砕けた弾丸 その3
ふと、マリアは白んだ景色を感じた。
眠れぬ夜を泣き通して、泣き疲れていつの間にか眠っていたらしい。
同じベッドにはセリーヌも横になっている。背中からたしかに彼女の温もりと柔らかさを感じる。
時計を見るとすでにお昼近い。
這いずるように布団から出る。
昨夜の光景を思い出す。
エミリーは、何をしたいのだろう。
裏切りに人一倍敏感な彼女が裏切った相手のもとへ向かう。
その動機は何?
何故策があるとサインを送ってきたの?
どうすればいいの?
謎が深まるばかりで、考えが堂々めぐりして、そして、そして……。
エミリーは、何をしたいのだろう。
何を、何を、何を……。
悩んでいても仕方がない。
ガンケースを開けて中身を確認する。
AUG、グロック19、そしてSVU。
バスローブを脱ぎ、ブラとブラホルスターをつける。着替えの服を出して着てみる。
大丈夫だ。コンバットマスターは隠れてる。
出よう。そして、奴を始末する。
ふと、携帯電話が震える。
着信だった。エミリーのサブ端末。
本文なしのメールにはビルの写真が写っていた。
*************
弾痕だらけのフェリーの中。レストランでの昼食、蓮池はカツカレーを、真田はうどんを頼んでいた。昨晩銃口を突きつけあったCIAパラミリタリーの男――レオンもカツカレーだった。
妙にピリピリした空気。未だ抜けきらない硝煙の香りが鼻を衝く。
トラックの運ちゃんもその空気に気付いたらしい。
昨夜の銃撃戦は、一応は麻薬密輸を試みたマフィアと海上保安庁との戦闘ということになっていた。沖縄への輸送航路を担う船で代替手段が乏しく急ぎの品があることもあってか、予定外の寄港はせず海上保安官をヘリでのせ、現場を保存し検証していた。
「〈なんで、日本なんかに〉」
真田はそう問いかける。
「〈教えてくれたっていいだろ?雇い主が殺しに来たんだ〉」
蓮池も英語でいい、ボイスレコーダーをつける。
「〈わかった。しょうがない。話そう〉」
そういって顔をしかめつつ赤い福神漬けを食べると、レオンは滔々と話し始めた。
「〈今回我々がここまで来たのは、武器の流れを巡る秘密資料を入手したからだ〉」
「秘密資料?」
「〈核兵器や化学兵器、生物兵器を含む、大規模な武器の取引だ〉」
応答の日本語の意味をなんとなく察したようだ。
「それで?」
「〈流通の詳細はシリアの政府軍と反政府軍、双方に売り込んでいた武器商人の部下から聞き出すことに成功した〉」
そういってレオンはカツを食べ水を飲むと、意を決したかのように言い放つ。
「〈8月までに、沖縄に多数の武器が持ち込まれる〉」
「沖縄?」
急に出た地名はこの船の最終地目的地であった。
「〈ああ。革命戦の可能性がある〉」
「〈革命戦?〉」
「〈内戦だ。沖縄で内戦がおこる〉」
「そんなばかな」
内容に呆気にとられ、真田はつい言葉を漏らす。
「〈ありえないって思ってるだろ。だがな、ジャスミン革命からのアラブの春だって起こるまでありえないって思われてたんだ〉」
「〈何が言いたい〉」
「〈情報化が進んだ今の世の中、誰かが火付け役になれば、内戦なんて簡単に起こる。武器があればなおさらだ。奴は、祖首鋭はその火種を燃やし、暖を取っている〉」
「それって」
「〈想像の通り、死の商人と呼ばれるヤツだ。奴は、沖縄にある弱小民族政党とチャイニーズマフィア、一部産業界、日本の極左集団と極右集団に武器をばら撒いて沖縄を戦場にする気だ。裏には中国政府の影がちらついている〉」
「〈まとめた情報は?〉」
「〈大丈夫。渡そう〉」
胸ポケットから取り出したのは一般的なUSBフラッシュメモリだった。
「〈この情報自体はそう機密としては重要ではない。できるんだったらどこかの新聞社に送りつけたかったものだ。だが、証拠として信頼性を担保する方法がなかった〉」
どこか苦々しげに語るレオンは弱弱しく首を振るだけだった。
「〈なるほど〉」
「〈戦争を回避したい。協力してくれるか?〉」
「〈もちろん〉」
握手とともにUSBメモリが手渡されたのに、蓮池は確かなものを感じていた。
