悪魔VS悪魔
透過能力を用いて屋上にやって来たアグニを、鋭い切っ先が襲った。
奇襲だったが、ロンドのこともあって警戒していたアグニにとって避けるのは容易かった。しかし、のこのこと屋上に来ていたら確実にやられていただろう、そんな攻撃だった。
「お前、前より速くなってねえか?」
アグニが振り返る。一つの斬撃となって彼に襲い掛かった人物が、後ろに立っていた。
「どうしてだと思う?」
その人物――バステットは笑っていた。手足に纏っている黒い炎のような光纏が、今まさに全身に行き渡ろうとしていた。彼女の持つスキル、オーバーサークの発動を告げる炎の昂りに、アグニも構えを取る。
「聞いたら教えてくれんのか?」
アグニの言葉が終わる前に、バステットの肘打ちが右頬目がけて飛んでくる。アグニは体を反らしてそれを躱し、目の前に晒された彼女の腹に拳を打ち込む。
バステットはもう片方の手でその拳を掴んで、爪を立てる。彼女の指先には、マンダリン・レイヴンが装備されている。鈍色の爪から、アウルの奔流がアグニへとなだれ込む。
「くっ」
アグニは両足から一瞬力を抜き、背中で地面を転がる。その勢いを利用して、巴投げの要領でバステットを引き剥がした。マンダリン・レイヴンが、左手の甲から肉を削ぎ取っていった。
バステットが、屋上の柵に激突する音が聞こえる。今のうちに体勢を立て直そうと、アグニが左手で地面に手をつけた瞬間――丁度傷口になっていた個所を、どこからか飛来した一発の弾丸が正確に貫いた。
「何っ!?」
アグニは地面に体を打ち付けるようにして横っ飛びに転がった。彼の軌跡を追うように、二発、三発と銃弾が穿っていく。
「余所見してんじゃねぇ!」
真正面からバステットが突進してくる。遠距離からの狙撃に気を取られていたアグニは、体を大きく捻って回避しようとする。だが、彼女の五指が脇腹に突き刺さった。
「ちいっ!」
アグニは舌打ちし、目の前で爆発を発生させた。爆風と共に炎と煙が立ち上り、屋上一帯を覆う。
爆発はアグニにも多少の火傷を負わせたが、バステットにはそれ以上のダメージを与えていた。キャミソールは片方の肩紐が焼き切れ、腹部の辺りはごっそりとなくなっている。代わりに、褐色の肌をどす黒く染め上げていた。
だが、息を荒くしているのはアグニの方だった。手負いのバステットの方は、未だに顔から笑みが抜けていない。
「やるじゃねえか。お前がまた誰かさんと組む気になってるなんてな」
「組んでなんかないさ。たまたまアタシと同じ事情を持って戦ってる連中がいるだけ」
「あ?」
「理解しなよ。皆全力でアンタを潰しにかかってんだ!」
バステットの手が大きく振り上げられる。黒炎を纏った爪が、紫色の結界を背にして妖しく輝く。
そこに、アグニは勝機を見出した。いつもより動きに無駄が多い。あそこまで腕を掲げる必要はないし、大股での移動は一度ついた勢いを止められない。
バステットよりも素早く腕を前に突き出し、小規模な爆発で体勢を崩させてしまえばいい――アグニがそう考えて手を動かす。
その手を、バステットの爪が切り裂いた。
「何!?」
アグニは咄嗟に体の前面から炎を発し、追撃を防ぐ。その間に考える。何故バステットの腕が予期せぬ速度で振り下ろされたのか。
だが、もう少しだけもつだろうと思われた炎の壁が、突然の強風に煽られてこじ開けられる。
「時間稼いでんじゃねぇぞ!」
炎を突き破って伸びてきた褐色の手には、甲高い音と共に突風を生み出すトンファーが握られていた。
「その武器は……」
「さっきもらった!」
そう叫ぶ彼女の斜め後ろに、こちらに背を向けて去っていく小さな召喚獣――雪緒の召喚したヒリュウが見えた。
「あいつに武器を運ばせたのか!」
今もなお回転し続けるトンファーを、アグニは咄嗟に一歩下がって回避する。だが、トンファーの回転は渦のように周囲の空気を吸い込み、アグニの体をも呑み込まんとする勢いだった。
思うように後退できなかったアグニの頬に、バステットのもう片方の拳がめり込む。
また、アグニは避けきれなかった。大振りの一撃が、突然加速したのだ。
「――!」
しかし、アグニはその理由に気がついた。今自分を殴った彼女の拳――その掌に、小さな痣ができている。そして肘にも、同じような痕ができていた。
「銃弾で加速させてやがったのか……!」
わざと大きく振りかぶった手や肘に、殺傷力の低い銃弾を当てて加速させる。理屈は通っているが、それを実践で使ってくるとは考えもしなかった。
しかも、わかっていても容易に躱せるものではない。加速する攻撃と、そのタイミングを読み切るには相応の集中力が必要だ。
嵐の如きバステットの連撃の最中に、果たしてそんなことが可能だろうか?
