Sechste mission: Liebe und Frage――恋と疑問
デート決行の前日。
東京では予想外の事態が発生した。
長身痩躯の若い男――英律慶は今日もまた皇居の周りを走っていた。
元々学生時代は長距離走に精を出していたこともあって、走っているのを見て走りたくなったのだ。
暮れなずむ日を受けながら走っていると不思議な気分になる。
香港で生まれ育ち、北京にわたって生活している身分に取って、東京の方がホームグラウンドに感じるのは当たり前だった。少し前まで資本主義国の統治領域だったのだ。共産主義独裁国家とは一味も二味も違う。香港はいまだに高度な自治権を有する特権区域。中国本土で数少ない民主主義領域だ。北京の締め付けの厳しさには閉口する。何度北京の田舎警察にシバかれかけただろうか。
「〈お父さんはお父さんだしなぁ……〉」
父は西側の兵器のブローカーをしている。英も継ぐ気があるが、父から修行として何個か商談をまとめるように言われている。旧西ドイツのF‐4Fの民間売却の商談は今日の昼にまとまった。でもまだたくさんあるのだ。
ふと目の前に黒尽くめの人影が見える。季節外れの黒いコートに黒い野球帽を深くかぶっている。何とも怪しいが気に留めたところでどうしようもない。通り過ぎようとした瞬間
バサッ
コートの翻った音がした。
振り返ると、黒尽くめの人影はUSPコンパクト拳銃を突きつけていた。
銃声が都心に響く。どうにかかわすが交番まではまだ距離がある。自分の脚力で逃げ切るしかない。
急いで交番に向かう。周辺の地図を覚えていることに感動すら覚えながら視界に交番が見えて少し安心する。
だが、期待は裏切られた。どこからともなく炸裂音がしたかと思えば、交番は木端微塵に爆発した。
「〈ハリウッドかよ!?〉」
こんな光景を現実に目の当たりにするとは思っていなかった。
黒尽くめの人影は追ってくる。逃げ込もうとした交番は木端微塵。
不意に足がもつれて転んでしまう。みるみるうちに距離が縮まっていく。絶望に打ちひしがれそうになったとき、二人の男が英の目の前で黒尽くめに立ち塞がった。
懐からS&W M37エアーウエイト・リボルバーとSIG P230オートを引き抜くと銃撃を始める。
「マルタイを保護しろ!」
男の一人がそう叫ぶと、また二人男が現れて、英を引きずって行った。
引きずられるままにミニバンに連れ込まれると男たちは二つ折りの革製のものを掲げた。金色のサンバースト・ライセンス。POLICEと警視庁の文字。
「〈おい!俺を逮捕する気か?〉」
若干後ろめたいこともあって英は問いただす。
「〈いえ。あなたを助けに来ました〉」
やけに流暢な中国語で返された。
「〈我々はあなたが殺し屋に狙われているという証拠をつかみ、警護するためにここまで来ました〉」
「〈あ、あいつらのグルじゃないんだよな。交番吹っ飛ばした奴らの〉」
「〈大丈夫です。ご安心ください〉」
興奮状態から覚め、英はへたり込んでしまった。
*************
「英律慶が襲撃された!?」
想定外の事態に北九州の分室にいた茅ヶ崎は動揺した。WLSは北海道で死んだと考えられていた。だが、襲撃が起こったのなら話は別だ。WLSは想像以上に巨大な組織なのだろうか。
「神山たちから連絡です。WLSに関する重要参考人を特定したとのこと」
「どういうことだ」
次々と発生する事態に、指示を飛ばそうにも結論が出てこない。
「さっきの証言からも事態の悪化は明らかだ」
フンの証言は十分な意味を持っていた。手の指のすべてを折る段になって、あの男は自分の部隊でWLSを始末することを目論んでいたことを証言したのだ。今日いなかった人員はすでに作戦中。動機は韓国大使館襲撃事件に対する報復だった。
WLSのシチリアン・マフィア襲撃から八か月ほど前、東欧の売春市場を荒らしていた韓国人に対してマフィアが行った攻撃が大使館襲撃だった。この時、多くの殺し屋が雇われたという。その中にWLSがいた。WLSが一番仕事をしたという。
そして、その時に初めてWLSの襲撃画像が撮られたのだ。
大使館と大使公邸は全焼。大使や駐在武官などの外交官とその家族を含む二十三人が犠牲となった。
このこともあってWLSの名前は飛躍的に著名になった。
ヨーロッパの闇社会と公安関係者では知らぬ者はいないレベルだ。
「もしかして」
殺し屋は他人の『屋号』を使わない。謂れのない恨みを買うことになるからだ。
だが、もしかすると。
*************
英律慶は嘆いていた。己の身の不幸に。
ミニバンは現場から逃げるように走って警察署に向かった。到着した警察署は黒尽くめの武装警官が山ほどいた。その警察署の一室で急な空腹に耐えていた。
「〈なんで来ないんだよぉ…〉」
店屋物を注文して結構経つが、まだ誰も来ていないらしい。
カツ丼に思いをはせながら一時間は待っている。
警察署ではカツ丼。こんなことをこの前知り合った日本人から言われたので頼んでみたものの、やけに遅い。そんなに凝った料理なのだろうか?