*************
『今日午前7時15分ごろ、埼玉県蕨市で倉庫が燃えているとの119番通報がありました。蕨市消防本部によりますと……』
昼のワイドショーのニュースコーナーでは至る所から火を噴いているコンクリ建ての倉庫の空撮映像が映っていた。
この倉庫は張っていたはずだ。報告を見ると「拠点を放棄。現在尾行中」の文字がある。ヘリコプターが目標を追跡しているはずだ。
不穏な『核兵器』の文字が躍る。
電話が鳴る。外線からの直通着信だ。
「はい。アカレンガハム東京事務所です」
表向きの名前を出す。横浜のハムメーカーをフロントにしているのだ。
『〈コロンビア国際貿易協会東京支部のものです。緊急会合がしたい〉』
務めて落ち着いた声色だが、その声色には焦りがにじんでいる。
「〈わかりました。東京事務所小会議室があいています。十五時からでよろしいですか?〉」
『〈たのんだ。ナゲットに関してだ〉』
「〈承知しました。お待ちしております〉」
CIAか。急な要件のようだ。
しかも核兵器がらみ。
「向こうからコンタクトか」
事態の切迫が感じ取れた。
「失礼します」
扉越しに声が聞こえる。
「入れ」
答えると政田が入ってくる。
「インターネット上で動画が拡散しています。ゲオルゲ・アマナールの組織が本格的に動き出したと考えられます」
書類をめくりながら報告してくる。
「そうか。わかった」
組織が動き出した。それだけ分かれば、十分と言えるのかもしれない。
「それと、蓮池たちがとある重要な情報を掴んだとのこと。至急沖縄に中継要員をよこすように、と」
「ドロップか」
ドロップ。つまりは情報の受け渡しである。
「はい」
「志布志は?寄港すると聞いているが」
「厳しいですね。寄港は予定では今日の20時から一時間だけですから。今回は遅れているのでマキが入ると思います。それに彼らはなるべく人目の多い場所を望んでいます」
「刺客対策か」
襲撃は衆目のある場所では行いにくい。当たり前だが、対象を見つけ、近づくまでに時間がかかるうえに、巻き添えや衆人にまぎれた警護もあり得る。
「どうします?」
政田が問いかけると同時に茅ヶ崎は受話器を取り内線のボタンを押す。
「武田、今すぐ沖縄に行け。稲垣もつける。明日那覇新港に到着する蓮池のドロップを回収しろ」
かけ終わるのと同時に携帯電話をかける。
「稲垣か?今すぐ沖縄に向かえ。明日那覇に入港するフェリーにいる蓮池のドロップを回収しろ。武田も一緒だ」
「速いですね」
「最近忙しいからな」
茅ヶ崎の顔にはうっすらと疲労の色が浮かんでいた。
*************
六本木ヒルズの展望台にユーリ・ゾルカリツェフはその顔に笑みを浮かべて佇んでいた。
こんな所に平日の真っ昼間にいるのは一部の観光客程度であり、その観光客も、より高く新しいスカイツリーに向かっているのもあってか人影は非常にまばらだった。
「〈高いところが好きだな〉」
ゲオルゲ・アマナールが背後から声をかける。その後ろから歩いてくるのは、お人形のような衣装を着せられたエミリーだった。
人が塵ほどに小さく見える展望。
高いところから見下ろすそれは、支配者の展望ともいえる。
「〈見給えよ。この目の前に広がるパノラマに一千万人もアリとキリギリスのアリのように働いてるんだそうだよ〉」
屈託のない笑顔でユーリは言い放つ。
「〈可哀そうに。彼らは自分が死んだと認識できずに死ぬか、ケロイドまみれになって苦しみながら死ぬか、それとも放射線病で死ぬかだよ〉」
その言葉を聞いてゲオルゲの胸中に去来したのは相反するものだった。
その姿に異様さと恐怖を覚えつつ、しかし、どこか期待している自分がいる。
自分よりも若い、この男に。
「〈この国は、今までいろんなテロにあってきたらしい。社会主義かぶれの学生やカルト宗教の信者が社会をひっくり返すって言ってね。だけどだれも、このちっぽけな島国の、弱腰政府すら変えられなかった〉」
普段からのあの大仰な仕草で歌うように言う。
警備員がどこか訝しげにこちらを見ているがそれすら気にせずユーリは続ける。
