プロローグ
新章突入!
7月4日 アフリカ 某所
「いいか。ターゲットの5人以外殺しても構わん」
「了解」
「面体着装」
ガスマスクをかぶるとハンドサインに切り替わる。声が明瞭でなくなることもあり、音も電波も使わず意思疎通できるハンドサインで一通りの指示を行うのだ。
ワイヤーカッターですでにフェンスは人ひとり入れる大きさの穴をあけるように切断されている。足元にはこと切れた兵士が一人。敵の見回りだ。
侵入した一角は麻がうっそうと茂っていた。すべてがマリファナ用の強毒種。その茂りように男たちは顔をしかめる。ガスマスクの理由はこの麻が放つ陶酔成分に対する防護だった。
ここには世界最悪のエコテロリスト、地球連合軍の指令基地『シャングリラ』が存在した。敵の基本戦術、サボタージュ推進運動はこのシャングリラが中核となっていた。
大量の大麻とアヘンケシで薬物を作り、流通させ、中毒者を増やし、社会の機能不全を誘発させる。慢性化すれば敵の望む状態となる。
それを世界規模で行えば、世界は平和になるだろう。人類の滅亡という形で。
そんなテロリストが、ついには核弾頭を手に入れるようになったということもあって、彼らアメリカ合衆国陸軍は地球連合軍殲滅作戦『最低の七面鳥撃ち』を発動したのである。
それぞれ別れると音もなく茂みを進む。
それぞれがとある地点に立つと動きを止める。ここでアンブッシュするのだ。
彼らはアメリカ陸軍第1特殊作戦部隊デルタ分遣隊だった。彼らが最前線に赴き、後方に第3特殊部隊グループが展開していた。任務は5人の幹部の逮捕、それ以外の殲滅。もうすでに空軍のB‐2は爆装をしてここを目標にして飛んでいる。
ロレックスが、オメガが、カシオが、MTMが、ルミノックスがその時間を示す。
見張りの黒人兵士の交代を見つけるとそれぞれがサプレッサー付きM4A1の銃口を向け一発撃つ。
二人が小脳と動脈を撃ち抜かれ絶命したのを確認するとそのままさらに進む。見張りの交代の時間を見計らっての二人一組の襲撃は二人を同時に無力化することで事態の露見を防ぐという側面があった。
間取り図はすでに先遣の無人偵察機で判明している。各時間帯で人の動きを正確に把握しているので何処に誰がどの時間帯にいるかは把握できている。
分け入り、突っ切り、敷地の中央にバンガロー様式の建屋が一つ。これが5大幹部の住処である。
時間も突入位置も予定通り。中には人気がある。戸が軋むかわからない。
予定時刻に一斉になだれ込む。
幹部の一人、「元帥」モリー・パペルホンは自分の身に何が起こったか認識するのが遅れていた。
煙い。部屋の中が煙い。大麻をしこたま吸っていたことが彼らの判断力低下を引き起こしていた。
「参謀総長」ブライアン・ペロシは果敢にも銃を手に取ろうとしたがキレのない動作ゆえにあっけなくねじ伏せられ、「作戦・行政参謀」ロバート・シコルスキーは爆睡状態、「情報・通信参謀」ナンシー・ブラッドレイはパソコンで動画を編集しており、「企画・後方参謀」のロナルド・ヘミングスは年端もいかない少女と性行為をしていたところに猿轡を噛ませ麻袋を被せるとそのまま二人がかりで運び出した。
5組で身柄を確保し、残りで攪乱工作、撤退。残ったここは一斉に包囲して空軍爆撃部隊のJDAMで何もなかったようにしてしまう。ダイナミックだが時間の正確性が求められるこの作戦。もうここまでくれば終わりが見えてくる。麻畑を突っ切り、荒っぽく5大幹部をフェンスの穴から放り出し、さらに遠隔地へと運んでいく。
待機していた輸送部隊のハイラックスの荷台に幹部たちを放り込みビニールシートを被せるとデルタフォースは退却する。それからほどなくして、B‐2が彼らの楽園を、痕跡を残さぬよう入念に焼き払ったのだった。
