崩壊
「さて、一丁上がり――っと」
一撃でロンドを沈めた悪魔は、ふと斜め下に目をやった。
その方向から、尋常ではないほどの殺気が迫ってきていた。
「俺様も罪作りだなあ、全く」
独り言と同時に、目を向けていたモールの床の一点が、上に向けて粉々に砕け散った。
「アグニ! テメエ!」
粉塵の中から、バステットが悪魔に向けて突進をしかける。しかし、彼女の指に嵌められたマンダリン・レイヴンは何も切り裂かずに虚空を踊る。
「バステット、久しぶりだなあ!」
アグニと呼ばれた悪魔は、いつの間にかバステットの背後に移動していた。
言葉の直後に周囲の蛾が一斉に爆発し、彼女を襲う。
「ぐあっ!」
無数の蛾から、逃れる術などなかった。爆炎に巻き込まれたバステットは、人形のように床を転がる。
だが、彼女は即座に立ち上がった。
「絶対殺してやらぁあ!」
そして、策も何もあったものではない突進で、再びアグニへと迫る。傷ついているというのに、より速く、鋭く。
「相変わらず、威勢だけはいいんだなあ、お前」
バステットが到達するよりも先に、アグニの正面に蛾が集まり、壁のように立ちはだかった。
「――!?」
彼女の突き出した腕――指先のマンダリン・レイヴンが触れた瞬間、蛾は一斉に爆発した。アグニの力か、爆炎も爆風も、全てバステットのいる方向に広がっていく。
だが、爆発の向こうから、アグニに向けて何かが伸びてきた。
「うおっ……」
アグニは寸前のところでそれを避ける。黒い炎のような光纏に包まれた五本の爪を。
「まさか、あの中を突っ切ってくるとは。お前ますますバカになったんじゃねえか?」
「アンタほどじゃないよ……」
バステットは、床に膝をつきながらアグニを睨む。蛾の起こした爆撃の中を越えてきたため、服はほとんどが焼き焦げてしまっていた。それを恥じる時間すら、今の彼女には惜しい。
しかし、もう体はほとんど言うことを聞かない状態にまで陥っていた。たった二度の攻撃を受けただけで、立っているのも辛い。アグニの爆撃は、それほどまでに強く、激しい。
(あと一撃食らったら……)
バステットは全神経を集中し、アグニの次の攻撃を見極めようと努めた。
彼女の思惑を知ってか知らずか、アグニは中々攻撃を仕掛けてこない。
「なんだか、昔を思い出さないか? 俺様とお前で、ゲートを作ったときのことをさ」
「…………」
バステットは答えなかった。昔のことなど、アグニの気配を捉えた時点で思い出している。それだけで、心の中が苛立ちに溺れる。自分でもどうしてこんなに憤っているのか、わからなくなるほどに。
それなら、この苛立ちを力にするまでだ。
「今思えば変な絵面だったよなあ。ゲートは一つなのに悪魔は二人ってさ。お前のあの、俺様を信じ切った表情、思い出すだけで笑えてくるぜ」
「っ!」
瞬間、バステットの光纏が手足だけでなく全身に行き渡った。
黒き炎の塊となった彼女の速さは、先ほどの突進をも上回る。
アグニの視界から、突然バステットの姿が消えた――そう思った矢先に、真横に彼女の気配を感じた。
反射的に、アグニは頭部を右手でかばう。
その右手の甲に、バステットのマンダリン・レイヴンが突き刺さり、肉もアウルも抉り取る。アグニのアウルの残滓が血飛沫のように飛び散り、蛾の羽を染め上げた。
「なるほど、前とは違うってワケね」
「当たり前だ。天使も悪魔も関係ねえ。アタシにとっちゃ敵なんだよ!」
好機と見たバステットが、さらに攻撃を重ねていく。超高速の連撃に、アグニは追いつくのが精一杯だった。少しずつ、確実に、彼女の爪はアグニの生命力を削ぎ落していく。
バステットのジョブである阿修羅は、近接攻撃に特化したスキルを中心に会得する。撃退士となった彼女は、久遠ヶ原学園で持ち前の攻撃力とスピードを生かしたアウルの使い方――即ちスキルを短期間でマスターしたのだ。
アグニが、攻撃の隙間を縫うように二人の間に蛾を潜り込ませ、指向性のある爆発を発生させる。
だが、それでも彼女は止まらない。
「おおおおおおおおお!」
自身の攻撃力とスピードを破壊的なまでに高めるスキル"オーバーサーク"を使用している間、使用者の痛覚はアウルによって一時的に遮断される。それまでに負ったダメージは、スキルの効果が切れると同時に副作用の如く襲いかかってくるが、それまではどこまでも攻撃に専念できる。
しかし――
「残念だったなあ、バステット」
防戦一方であるはずのアグニが、何故か不敵に笑う。その間も、アグニの体は少しずつ傷ついているというのに。
その笑いの意味することに、バステットは察しがついていた――このままでは負ける、と。
確かにオーバーサークを発動している今は、アグニに競り勝っている。
逆に言えば、スキルを発動して、ようやくアグニを一歩上回ることができているにすぎない。極限まで攻撃力とスピードを上昇させるオーバーサークの発動時間は、それほど長くはない。
バステットは、スキルの効果が切れるまでに決着をつけなければならないのだ。
だが、それが不可能であることをアグニの笑みが決定づけてしまっている。
「畜、生……」
バステットが振りかぶった腕は、振りかぶった時点で勢いを失った。膝が折れ、その場に力なく倒れる。光纏は消え、アウルの力を引き出すことすらままならない。
全身に、忘れていた激痛がぶり返してきていた。もはや体を動かせるかどうかの問題ではない。彼女は既に、意識を辛うじて保つことに余力を割かなければいけない状態だった。
「今度こそ、さよならだ」
アグニが指を鳴らすと、うつ伏せに倒れたバステットに無数の蛾が止まった。彼女姿は完全に蛾に覆い尽され、指の先すら見えなくなる。
と、そこに――
「あん? コイツは……」
蛾の群れに紛れて、一匹の小さな竜がアグニの視界をうろついていた。どうやら、バステットが突き破った床の穴からやって来たらしい。
その竜に、アグニは見覚えがあった。が、肝心なことが思い出せない。竜の名前、何処で見たのか、何故ここにいるのか。
アグニがそれを思い出すよりも先に、二発の銃弾が飛来する。アグニは咄嗟に、周囲を飛んでいた蛾を集中させてその銃撃を防いだ。
「わかったぞ。コイツ、撃退士の――!」
セフィラ・ビースト。撃退士が契約により召喚する、天使とも悪魔とも違う、太古の昔より地球に存在していた生命体。
しかし、アグニがその竜を握り潰そうと手を伸ばしたとき、竜はアウルの光と共に姿を消した。召喚に使用したアウルの活性化が解除されたのだ。
そして、虚空を掴んだかに思えたその手を、銃弾が穿つ。三度目の銃撃が、アグニの手に風穴を空けた。
即座にアグニは銃弾の来た方向へ蛾を一斉に飛ばした。バステットに止まっていたものも全て、姿の見えないもう一人の敵に向かって羽ばたいていく。
そのうちの何匹かが、見えない敵によって粉砕された。蛾の消滅を、アグニは敏感に感じ取ることができる。
「消えろ」
そこで、蛾を一斉に爆破させた。
轟音と衝撃がモール内を伝播し、床や壁に幾つもの亀裂を走らせていく。
揺れは一向に収まる気配もなく、モールが崩壊することをその場にいる誰もが悟った。