「〈さあ。この世界は変わるぞ!僕たち、この国と縁もゆかりもないヒトの手によってな!〉」
大きく腕を広げて笑う姿は、どこか狂気を帯びていた。
「〈貴方はこんなところにいたなんてね〉」
そういって出入り口から出てきたのはマリアだった。
「〈急に出てきてどうしたんだい?〉」
「〈さあ?〉」
エミリーの頭を通りすがりにさらりと撫でてから、不自然なくらいの笑みを浮かべてマリアはとぼけた仕草でユーリに近づいていく。
「〈どうしてここが分かったんだい?〉」
「〈知ってる?日本にはこんな言葉があるの。愚者と煙は高く上る〉」
わざとらしくフランス語で問いかけてから挑発する。
「〈つまりは僕を愚者だっていうのかい?だからわかったんだって〉」
「〈さあね?けど、あなたは愚者よ〉」
そういって視線を周囲に配る。
あの双子は珍しく窓の風景に釘づけだ。
護衛も周囲の環境もあってか手が出せない。
「〈わからないなぁ。どぉして僕が愚者なんだい?〉」
笑みを崩さないユーリ。
危機的状況であることは百も承知のはずなのに、余裕を見せている。
「〈だってね?〉」
マリアはそう言ってくるりひらりと踊るように近づいてユーリの首筋に掌に隠したSOGのスローイングナイフの切っ先を突きつける。
「〈銃を出せない環境に自分から入ってきたんだから〉」
珍しく目を見開き驚くユーリ。
反射的に銃に手を伸ばしたが踏みとどまったらしい。
「〈ここでは殺さないわ。警備や衆目が多すぎるもの〉」
ほほ笑みのままマリアは言う。
「〈それにここは高層ビルのなか。逃げられるものじゃないわ〉」
くるんとユーリに背を向けて、これまでになく、マリアも自分で不思議に思うくらい少女っぽく言う。
「〈貴方は、勝ちすぎて勘が鈍っちゃったのかしら?それとも、もう若くない?〉」
蠱惑的な表情で背中越しに流し目をしてマリアは挑発する。
「〈君の口からそんな熱のこもった声は初めて聴くよ〉」
「〈エミリーは、ぜったい、取り戻させていただくわ〉」
そういうとマリアはエミリーとすれ違って展望台から消えた。
『どうだ?』
「見れはしたが、撃てないな。高層階用ガラス二枚は邪魔すぎる。硬いわ屈折するわだ」
無線越しの秋津に応答した灰田は苦々しげに溜息をつく。
東京ミッドタウンの52階。ザ・リッツ・カールトン東京の部屋の中。豪華な部屋にスコープだけ持ち込み望遠で観察していた。
『エミリーからの通報か』
「相手の中に入り込んで位置情報を通報する。正気じゃない」
灰田は呆れていた。
最も危険な潜入。それも事前の検討もなく突っ込んでいくなんて前代未聞だ。
「どうする?」
『すでに公安部が張り付くのに成功した。諜報班も尾行する。撤退しろ』
「了解」
スコープを仕舞って部屋を後にすると、灰田は練った狙撃のイメージを頭の中で繰り返していた。
奴の独特な意識の配りかた――狙撃手やアンブッシュした突入部隊の『消えた気配』をピンポイントに察するその奇特な能力は驚異的ではあるが、反面、脅威が近いとぷっつりと途切れることがあるようだ。マリアが接近しナイフを突きつけた瞬間、明らかに視野が狭まった。
あのわざとらしい大きな身振り手振りは、レーダーの首降りと同じで、視界を大きくしているのだ。これをやれるのは、至近に自分にとっての脅威がないという条件に限られる。脅威から目を離すというのは脅威を認識して対応できなくなることを意味する。だから周囲に二人の子供を展開していた。奴が存分に能力を生かすためには、距離感を保たねばならない。
ならば、対処法はわかったも同然。
あとは、条件を整えればいい。
*************
「〈急な要請、すまなかった〉」
「〈いえ〉」
防音カーテンを閉め切り、盗聴盗撮チェックを一通り行い、周囲の人祓いを終えた法務省の小会議室に入り着席した途端、CIAからきた男の開かれた口から出た言葉が謝辞だったことに少しだけ茅ヶ崎は驚いた。
CIAは多くの場合高圧的だ。そんな彼らが真っ先にこのような挨拶をしてくること自体異例と言えた。しかもこの男は管理職。在日本CIAを統括するような男である。