「よろしい。作戦は成功なんだな」
ロナルド・D・D・ペリーは報告を聞いて安堵した。
以前から計画されていた作戦が一見唐突に決行された裏には日本で起こった核爆弾騒動があった。いや、表沙汰になってないから騒動とは言えないだろう。だが、その核爆弾は不活性化され、いまアメリカ本土に持ち込まれている。今後専門家によって本格的な解体に至るはずだ。
「はい。現在、グアンタナモに移送中です」
明瞭な応答に安堵していた。
聖遺物と呼ばれた13の核弾頭。時のユーゴスラビア政府が独自外交を維持するために開発したというそれは、ユーゴスラビア解体の際、極秘協定によってロシア側がすべて接収したのだ。しかし、それらが何者かによって奪われた。米ロ両国による共同管理は2003年に終わり、ロシア側が予算をどうにか工面し解体を進めようとしていた中、新型のサーモバリック爆薬ともども奪われてしまったのだ。
得体のしれないサーモバリック爆薬のデータもここにはある。内通者を通じてどうにかして手に入れたそれは、ソ連時代から続くクリーンな核爆弾の研究によるものであった。
しかし、この新爆薬――訳すとNTEM‐8となるそれは、その合成条件のシビアさ、化合物の保管の難しさ、そして何より、不慮の事故が起こった際の危険性から研究目的以上の用途はなかったはずだった。水をかけただけで有機リン系の神経ガスを生じるうえに腐食性も輪をかけて強いという致命的欠陥を誰も解消できなかったのだ。
しかし、科学者たちはこれを有効利用できる日が来るようにと、専用のタンクに二つの液を入れ保管していた。それも奪われたのだ。タンクローリーを改造したそのタンクはやすやすと持ち去られ、サハ共和国でテロリストたちのデモンストレーションに使われたのだという。いま、これらがどこにあるかは誰も知らない。
対テロセンターでは世界中の大量破壊兵器の動向を探っている。その絶対数は少ないものの、中東や東アジアは過去の経緯もあってホットスポットとして監視の目は厳しい。何も過去の大戦中に持ち込まれた毒ガスが……というわけではない。むしろ、せいぜい四半世紀の間のモノである。
北朝鮮が製造した数々の毒ガスの相当数が韓国や日本の国内にあると考えられている。工作員に対して供給されたり、テロリストに販売されたりしたのだ。世紀末に日本の地方都市や東京の地下鉄を毒ガスで襲撃したテロ組織へも。
この事実を日本政府は察知していないはずだった。1995年当時のCIAはクリントン政権の対日政策を反映して、日本国内での大規模テロの兆候を察知しても、それがアメリカ側にとって重大な問題にならない限り介入をしないという姿勢をとっていた。共和党のブッシュに政権が代わって以降その姿勢は見直されたが、この時に所在をつかみ損ねたBC兵器の存在が発覚し担当者は左遷された。対日関係の修復を模索する中でこれは重要な問題の一つになっていた。事件から十五年以上たったものの、不安はぬぐえない。サリンなどの毒ガスは容易に分解されるものの、しかし、徹底した密閉状態で高純度のモノを反応性の低い容器に真空充填し、低温遮光条件で保存すればかなり持つ。東西冷戦期の知見に基づくその内容は、十五年以上たった今でも警戒を怠らない根拠でもあった。
「いかがでしたか?」
ウィルバーが訊ねる。
「頭痛の種が増える一方だよ」
ペリーにとってはストレスの塊だった。
*************
『今年6月に発覚した浜口前外務大臣への贈賄疑惑やテロ組織への資金提供疑惑以降、今宮電子の株価は続落し、先週まで取引停止銘柄に指定されるなどされてきましたが、ここにきて急展開を見せてきました』