空腹で腹が痛い。
気はまぎれない。
日本には何度か遊びに来たことがあるが、ここまでハードコアな場所だっただろうか。
日本通の友人が『福岡とあいりんはヤバい』なんて言っていた気もするが、ここは東京。しかも襲撃を受けたのは皇居の目の前だ。最も警備の厳しい地区だぞ。
「〈大丈夫ですか?〉」
婦人警官が声をかけてきた。
「〈大丈夫じゃねぇよ!お前らは怖くないのか!?交番を粉々だぞ!粉々!そんなヤツらに立ち向かえるのかよ!〉」
コイツラは壊れているんじゃないか?なんでどいつもこいつも交番を爆破されても平気な顔をしてやがるんだ?みんな狂ってやがる。
遠くで銃声がした。
「〈なんだよ。俺を殺すってか?殺してみろよぉ!〉」
英は発狂寸前だった。非日常の世界に放り込まれて精神は限界だった。
「ぐあぁ!」
階段からうめき声が聞こえる。
階段から出てきた黒尽くめは腰だめでネゲヴ軽機関銃を持っていた。
倒れている武装警官からM3913拳銃を持ち出す。
銃口が自分に向く。
銃を突きつける。
死ぬことを覚悟した次の瞬間
パンッ
軽機関銃には不釣り合いな小さな音がして黒尽くめは倒れた。
階段から現れた武装警官がUSPを持った手を下してこちらを向く。
「〈助かった…〉」
へたり込むと、英は気を失った。
*************
『韓国政府は今日の記者会見で、領空侵犯した空軍機は軍の若手将校の独走であることを発表しました』
「公式発表はこうくるか」
分室のテレビは全国ニュースを伝えていた。
「真実を知っているのは韓国政府上層部と我々だけか」
茅ヶ崎の言葉は重い意味を持っている。
我々が得た情報はWLS関連以外にも数多くあった。国家情報院が今回の北九州沖空戦に絡んでいるのは漢江物産経営陣への尋問で明らかになっていた。大統領令で対日攻撃の秘密命令を受けていたことも。
彼らは攻撃成功後の攪乱作戦に従事する。こうすることで日本国内に混乱を現出させる。
さらに東京都内でもテロを起こし、二正面作戦を行わせて物流を混乱させ経済を停滞させる。リーマンショックと東日本大震災以降の不景気を悪化させ、東アジアの大国から日本を引きずり出し、韓国がその座になり替わる。日本からは先端技術を産業スパイと使い捨て的ヘッドハンティングで奪い取り、資本を詐欺まがいの投資で吸い上げる。それを補助するのは日本の利権化・権力化したマスメディアだ。
しかし、空軍機の全滅という形で作戦は失敗に終わった。やむなく第二の目的に移ったわけだ。
「壮大な夢物語だ」
蓮池は呆れていた。
たしかに計画に穴がありすぎる。余程の大バカじゃない限りこんな計画など立てないだろう。本家CIA仕込みの陰謀の鬼、KCIAの流れをくむ国家情報院も落ちたものだ。
「で、第二の目的がWLSの殺害というわけだ」
「それにしても、どうするんだ。今あいつらの部隊は何処にいるのかわからないんだ」
蓮池は茅ヶ崎に問う
「大丈夫だ。あいつらにもう少し鞭を打ってみればわかる」
*************
明日は休み。明後日も休み。明後日も休みで、それから二日間学校に出たらそのまま連休だ。
携帯の着信音が鳴る。知らないアドレスだ。題名は『Rosenheim』
「どれどれ」
『ローゼンハイムです。土曜日から一緒に街を回りませんか?』
だいぶ丁寧な日本語だ。
それよりも土曜日にうちに来るのか。
「了承するか」
スマートフォンのタッチパネルで返信を選択すると画面をさらにタッチしQWERTYキーボードを起動する。フリックは自分の性に合わない。
「駅で落ち合いましょうっと」
本文で大丈夫であることを書くと送信を押す。
どうだろう。ちょっと待とう。
それにしても……
まんまと村田の策略に乗せられ、河合とのコネクションを破壊された。このままいけば村田はウィークポイントが増えた俺に対して攻勢をかけるだろう。俺かローゼンハイムに危害が加わることになる。それだけは避けないといけない。