「〈単刀直入にこちらからの要件を。合衆国政府は今回の核兵器問題に関して政府機関として国家核安全保障局、連邦緊急事態管理庁、国防脅威削減局、実動部隊として核緊急支援隊、合衆国太平洋軍、在日本中央情報局の投入可能な人材を限界まで日本に投入することを確認した〉」
「〈つまりは総力をあげて対応する、と?〉」
「〈そういうことになる〉」
つらつらと出てきた組織の名前は明らかにアメリカ政府が今回の事件を重要な事態と認識していることに他ならなかった。
表向きこの大規模シフトが出てきていないのは現大統領のオバマがCIA嫌いのリベラル派であることに由来するのだろう。
「〈日本の司法権の及ぶ沿岸の日本船籍船舶への不法侵入に対する償いのつもりか?〉」
少しだけ毒づいてみる。
「〈それに関しては、申し上げられない。ただ、他国領内で部隊を運用する以上、通報は必須であると〉」
「〈なるほど〉」
やはり口が堅い。だが、このそっけなさは真犯人であることを認めたも同然だった。
在日本CIAのトップですら本国の上層部には逆らえない。官僚組織である以上当たり前と言えば当たり前だが、組織内に何らかの不和を生じているようにも見える。
「〈今や日米は運命共同体だ。どちらかが攻撃されれば双方大きな痛手になるのはわかりきっている〉」
どこか焦りがにじむ男の表情ではあるが、しかし、彼はそのような逼迫した状況ですら努めて冷静でいようとしていた。
日米の政治的結びつきは日米外交の歴史を紐解けばその強固さがよくわかる。
明確かつ全面的対立は第二次世界大戦前から終戦までの間と1980年代から始まった日米貿易戦争の間くらいで、それ以外は双方持ちつ持たれつ、利益を共有し強固な同盟を結んで強い一体感を持っていた。それは、日米間の貿易以外においては、片方にとっての不利益はもう片方にとっても不利益になるということも意味していた。
「〈それでどうにかなるのか?〉」
「〈そちらの知っている情報さえあれば〉」
そういって男は身を乗り出す。
在日本CIAの主任務が日本政府と日本財界、そして他国の情報機関の監視にあるというのは知る人なら誰だって知っている。彼らは日本国内のテロ組織には無頓着な部分があるのだ。言語の壁、文化の壁、人種の壁という三枚の厚い壁が対テロ作戦を難しくしているのだ。
「〈情報料は高いぞ〉」
茅ヶ崎はそう言って革張りの椅子の背もたれにもたれかかる。
「〈無論だ。今回我々は破格の条件を持ってきた〉」
どこかもったいぶって男が言う。
「〈というと〉」
「〈今回の事件に限りDEVGRU一個小隊の実質的指揮権をそちらに移す〉」
「〈本気か!?〉」
思わず茅ヶ崎は身を乗り出す。
「〈破格だろう?〉」
したり顔ではあるがそこには焦りが見え隠れする。
DEVGRU。合衆国特殊作戦軍の虎の子である最精鋭部隊の指揮権を一時的にだが委譲する。この事が意味するのはアメリカ側には事件の全容が見えていないが動かなければ危険であるということに他ならない。しかも、情報を欲しがっている様からすれば、余程重要なのだ。
「〈追っている事件が多い。ありがたい〉」
丁度地獄に仏と言ったところだった。
人員不足が響いているところにちょうど使える人材が転がり込んできた。
「〈で、資料は?〉」
「〈こちらだ〉」
催促された封筒を手渡すと、男は止めている紐を緩め中の資料を出して目を通す。
「〈確かに受け取った〉」
封筒を閉じ、紐で封するとビジネスバッグに入れて男は立ち上がる。
「〈急いでくれ。テロリストがどう動くかわからない〉」
「〈承知した。最大限、努力しよう〉」
一礼すると男は出て行く。
事態が逼迫する中、ついにアメリカが動き出した。
その事実に茅ヶ崎はどこか安堵を覚えていた。
*************
砂土原は腹心の部下たちと共に都心部にいた。
核爆弾はすでにクォーツ電波時計を利用した時限装置が起動しており、正確に昼2時に起爆するようになっている。プリペイド携帯電話による遠隔起爆装置も備え、緊急起爆もできる。
「ニホンアシカ作戦、成功は確実だな」