『はい。今回、ドイツの銀行大手、ボルツマン・ノーエンドルフ銀行が宣言した異例のTOB、株式公開買付けで株価は久々の上昇に転じました』
『ボルツマン・ノーエンドルフ銀行は2000年、当時日銀特融を受け経営再建中だった大東亜証券をGEAボルツマン・ノーエンドルフ証券として吸収合併した過去があります』
『今日は、当時の大東亜証券の内情を描いた小説『冷たい猛暑』の著者、経済ジャーナリスト、経済評論家で小説家でもある土信田邦彦さんにお越しいただいております。よろしくお願いします』
テレビ東京系のワールド・ビジネス・サテライト。一日の最後のニュース枠の一つである。
部屋のテレビで見ているが、それは今の株式市場で起こっている変化を伝えていた。
様々な悪事に手を染めていた電子機器メーカーがドイツの銀行に買われそうになっているという。
テロ組織への資金提供疑惑から世界中で家宅捜索が入り、アメリカの銀行に存在する口座が全面凍結されたことから市場が完全にパニックに陥った。金が動かせず、違法行為を行ってきたという事実は株価をたった一週間で89.4%も暴落させるのには十分だった。
たった一つの銘柄でも、それがもたらす不安は伝染する。リーマンショックからの回復途上、欧州金融危機、中国経済の陰りといった不安要素の中、暴落株が出れば他にも影響が出る。取引先や融資していた銀行、債券などを持っていた証券の銘柄が下落を始めたことから日経平均も東証株価指数もつられて下落し、先物ではサーキットブレーカー発動寸前までいったのである。
東証の動きは速く、即座に上場廃止に動いていたのだが、そんな矢先によくわからないTOB。これに一部投資家、いわゆるクズ株をあさるような連中が飛びついたのだ。
株価は跳ね上がり(とはいっても所詮は低位なので一株の値動きは小さいが)、金融不安の懸念はひとまず解消されたらしい。
テレビでは専門家が分析を語っている。
『今宮電子はボルツマンの有力な融資先の一つでしたので、その救済策だと思います』
『融資の焦げ付きを防ぎたかった、と?』
『かなりむちゃくちゃな方法です。しかし、昔からこれくらい強引なことをしていました』
『しかし、それだけで利益があるようには思えないのですが』
『今までのボルツマンの方針を考えれば単なる金融業から脱却してみたいという思惑があるのでしょう。今宮は財務系システムの構築にも強いですから。グループ内の100%子会社が様々な業務で、コングロマリット化していますし』
経済事情。ことの複雑さはよくわからない。日本の円が外国人投資家に集中的に買われ、円高傾向に拍車がかかったという。そこまでして福沢諭吉が欲しいのだろうか。
トレンドたまごを見るまで、寝るわけにはいかない。そう思いつつテレビを見ていた。
*************
手元に銃のない夜は何年ぶりだろう。そう思って数夜経った。
銃を取り上げられてふと実感したのは、銃の重さが自分の体の重さだったということだった。数々の銃を奪われた私は風に吹かれてしまえば吹き飛んでしまいそうな錯覚に襲われた。
「返す時にはピカピカにして返しますから」
好青年らしい男の言葉だけが救いだった。
その夜はあまりにも心細かった。
珍しく、私からエミリーを求めた。
さみしかった。苦しかった。怖くて、悲しくて、ぬくもりが欲しくて。
立場は普段とはまるで逆だった。
エミリーの胸に抱かれて、甘えていたかった。
泣きじゃくって、裸で一緒に抱き合って寝た。
今も、そうだ。ここ最近、毎日のようにエミリーを求めていた。
忘れたい。あの目を。殺されることを諦観したあの瞳を、忘れたい。
無意識に腕に力が入る。エミリーを手繰り寄せる。
「〈どうしたの?マリア〉」