人は不幸にさせてはいけない。
惚れた女を泣かせはしない。
何とも昭和チックなスローガンだが、いまだに心の奥底で練り飴のような粘り気で渦巻いている。
そして、ローゼンハイム姉妹の関係。いくら親しくともあそこまでするのはおかしいと思うのだ。
何があるのかは気になるところだが、そうそう聞けるものでもない。なんせプライバシーだ。
何とも憂鬱な感じがする。
「変な神様に愛されたもんだな……」
天井を見つめるしかできない。
何だろう。シングルマザーと再婚するおっさんの次は付き合っている異性が同性愛者だったっていうケースか。波乱万丈すぎるだろ、俺の恋路。こっちが告白されたのに。
「紅茶飲む~!?」
階下から聞こえる母の声。
「わかった!」
お茶で気分を紛らわそう。そうしないと訳が分からなくなりそうだ。
*************
『〈なんで、別れようとしないの?〉』
『〈しょうがないわ。あの人に近づかないと仕事はできない〉』
『〈わたしなら近づかなくてもやれる!〉』
『〈それじゃ目立ちすぎるわ!〉』
『〈目立った方が都合がいいわ。わたしはあの男が嫌いなの!殺させて!〉』
『〈ダメよエミリー。熱くなったら判断を誤るわ〉』
『〈最近お姉ちゃんは変わったよね!なんで!?なんでこんなところに来たの!?〉』
『〈……〉』
『〈わたしはあのままでよかった!ヨーロッパと北アメリカだけで仕事をしていればそれでよかった!〉』
『〈……〉』
『〈こんなところに居たらお姉ちゃん壊れちゃう!そんなの嫌!〉』
『〈……〉』
『〈もどろ。お姉ちゃん。スイスに帰ろ!〉』
『〈……〉』
『〈……なんで…。なんで答えてくれないの!?〉』
ちゅっ
『〈お…姉…ちゃ…ん……〉』
『〈そんなに、心配してくれていたのね……。心配させちゃって、ごめん〉』
真っ白いベッドの上で、私の膝枕に頭を載せてエミリーは寝息を立てていた。
いくら悲しそうなエミリーを慰めるためとはいえ、学校でキスするとは思わなかった。
つらそうな顔を見るのは嫌だった。
あの子は、いつも私の背中を見ていたんだ。
私が傷ついてほしくなくて、戦っていたんだ
エミリーはいつも私と居ようとした。
私が遠くへ行ってしまうんじゃないかと不安だからかもしれない。
「大丈夫。いつまでも一緒だよ」
膝枕の上のエミリーの頭をゆっくり撫でる。
あどけない顔が、いつまでも無垢であるように願いながら。
*************
珍しく服が気になる。
「俺にはきついな」
ファッション雑誌よりも軍事雑誌や、下手したら父の機械学会誌の方をよく読んでいるためか。いや、それどころかファッション雑誌なんて一生で一度も呼んだこともないためか。ファッションというものは苦手だ。中学時代は手芸部員だったのに。
ただ、ドッグタグは決めていた。意外なところで役立つだろうと思ってのことだ。
「すまない、悠!ファッションチェックお願い!」
こういう時に役立つのが母か妹だけ。しょうがない。
「どうしたのコウにぃ?」
「いや…その、デートでな」
「へ!?」
「その…なんというか」
「お母さん!お兄ちゃんがデートだって!」
悠は大声で母を呼ぶ。
「まあ!相手は?河合ちゃん?それとも他の娘?」
飛んできた母は目を輝かせて詰め寄ってくる。
「写真撮って来いって言ったドイツ人の娘」
「あの娘なの!?」
「そう」
「で、要件は?」
まだいっていなかったことをその時初めて気が付いた。
*************
「ごめん。待った?」
「大丈夫、ちょうど一分前に着いただけよ」
「良かった」
「むぅ」
「エミリーちゃんも?」
「いっしょにいくって言って聞かなくて」
「なるほどね」
エミリーちゃん。眼がギラついてません?