更に、銃弾が降り注ぐ。傷口を正確に射抜く弾丸は、決して無視できない。雪緒のスナイパーライフルは、バステットのサポートのためだけに火を噴いているわけじゃない。
「クソッタレ……」
両腕をクロスさせて防戦一方になっていたアグニは、小さく悪態を吐いた。
「クソッタレがああああああああああ!」
突如アグニの全身から、身を焦がすほどの熱が衝撃と共に発せられた。バステットの拳も、雪緒の放った弾丸も、その圧力で跳ね返す。
バステットが吹き飛ばされぬように踏ん張りを効かせたのを見計らって、アグニは地面に沈んでいくようにして姿を消した。
「ちっ、逃がすか!」
バステットも迷わず透過能力を行使し、屋上をすり抜けて下の階へと向かう。アグニは既に、さらに下の階へと向かおうとしていた。
「させるかっての!」
バステットは即座に胸の谷間に仕込んでおいた一枚の札を取り出して、廊下の床へと投げつけた。長さ十五センチほどの札が床に当たると同時に、アウルによる波紋が同心円状に広がっていった。彼女が投擲した札には、阻霊術の力が宿っている。撃退士ならば誰でも使えるように調整された、阻霊符と呼ばれる札である。
この阻霊符が効力を発揮すると、札を中心とした一定の空間内では天魔の透過能力を無力化できる。阻霊符に込められたアウルが使用者である撃退士の力によって解き放たれ、周囲の物質に阻霊術の力を与えるのだ。
これにより、透過能力によって物質に姿を隠していた天魔やその眷属達を引きずり出すことができる。この力はどんなに上級の天魔に対しても有効で、アグニも例外ではない。六階の床をすり抜けようとしていた彼の体が、逆再生するかのように浮上していく。無論阻霊符ははぐれ悪魔や堕天使の透過能力も無力化するので、バステットも天井から床へと放り出される形になったが、予期していた彼女は難なく着地した。
「さあ、今度は一対一といこうじゃない」
アグニとバステットは、一本の長い廊下のほとんど両端に位置していた。アグニが、それだけ距離を取ったのだ。
「バカが……お前がその札を使うことぐらい、俺様が予測できないとでも思ったのか?」
「ああん?」
先ほどまでとは違い、不敵な笑みを浮かべるアグニの真意を、バステットはすぐに悟った。
遠く離れた二人の間に、"何か"が割り込んできた。
それらは、床から、壁から、天井から、まるで水面から浮かび上がるようにして発生した。
「まさか、これ――」
視界を埋め尽くすほどの群れを成しているそれらは、一様に丸まった芋虫のような姿をしていた。丁度人の頭一つ分ほどの大きさで、宙をふわふわと漂っている。
「おかしいと思わなかったのか? お前、まだこの病院でディアボロを見てなかっただろ? 全員、ガキや老人達の抜け殻から生み出したディアボロだ」
「透過能力で全部隠してやがったのか……!」
無数の芋虫達の向こう側から、勝ち誇ったようなアグニの声が聞こえる。
完全に魂をゲートに吸われると、その人物の体はディアボロと化す。そして、ゲートから悪魔にその魂が糧として供給され、完全に悪魔のものになるまでにゲートもしくは悪魔を倒さなければ、その人物は一生ディアボロのままだ。急いでアグニを倒すかゲートを破壊するかすれば、まだ間に合う。だが、肉体であるディアボロを殺してしまっては、元も子もない。
それまでのバステットなら、容赦なくディアボロを切り刻んでいただろう。だが、彼女の手は一瞬止まった。その姿は既にディアボロだが、一瞬、ほんの一瞬だけ、人間の姿をその奥に見てしまった。
「あとそのディアボロ、触れただけで自爆するから気をつけろよ?」
「何!?」
芋虫達は放っておいても、浮遊しながらゆっくりと移動していた。いつ、どこで、どの芋虫が何かに触れてもおかしくない。よく見れば、全ての芋虫が少しずつバステットへと近づいてきている。
「終わりだバステット。人間の抜け殻諸共、炎に消えろ」
バステットの持っていたトンファー――スパイラル・オルトロスに、何かが触れた。
「やべぇ……」
瞬間、彼女の視界は眩い光に包まれた。