何処か消え入りそうな、儚い、けれど淫靡で蠱惑的な声。
暗闇の中、きめ細やかな肌が柔らかな月光に照らされている。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。わたしが、護ってあげるから」
抱き寄せられ、エミリーの温もりを感じていると意識は闇の奥へと溶けていった。
*************
『ドイツではここ数日の間に大規模なデモが頻発しています。デモで行進している人の多くが二十一年前に発効した東西ドイツ統一条約によって地位や名誉を剥奪された元軍人や官僚、東ドイツ政府により財産権を侵害された戦前の貴族たちの子孫です。彼らは自分たちの人権と誇り、財産を奪ったとしてドイツ政府に対し連日の抗議行動に出ています』
薄暗い部屋の中。煌々とどこか青味がかった明かりが液晶から漏れている。
先日の事件に通ずるであろう事件の報道。抗議デモは政府側による武力鎮圧という形の解決に移りつつあり、ドイツ国民の大半がそれを支持しているという。政府に対する怒りは、情報封鎖で一切出てこない。ネオナチや赤軍まで入り混じった異様な運動はまるで戦後欧州社会、いや、戦後の世界秩序其の物の歪みの突端のようにも見える。
『2005年のパリや去年のイギリスの暴動もそうですが、欧州では移民の増加とそれに伴う失業率の増加、犯罪の増加で極右が支持を得つつあります』
社会の不安定化。中東、西ヨーロッパと伝播し、次は東欧か、アメリカか、極東か。
じっとテレビを見つめていた茅ヶ崎が、急に鼓動を始めたかのように浅く息を吸って部屋の中のもう一人に向き合った。
「情報は?」
「外務省も防衛省も経産省も、分析に骨を折っているらしい。ウチがどうかってのは、察しろ」
同じ部屋にいたもう一人――内閣情報調査室国際部門副責任者の堂上が茅ヶ崎に出した答えは、もはやお手上げという事実を滲ませるものだった。
元同僚のよしみというわけか横の情報網でつながっていたが、彼の言葉は以前に比してどこか弱弱しい。
国際情報統括官組織も、情報本部も、日本貿易振興機構も、現地のコネやラヂオプレスや政府系シンクタンクなど持ちうる総力をもって情報収集に励んでいるものの、その情報からは確固たる情報をどこの誰も得られていないということを意味した言葉に茅ヶ崎はどこかあきらめたかのように言う。
「難しいか」
「難しいなんてもんじゃない。世界そのものが火薬庫になったようなもんだ。ただでさえシリアにギリシャ、北アフリカと問題山積の状態で、そこにまた火種だ。どこで発火するかわからない。みんな残業続きでミスも増えてきている」
堂上の顔に滲む疲労はあまりにも強烈。目の下のクマは色濃いらしく、覆うためか慣れないファンデーションをつけている。いわば部下に対する強がりだろうが、年齢を考えればそれはあまりにもリスキーともいえた。最悪、循環器系に異常をきたしかねない。年齢を考えれば、無茶は死に直結する。
「可能な限りすぐ休むべきだ。そんな状態で働いていては部下も休めないし、能率も上がらないぞ」
「部外者の君に言われるとはね……」
嫌でも滲んでいる疲労を見ての言葉を堂上は突っぱねようとしていた。その声はどこか弱弱しい。
「元同僚として言っているんだ」
あえて口調を強く警告してみるが、意を介さぬかのように堂上ははぐらかそうとする。
「ははは……」
そう渇いた感じで笑って無意識に栄養ドリンクに手を伸ばした堂上の右手首をつかむ。
「副責任者がこんな時に倒れたら大事だぞ。」
横取りするように栄養ドリンクを手に取ると茅ヶ崎は一気飲みした。
*************
「我々も、考え直すべきかな」
心電図を見ながら白衣の男がつぶやく。