まるで俺が目の敵みたいで嫌だよ、その表情。
「じゃあ、行きましょうか」
時間からして私鉄側の駅ビルの百貨店も開いているはずだ。
「デパ地下だな、まずは」
「デパチカ?」
「デパートの地下の生鮮品コーナーのことさ。ここのパン屋のミニチョコクロワッサンがおいしいんだ」
エスカレーターで地下に下っていく。
出店しているパン屋のコーナーまですいすいと進み、ガラス張りの量り売りコーナーまで来た。
「?お客様。ご注文は?」
「すいません。ミニチョコクロワッサン六個ください」
「わかりました」
紙袋に六個入れると秤にかける。
100グラム何円で売っているからだ。
「174円です」
財布を広げるとちょうど174円出せた。
一旦百貨店を出て、駅ビル内の喫茶店に入って一息ついた。
「はい。どうぞ」
「ありがとう」
マリアは紙袋からミニチョコクロワッサンを一つとる。
「エミリーちゃんは?」
「…私は……」
「食べさせてあげよっか?あ~んして?」
なぜかためらうエミリーの口にマリアはミニチョコクロワッサンをちぎって近づける。
「…!いい。自分で、食べる……」
そういって一つ手に取って食べ始める。
なんというか、妹の扱い方が上手だな、マリア。見習いたいな、本当に。
「チョコレート入りのクロワッサンなんて初めて食べたわ。おいしいわね」
「気に入ってよかったよ」
まずは成功だろうか。
駅からすぐの商店街を通って目の前に石畳と古い木造建築が見えた。両脇に古ぼけたビルがある。
「ここが真清田神社。いうなればこの街の発展の中心だった場所だ」
この街の観光名所なんて手近のところはここくらいだ。外国人御用達な伝統的建造物だ。
「どうして中心に?」
「日本には城下町、宿場町、寺内町、門前町という都市形態があるんだ。城下町は城の周辺、宿場町は重要な宿の密集地の周辺、寺内町は寺の周辺、門前町は神社の周辺に発展した」
中学レベルの知識だがこういう時に役に立つ。
「つまり、この神社を中心として町が広がっていった?」
「そう。一宮は古代日本の、政治体制が中央集権型の大和朝廷時代に各領の最上級の神社として建てられた経緯を持つんだ。それが今まで維持されてきた」
「だから参拝者は多く、その集客力目当てで多くの店ができたってこと?」
「そういうこと」
「知り合いに教えてあげたいわ。史跡めぐりとかが好きな人がいるの」
渋い趣味の人と知り合いだな。
「ドイツの人か?」
「いえ。中国人よ」
SNSとかオンラインゲームで知り合ったのだろうか。
で、昼食だ。
そこまでお店を知らない身には、せいぜいハンバーガーが関の山だ。
駅構内に二つあるハンバーガーチェーンのショップのうち、少々値の張る方を選んでみた。俺はカツバーガーとオニオンポテトでドリンクはジンジャーエール。マリアはトマトの入ったオリジナルバーガーにフライドオニオン、ドリンクはアイスコーヒー。エミリーはフィッシュバーガーにフライドポテト、ドリンクはメロンソーダ。三者三様といったところか。
「ごめんな、ハンバーガーぐらいしか知らなくて」
「いいのいいの。お店も少なそうだったし」
「実は中心部より若干離れたところの方が目立つレストランが多いからね」
経験からしてそうだ。ファミレスは若干住宅街寄りに存在する。
実は百貨店の最上階にレストラン街もあるが、お金がかかりすぎるので選択肢からは早々に除外している。
右手でカツバーガーを手に取り一口。カツサンドは何とも罪作りな食べ物だ。パンに濃いソースのコンビネーションは、肉と千切りキャベツに抜群に会う。白米でもいいが、その時はもっとソースは少なくていい。パンの方がコメより味が濃いのだからソースが濃くてもいいのだ。
「だけどこういうのは初めてだわ。ファストフードのお店ってほとんど入ったこと無いから」
「そうか」
「親御さんが厳しかったんだな、こういうことに」
ふと呟いたことに二人は表情を曇らせる。
「…どうした?もしかして悪いこと言った?」
「……ううん!ちょっと……」
