込んでしまった。その場にいたバステットは後を追えるが、雪緒はそうはいかない。今いる場所は、病院の屋上を狙いやすいのであって、室内にいる者を窓越しに狙うのは難しい。
雪緒とバステット、二人でアグニに対し優位に戦えていただけに余計に腹立たしい。
「でも……」
自然と、頬が緩む。バステットがどう思っていたかはわからない。だが雪緒は、気分が高揚していた。二人で戦うのも悪くないと、考えるには十分すぎるほどアグニ相手に有利に立てていた。
「私が悪魔と共に戦うなんて、ね」
口に出してみると、ますます笑えた。
全ての天魔を倒さなければならない。アウルの力に目覚めたとき、雪緒はそうしなければならないという使命感に駆られた。しかし、今彼女の心にあるのは、それだけではなかった。
仲間と共に戦うこと。志を同じくすること。私怨だけで、自分だけで戦っていた頃よりも、心なしか視野が広がったような気がする。
これも、彼のおかげなのだろうか。
「――そんな、まさか」
と否定してみるものの、一瞬我を忘れて呆けていた事実は隠せなかった。
彼の立てた、作戦ではない作戦。しかし、四人にとっては一番有効だったのは間違いない。
「雪緒!」
突如声がしたので、振り返る。
背後に建ち並ぶビル群の隙間を、長い鎖でターザンのように移動してくる者がいた。鎖は背中の大剣の柄から伸びており、それを器用に伸縮させてこちらに近づいてきている。
振り子のように動いていた彼が最後の大ジャンプを行う。そのまま雪緒のすぐ後ろに着地した。
「戦況は?」
リョウは息一つ乱さずに言った。だがよほど焦っていたらしく、いきなり雪緒の肩を掴んでくる。
「ちょっと、リョウ! 落ち着いて!」
「あ、ご、ごめん」
彼に肩を掴まれた瞬間――顔が迫ってきた瞬間、雪緒は頬に熱が集まってくるのをはっきりと感じた。それが無性に恥ずかしく、雪緒は突き飛ばすかのようにして一歩離れた。
「……戦況はさっきまでは良かったけど、今は仕切り直し。バステットとアグニは室内に行ったわ。ヒリュウが見た限りでは、ロンドはヴァニタスと交戦しているみたい」
「そうか、じゃあすぐに行かないと」
「私は少し時間がかかるわ。リョウみたいな移動手段がないから」
そう言って屋上を後にしようとした雪緒の手を、リョウが掴んだ。
「一緒に行こう」
「えっ?」
雪緒の言葉も聞かず、リョウは彼女を引き寄せると屋上から勢いよく跳んだ。背負った大剣、バスターダスト・クレイモアの柄から鎖を伸ばし、一つ隣のビルの壁にその先端を突き刺した。
振り子運動のように、二人は大空を舞った。吹きつける風は冷たく、髪は生き物のように翻る。心の準備ができていなかった雪緒は、リョウの体にしがみつくしかなかった。
「大丈夫?」
「え、ええ……」
足早に駆け抜けていく風景の中に、リョウの顔だけがはっきりと浮かんでいた。
彼の穏やかな表情を見ていると、雪緒は自然と心が落ち着いていくような気がした。今ほど彼のことを心強いと思った瞬間はない。
そんな彼の目が、真っ直ぐ前を見つめたまま細くなった。何事かと雪緒も同じ方向を見やると、眩い光が視界を覆った。
一瞬の出来事であったが、それがこれから向かう病院で起こったものであることに間違いはなかった。
「今の……爆発!?」
眩い光――それは雪緒の直近の記憶にも残っている。無数の蝶の群れが、一斉に目の前で爆発した時の感覚が蘇る。
「いや、違うよ。色が違った」
「色?」
「うん。あの色は――僕たちも急ごう!」
「馬鹿な…………」
光が視界を覆った瞬間、勝利を確信した。
だが、その光の色に期待は裏切られた。
アグニの爆発は、あんな色をもたらさない。
あんな――若葉のような薄緑色の光は。
ディアボロは、一匹たりとも爆発していなかった。
その事実に驚いているのは、無数のディアボロを隔てた反対側にいるバステットも同じだった。
「これって……」
淡い薄緑色の光を発する小さな球体――イージスフィアが、同じ数のディアボロを一匹ずつ包み込んでいる。病院の廊下はそれらによってよりひしめき合い、幾つかの小さな隙間だけがバステットとアグニを繋いでいた。
「どうした、バステット」
後ろから、声がした。
振り向くと、そこにこのイージスフィアを発動させた人物が立っていた。得物である槍を杖代わりのようにして、辛うじて立っていた。重たそうな瞼を必死にこじ開けて、彼女を見据えている。