「契約を履行する。それが重要なんだよ」
彼より一回り年上の白衣の男がそういさめる。
この場にいる研究員の中では最高齢のチーフだった。とはいっても45歳。
「このサンプルは、意外と耐えますね」
ここにいる中でも一番若い白衣の男は呼吸を続けてるサンプルを見ていた。
「驚きだよ。ただ、あまりにも協調性がなさすぎる。狂犬の方がマシだ」
背広の男――大槻英二がいう。
胸がはだけた、色黒の少年は意識もなく眠りこけている。
うっかり覚醒させてしまえば後先考えず暴れまわることがわかっている。
念には念のため、ベッドの周囲は強化ガラスで、緊急時に使う麻酔ガスの高圧噴射ボンベも鎮座していた。
「投薬で従順にさせることはできるか?」
「判断力が落ちますから……」
大槻から投げかけられる質問に顔を渋くする研究員をみてチーフはあきらめ顔になる。
「馬鹿な不良の判断力がさらに落ちてマス掻きザルになったら意味がないか……」
「下手なことやっては余計質が悪い」
「去勢はなぜ許可しなかったのですか?」
「考えてみたが、ホルモンバランスを考えると闘争本能が落ちるからな。睾丸肥大化傾向もない。ここを失ってはいうこと聞かなくなるぞ」
「インプラントでどうにか?」
「サイズを考えると厳しいだろ?肝臓や腎臓の機能は?」
「今現在の負荷を考えると許容範囲です。真っ当な生き方はできないでしょうが」
「不良を使ったのがまずかったか」
「薬を打ちまくった結果ですか」
「想定以上に投与したようだからな。酒の影響でブーストがかかってるんだろう」
「心臓の肥大傾向は許容値。心機能は正常範囲」
「肺に関しても線維化は見られません。ネズミに見られた所見とは違うようです」
「とっくの昔にタバコで相当やらかしてるようだがな」
「脳神経の萎縮傾向は許容値より0.03%高いですが、有意な差といえるかどうか」
「今のところは十分無視できる値だ。継続的に出るようなら無視できない。蓄積の可能性もあるから推移を見計らうべきだ。ビタミンカクテルの投与はサボるなよ。鎮静剤を使って、全部入れるんだ」
「笑気ガスのボンベ、もうそろそろ切れそうなんですが」
「調達してやる」
次から次へとやってくる情報にこたえると大槻は外に出る。どう見てもボロな工場。ここが先進技術を山ほど詰め込んだ研究施設だとはだれも思わないだろう。
「まったく。この世の中、理不尽だな」
むせかえるような初夏の暑さ。ネクタイを締めなおし新調したフーガに乗るとエンジンをかける。
「どうやって逃げるか」
V型6気筒エンジンのノイズを感じながら、ゆっくりとアクセルを踏み込んでいった。
「まったく、車の趣味がちょっと悪趣味じゃないか?」
羽田は顔をしかめる。
「シーマの次はフーガ。セルシオからクラウンって感じですね」
戸塚もその言葉にうなづく。
「今じゃセルシオはレクサスだぞ」
「旧車好きで」
「ああ。そういえばお前のは型落ちのセルシオだもんな」
思い起こすと戸塚は変にギラついたセルシオに乗っていた。
「いいでしょう?あれ」
「あんなやかましいウーファー付きスピーカーと黒いホイールに赤いブレーキパッドなんかつける車じゃないんだぞアレは」
趣味が悪い。ノーマル至上主義の羽田はそう思っていた。
「いいと思うんですけどねぇ」
「まあ、そりゃ、家で聞くよりメンデルスゾーンもベートーベンも素晴らしかったが」
異常なまでにいいスピーカーだったのでクラシックも家のオーディオより良かったのがどこか悲しい。
「でしょう?」
「お前バカだろ」
「先輩のプレミオ安っぽいですもん」
言われたくなかった。捜査車両がそれだったがために慣れ親しんだ車をと選んだのだから。
*************
北海道室蘭市 室蘭工業大学