するとエミリーはすごい勢いで食べつくすと
「お姉ちゃん!もう帰ろ!」
「え!?ちょっと!」
エミリーがマリアを引っ張って店を出て行ってしまった。
「…まずいこと言っちまったのかな……?」
一人取り残された少年は呟く。
自分の無神経さに怒りすらこみあげてきた。
表情には現れなかったが。
*************
「何が起こったんだか」
自分の部屋で何が原因かを再度検証していた。
原因は親に関するあの発言以外に思い当たらない。
「親と仲が悪いのか?それとも……」
親がもういないのか。
だが、親がいないのなら、なぜ日本にわたってきたのだろう。
「謎だ……」
不意にスマートフォンが震える。見てみるとメールが来ている。
メールフォルダを見てみると神山からだ。
『緊急 ローゼンハイム姉妹に関して 今後接触は控えろ 危険人物の可能性あり 詳しくは明日 メールでは明かせない』
「なんなんだ、これ」
神山なんかがいたずらメールなどするわけがない。だが、ローゼンハイムに何があったんだ。
文面を見つめながら物思いにふけっているとまたメールが着信した。
今度はローゼンハイムからだ。
『今日はごめんね。あした、ショッピングモールに行こう!』
返信のボタンを押して文面をすぐに作る。
『こちらこそごめん。明日も駅で待ち合わせましょう』
ショッピングモールは郊外に立地する。マイカー層が客層の中心なのでそれ以外の層に向けて無料送迎バスがあったり、何気に最寄駅なら徒歩三分とかの立地にある。無料送迎バスは込み合うだろうから今回は最寄駅から徒歩で移動しようという魂胆だ。
「あとは……」
神山に返信する文面を考えた。
*************
幸太郎から返信が来た。
「なんて返ってきた?」
美里が問いかける。
「あした木曽川ショッピングモールで落ち合おうだって」
「悠長だな」
真田がいつになく真剣な表情になる。
「課長からの返答は?」
「明日までに帰ってこれる、とか」
「間に合わない可能性があるわけか」
「なんせ北九州沖空戦の件があるしな」
「よりにもよってか!」
「そう焦るな。ここにいるだけの人員をかき集めて武装させれば十分な戦力になる。稲垣副長と情報班員にもでてもらおう」
「早くしないとまずい!」
調べてみた結果は最悪だった。
ローゼンハイムは真っ黒なのだ。
このまま幸太郎と接触させていてはいけない。
幸太郎の命は裏社会で100万ドル以上の高値がついていた。
日本人民解放戦線が首領を殺した民間人として報復を画策していることはわかっていた。しかし、殺し屋に頼んでいたとはわからなかったのだ。
しかも、請け負ったのはWLS。
そして、ローゼンハイム姉妹がWLSの可能性が高いことを考えると急な接近も理解できる。殺し屋には恥も外聞も関係ないのだ。幸太郎を殺したらすぐに逃げるつもりだろう。
タイミングを逃し続けてきたツケが来たのだ。
拳をテーブルに叩き付ける。
自分の無力に腹が立つ。
「紀伊幸太郎保護のため、独自裁量で第一種警戒体制に移行!総員武装!明日、紀伊幸太郎とコンタクトする!課長へは事後承認を得る!」
*************
ここにきて久々に武器の手入れをしていた。いったんバラバラにしたデトニクス・コンバットマスターの機関部に油を注すとバレルとスプリングユニットをスライドに組み込み、フレームにスライドを戻す。スライドを少し引き、スライドストップをはめなおすと組み立て完了だ。
更にスライドを引ききって手を離すとスライドは規定位置に戻った。セーフティのロックを確認し、ハンマーをデコックする。
この銃の欠点は原型がコルト・ブローニングM1911A1故のシングルアクションだ。
撃つには一度、ハンマーを起こさないといけない。安全だけど、手間がかかるのだ。
少し煩わしいと何度も何度も思った。
だけどこの銃は手放せない。
私たちを変えてしまった銃だから。
私たちはノイブランデンブルクに生まれた。
中流家庭で、そこそこ幸せだったと思う。