砂土原はぼんやりと行き交う人々を見ていた。
「ああ。どうする?すべてが終わったら」
旧知の仲間の牧寺はコーヒーを飲み、そして問いかける。
「こんな国捨てて、アフリカにでも行こう」
「アフリカには何があるんだ?」
牧寺にはふと思いつくものがなかった。
「自由、かな」
「この国にはないものだな」
砂土原の言葉に納得して呟く。
「ああ。こんな窮屈で退屈な国を作った政府と企業には、その責任を償ってもらわないと」
「核で変わるかな?」
「東京という富と権力の象徴がなくなれば、変わるしかなくなるよ。あらゆる産業とモノ、そして国際的信用が消滅して初めて日本人は自由になれる」
「それで何人死ぬんだろう?」
どこかワクワクした声色で牧寺は問う。
「それは俺たちが殺したんじゃない。権力者と金持ちどもがとっくの昔に殺しながら無駄に生きてきたゾンビだよ。消費社会が作り上げた物欲という幻想に生かされた、な」
ほほえみを浮かべながら砂土原は呟く。
「たのしみだ」
「だろう?世界が変わる瞬間を自分たちが演出しているというのは。これ以降、いろいろ忙しくなる。発電所やダムやコンビナートや工場を破壊して、モノにあふれた社会を否定していこう」
小理屈をこねていた男たちが真に望んでいたのは破滅による混沌だった。
日本が消えるという状況になれば、世界は変わらざるを得ない。
大いなる破滅による再生。恐竜の大絶滅の後新たなる生命が生まれたように。
就職氷河期や景気低迷を目の当たりにして、資本主義経済と物質文明など幻影でしかないと感じた彼らは、自分たちを認める世界を作り上げることにした。
「楽しそうだ」
「富の再分配が破綻しているなら、不幸の再分配を強化してしまえばいい」
彼らにとってみれば、刹那の快楽以外は幻影でしかなかった。
*************
幸太郎はふと空を仰ぐ。
ローゼンハイム姉妹の騒動は徐々に学校中に広まりつつある。
連絡もない、理由もわからない、無論入院というわけでもない無断欠席が立て込んでいるという事実は、教師たちに奇妙な焦りを生み出しつつあった。
外国から来た生徒が急に不登校になる。その時の責任は確実に教師たちに向けられる。いわば自分の首を気にしているわけである。
おまけに神山と霧谷も欠席だ。担任の小坂が疑いの視線を向けたりしてきた。
確実に、この歪みは大きくなる。事態が複雑化すれば、日常が壊れかねない。
「エミリーは、どうしてマリアから離れたのか」
「理由が不明瞭すぎるのよね」
河合とともに嘆息する。
「普段なら意地でも姉についていくよなぁ」
「そこね」
エミリーは普段から姉であるマリアにぞっこんだ。あそこまでいくと、家族愛以上のモノを感じる。
そんな彼女が何故わざわざ離別を選んだのか。遠足の時に何かがあったと考えられるものの、それを断言できるかというと当人からの証言がないので何とも言えない。
「河合。お前まだ嘱託権限を持ってるんだよな?」
「まあ、そのはずだけど」
唐突な言葉に河合は身構える。
「俺の復帰を提案できないか?」
「ちょっと何言ってるの!?いくら下僕の調子が戻ったからって、それは!」
河合の声は驚きを孕んでいた。幸太郎の無理な戦い方、狂戦士のような行動を知っていたからこそ、不安を感じていた。
「そうかもしれない。けど、もどかしいんだ」
絞り出すように幸太郎は口に出す。
「わかるけど、あのおじさんが許すかどうかにかかってるのはわかってるわよね?」
「まあな」
「試しに掛け合ってみるわ」
「ありがとう」
珍しく、河合に対し感謝の言葉を言う幸太郎に、彼女はその真剣さを感じ取っていた。
普段どこか飄々としたような、感謝の言葉を口に出すのを拒絶するかのような態度が多い幸太郎が言った『ありがとう』。
「いつになく素直ね」
つい口に出してしまう。
「たまには、素直でいたい」
そういって幸太郎は俯いた。
「これ以上、周りを傷つくのを見たくない。おせっかいかもしれないが、救えるなら、手を差し伸べたい」
河合が初めて聞けた幸太郎の本心。苦しみもがいてきた下僕の傷だらけの心に、手助けをしたいと強く思い始めていた。