何処か歴史を感じさせるビルの中の研究室のソファに二人は座っていた。
「今宮電子の先進工学研究所で行われている研究は、鉛、ビスマス、タングステンなどを用いた特殊合金の合成」
白髪交じりの太った男がこの研究室の主である教授だった。なんというか、七福神の大黒点を思わせる雰囲気の、物腰の柔らかい感じのする彼は、急な来客である二人に嫌な顔一つせず応じていた。
「特殊合金?」
「以前から原子力工学や材料工学、原子物理学者の間じゃ都市伝説化してる物質。一つのレッドマーキュリーの生成だよ」
「一つの?」
その言い回しに真田は疑問符を浮かべる。
「レッドマーキュリーにはいろんな説がある。強力な低コストスーパーウラン元素だとか、HMXを圧倒する超高性能爆薬だとか……まあ後者はCL‐20やオクタニトロキュバンの登場で潮目が変わったが。あとは、核兵器そのものだとか」
「なんとも物騒な」
蓮池の合いの手を意に介さずに教授はベラベラとしゃべり続ける。
「だが、これらすべてがスーツケース原爆や小型水爆のための技術だ。使い方を応用すれば、メガトン級ハンディ水爆やギガトン水爆だって夢じゃない。無論表向きは原発材料だがね。それでも実現できれば圧力容器メンテ不要で燃料消費も圧縮できる次世代原発の出来上がりさ。おっと話がそれたね悪い癖だよ」
まるでマシンガンのごとく言い切ってしまうと、教授はコーヒーをマグカップに入れてすする。
「で、あなたはその研究に参加されたと?」
「守秘義務は多いけれど、正直言いたいことは多い。彼らがなぜ北海道のはずれのこの大学にまで来て研究を持ちかけたのかとか」
「で、どうだったんですか?」
「結果としてみればウチではできなかった。中性子の完全反射は不可能だって結論になったよ」
「ほかでも?」
「これは東北大だろうが東大だろうが無理だ。アメリカが軍事予算や科学技術予算を相当数十年つぎ込んで初めて見えてくるような研究だよ。そんなアメリカだって、冷戦期に湯水のように金をつぎ込んでできなかった。意味が分かるかい?」
「無理だった、ということですか?」
「そう。掠りもしなかった。ソ連もそう。特異な金属は存在しなかった」
残念そうな表情をする教授は壁に掛けてある時計を見ると急いで出ていった。
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ニコライ・ロボロフスキー
ロボロススキーの魔術を実現した農学博士であり、マフィアの頭領。
ソ連と同盟国の逼迫した食糧事情に品種改良でブレイクスルーをもたらそうと志した彼は、その後、軍とKGB主導の薬用植物品種改良計画に参加し、偶然にもTHC含有量が桁違いに多い麻を開発した。ソ連崩壊後の国有資産の流出の際にこの麻を持ち出しヒッピーなどに売りつける。雑種一代品種で同等品が継続栽培が困難であるために売るルートが確立し世界中で荒稼ぎしたのだ。
たった一人の農学博士が一代で裏社会に名を轟かせる。第二弾のモルヒネ含有量が多いケシのリリース以降、彼の周りには職を失った科学者や技術者が薬物製造のために集まっていった。解雇されたKGBや汚職警官、不良軍人が跋扈するロシア闇社会の修羅場を純然たる知性のみで潜り抜けた男は、ロシアの政財界と対立し、国外へと逃亡した。
その先は日本。
彼はほとぼりが冷めるまで日本で待つことにしたのだ。
そもそも彼は闇社会向きの人間ではなかった。成り行きで闇社会に入ってしまった男にとって、それは不本意であった。本来なら、もう少し真っ当な生き方をしたかった彼であったが、社会がそれを許さなかった。
「〈女性の尊厳を踏みにじって、生きてきた気分はどう?〉」