パパが死ぬまでは。
私が8歳のころにパパは亡くなった。
自動車事故だった。
その日私はあの女が電話で楽しそうに話しているのを聞いたんだ。
パパを殺して、金持ちの男と結婚するつもりだったことを。
あくる日になって、あの女に連れられて、私たちは知らないおじさんたちの下に預けられた。しきりにかわいいと言って、身体をべたべた触ってきた。
おじさんの家といったぼろぼろのコンクリート建のビルに連れられて、訳が分からないままに妹と一緒にぬいぐるみばかりのベッドに座らされて、おじさんが戻ってくるといっぱいのビデオカメラを持っていて。
おじさんが襲い掛かってきたとき私は妹と逃げた。
息を荒げていて明らかにおかしかったから。怖かったから。
棚にあった拳銃で脅すつもりでおじさんに向けた。
ハンマーを起こすくらいはドラマで知っていた。
脅し文句を言ったとき指が力んで撃ってしまった。
拳銃のことなど何も知らなかったから。
呆気なく初めての殺人は成功した。
その時の拳銃がこのコンバットマスターだった。
どうにかして家に戻った時に、あの女は見知らぬ男に襲われていた。
助けようと拳銃で男を撃った。
男が倒れた後、あの女は私たちを見て『亡霊』と叫んだ。
あの男を救おうとしたから、すべてを悟った。
あの女を射殺して、私たちは家中からお金と宝石をかき集めてカバンに詰めて、当てもなく放浪することになった。
すぐにお金の限界に気が付いて、一か月もしたらひもじい思いもするようになった。
そんな時に男が手を差し伸べてくれた。
怖くて拳銃を突きつけた時、あの男はまったく怖がらずにこういった。
「俺がそいつとの付き合い方を教えてやる」
それからだった。私たちの新しい生活が回り始めたのは。
がばっ
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
夢?
机の前でいつの間にか眠っていたらしい。
毛布がかかっている。誰かが掛けてくれたらしい。
机の上にはメモ書きがあった。
『体を冷やすよ。気を付けて。 エミリーより』
エミリーは優しい女の子なんだ。
できればあの子には『こんなこと』をさせたくはない。
でも、彼女も同じ荊の道を進むことを決めたんだ。
薔薇の屋敷。
新しい一族の名前。
美しくも鋭い薔薇のように。
私たちは生きていくんだ。
*************
あの時もらったP230JPはまだ手元にある。
銃弾も一応ある。
神山の忠告があったということは、もしものことがあるかもしれないということだ。
空のマガジンに.32ACP弾を込める。フルロードにした後グリップにマガジンを差し込み固定する。ショルダーバッグに入れるとベッドに倒れ込む。
「俺の恋路は波乱万丈だな」
半ばあきれながら天井を見つめる。
明日は木曽川ショッピングモールだ。あそこには市内唯一のスターバックスがある。
結構面白いお店もある。おすすめは天然石のお店。でっかいアメジスト原石は見ものだ。
だが、気が気でなかった。偶然を装って神山と落ち合ってダブルデートっぽくして、そのままうまい具合に俺とローゼンハイム姉妹を引き離したときに情報を得る。
策はこれぐらいだ。
「補足情報を送るか」
メールを起動して文章を入力し始めた。
簡単な作戦だ。
小辞典
M37
S&W社製のリボルバー式拳銃。
ニューナンブの原形銃であるM36をアルミフレーム化したモデル。
装弾数は5発。.38スペシャル弾だが.357マグナム弾は使用できない。
ネゲヴ
イスラエルIMI設計・製造の軽機関銃/汎用分隊支援火器。
ミニミとほぼ同等の火器であるが、イスラエル独特の悪環境対応性を持ち、フォールディングストックを標準で搭載しているなどの特色がある。
メディアでもたまに登場する。
M3913
S&W社製の自動拳銃。
M39の短縮モデル。
日本警察の9ミリパラべラム弾を使用する拳銃の中でも小型の拳銃である。
アンフェアにはアンフェアで返したいときににどうぞ。