「俺は証明した……感情が、時に力になることを」
ご覧の通りと言わんばかりの光景が、すぐ目の前にある。無数のディアボロを、一匹も逃さず小さなイージスフィアに閉じ込めたのだ。
「お前、マジか?」
「大マジだ」
堕天使――ロンド・フレイアールヴは冗談交じりに答えてみせたものの、目を開けているのがやっとの状態であった。何をされたのかは知らないが、戦いがあったことには違いない。
同時にバステットは悟った。ロンドが倒れた瞬間、イージスフィアも消えてしまうだろうということを。
「今度は、お前の番だ。お前が、俺に、証明しろ」
「――任せとけ。そこで大人しく見てろよな」
「そうさせてもらおう」
「あ、それと」
「なんだ? 手短にしてくれ」
バステットは前を向いた。戦いに集中するためでもあったし、単に気恥ずかしくなったからでもあった。
「助けてくれたこと、感謝してる……」
それだけ言って、バステットは床を蹴って走り出した。
ロンドの口元に、微かな、本当に微かな笑みが浮かんだことを、彼女は知らない。
「っし、これなら行ける!」
オーバーサーク発動中のバステットにとって、イージスフィアの隙間を縫って移動することなど容易い。イージスフィアにわざと体をぶつけるようにして、縦横無尽に僅かな隙間を飛び交う。アグニとの距離は容易く縮まり、たちまち彼の目前へと躍り出た。
「勝手に爆発しねえんなら、俺様が手を下すまでだ!」
バステットが移動している間に、アグニは次の攻撃の準備を済ませていた。彼の周囲に浮かぶ、幾つもの炎の塊が今まさに手近なイージスフィアを狙って放たれていた。
「させるかっ!」
その炎の塊を、バステットは手足を限界まで伸ばして全て受け止めた。自らの体を盾にして、イージスフィアを守った。
「バカか、お前!」
「バカじゃねえし、こんなもん全っ然熱くねぇよ!」
炎の塊によって勢いを殺されたバステットは、オーバーサークが切れる直前に手に持っていたトンファーをアグニに投げつけた。
対するアグニは、無数の蝶を体から発する。しかし、スパイラル・オルトロスが風を生む方が僅かに早かった。
「何!?」
風は渦を巻き、無数の蝶を巻き込んで膨らんでいく。巨大な槍のような形の竜巻と化した一陣の風が、アグニへと突き刺さる。アグニは足を踏ん張って耐えるが、じりじりと体が後ろに下がっていく。
辛うじて着地したバステットは、息を切らしながらもその姿を見据えた。
「なんでだろうな……アタシ、お前の一歩先を行ってる気がするよ!」
「う、うおおおおおおおっ!」
竜巻は勢いを増し、衝撃を蓄積していく。周囲の空気が振動し、窓ガラスが次々に音を立てて砕けていく。
衝撃は臨界に達しようとしていた。必死に耐えようと歯を食いしばるアグニを、バステットは笑った。オーバーサーク発動後で、彼女自身の体力も限界だった。
「吹き飛べ」
バステットは指先を伸ばし、竜巻に向けて己の黒きアウルを流し込んだ。竜巻には、とん、と指で突く程度の威力が追加されただけにすぎない。
しかし、それで十分だった。アグニの体がふっ、と宙に浮き、竜巻の回転にしたがって回り始める。そして、まる巨大なハンマーで叩きつけられるかのような衝撃が真横から襲い掛かってきた。
成す術もないアグニは真っ向からそれを受け、背中を反対側の壁に強かに打ちつけた。壁には一瞬で幾筋もの亀裂が走り、花が開くようにして外側へ砕けた。
アグニを襲った衝撃はそれでも飽き足らず、彼の体を場外へと吹き飛ばした。
「がっ……はっ……」
六階の高さから地面へと落下し、なおも固い地面を転がり続けた。そのうち、一本の木の幹にぶつかってようやく止まった。
病院の入り口周辺に広がっている緑豊かな庭園である。普段なら、リハビリや散歩をしにきた患者や、休憩中の医療関係者で賑わっている自然の楽園も、ゲートの発した結界が暗い影を落としている。
その、薄暗いはずの庭園を、何故か眩い光の粒子が漂っていた。
「待ってたよ、アグニ・ヴァルナカル」
立ち上がりかけたアグニの前に、二つの人影があった。光の粒子――まるで無数の星が瞬いているかのような輝きは、そのうちの一人が発する光纏によるものだった。
その男――リョウ・イツクシマが、背負っていた大剣を構えた。隣にはスナイパーライフルを二丁抱えた着物姿の女性――亜麻月雪緒も立っている。
「決着をつけよう」