そんな彼でも、売春や闇ポルノ、性奴隷産業には手を出していなかった。すでに市場は飽和気味でマフィア同士の実力行使が行われている現実。運営や求人、人さらいのノウハウの無さ。この分野に強いアルバニア・マフィアと手を組んだ場合のリスク。考えても見ればもっと安全で稼ぎのいい仕事はある。売春宿の周囲で銃撃戦のない日はないのは誰もが知っていることだ。
「〈身に覚えがないんだが〉」
「〈嘘を言うな!!〉」
鞭でぶたれる。
女の品の無さに辟易としていた。彼の部下にも品のない連中はたくさんいる。だが、それは無知ゆえのもの。この女は、知っててそれを無視している。人類の英知を冒涜しているようなものだと感じていた。
LとRの区別のない下手糞な英語にも辟易したが、この女の本質からくる短絡的な犯行に、彼自身の怒りは強烈だった。
「〈ものを調べるという考えがないらしいな〉」
「何もしゃべるな!!」
また鞭が飛んでくる。
もはや、どうしようもないといった感じがする。
ふと頭によぎったのは、日本の禅という哲学の概念。もっと静かで豊かな場所でやりたかった。
*************
「幼児退行か」
「不可解な行動の原因は、心理的負荷からくる、情動異常といいますか」
「PTSD?」
「近いですが限りなく遠いものですね」
「そうか」
「短期的寛解の道はないでしょう。暴露療法も効き目があるかどうか」
茅ヶ崎に丹下は説明する。
あまりにも難しい。その事実が重くのしかかる。
「かかる時間は?」
「あの手の症状はいったん均衡が破綻すると長期的に修復するしかないんです。向精神薬は精神的に不安定でストレスも多く肝臓も未発達な10代には危険ですから、よほどやむを得ない場合を除き処方は控えるべきだとも」
「やはり依存の問題が」
「ええ。正直なところ、向精神薬っていうのはマイルドな覚醒剤みたいなものなんです。作用機構も薬効も似ている。だから乱用事例がある」
「抗不安でちょっとしたことで使うようになってしまう。離脱に不安が生まれる」
「そうです」
丁寧な説明をする。そのリスク。
リタリンの依存事例には精神的に不安定な時期の十代への投与が多かった。その事例の一端を見た丹下にとって、向精神薬は禁じ手となっていた。脳裏に浮かぶ東京の総合病院精神科時代に見たその光景は、精神科という特殊な部門の持つ深淵そのものだった。過酷な経験で精神を摩耗しきった少年少女がそこにいる。取り繕うかのように元気にふるまうのもまた痛々しく、体に何かしら傷がついているのも多かった。結果として同じ病院の救命救急部門に担ぎ込まれ死亡が確定することも経験した。精神科医は結果として精神病に取り込まれることが多いという。同僚にも過酷な勤務や蓄積された精神ストレスで鬱や依存症、統合失調に陥った者がいた。そうでなければそれは稀有な存在。一歩間違えればそれは究極の精神病理、サイコパスの一歩手前レベルで共感性を喪失している可能性があるのだ。
「そもそも、あの二人にはカウンセリングが必要なのですが……思春期の過酷な体験がすでにパーソナリティに強く根を張っていると見受けられます。少年兵カウンセリングプログラムに準ずる更生プログラムが効くかといえば、そうもいかないでしょう。彼女たちのいた世界は貧困が蔓延し軍閥が跋扈するアフリカの紛争地帯じゃなく、欧州の文化的といえる生活の送れる地域。そんなところで殺し屋稼業をやってきた二人が踏ん切りをつけることができるか……」
丹下の顔に滲む不可能性を茅ヶ崎は察した。
そこに希望がないならまだよかった。彼女たちは、希望にあふれた中で過酷な選択をせねばならなかった。
「あの二人に必要なのは、無償の愛」
丹下の出した結論に、茅ヶ崎は黙って頷くしかなかった。




