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英雄たちの末路、あるいは地獄の底の狂想曲

プツン、という無機質な音が、世界を断絶した。


勇者アレクの手の中で、通信魔道具のクリスタルが粉々に砕け散る。

それは単なる通信の切断ではない。

彼らをこの世に繋ぎ止めていた、最後の「命綱」が切れた音だった。


「あ……あぁ……」


アレクは震える手で、キラキラと零れ落ちるクリスタルの破片を呆然と見つめていた。

嘘だ。

嘘だ嘘だ嘘だ。

あのネイトが、自分を見捨てるはずがない。

あいつは幼馴染で、自分の影のような存在で、何を言ってもヘラヘラと笑って許していたではないか。

最後には必ず「分かったよアレク」と言って、自分の尻拭いをしてくれていたではないか。


それなのに。

『さようなら、英雄たち』だと?

『地獄の底で、仲良く喧嘩してくれ』だと?


「ふざけるな……! 戻ってこい……! 俺に命令するなああああ!!」


アレクの絶叫が、狭いキャンプ地に反響する。

だが、その声に応えるのは、頼れる相棒の苦笑いではない。

パキィン……ピキピキ……という、不吉な亀裂音だけだ。


頭上の結界発生装置。

その核となる魔石が、限界を超えた負荷に耐えきれず、どす黒く変色しながら崩壊を始めていた。

ネイトという「フィルター」を失ったことで、ダンジョンの瘴気を直接受け止め続けた結界石は、とっくに寿命を迎えていたのだ。


「いやぁぁぁぁ! 割れる! 結界が割れちゃう!!」


聖女リリィが頭を抱えて悲鳴を上げる。

彼女の目は極限まで見開かれ、焦点が定まっていない。

彼女の視界には、結界のひび割れから、無数の「小さな手」が侵入してくる幻覚が見えているのだ。


「入ってこないで! 私の肌に触らないで! 汚い! 汚らわしい!」


彼女は狂ったように自分の腕を掻きむしる。

美しい白磁の肌に赤い爪痕が刻まれ、血が滲むが、彼女は止まらない。

そこにうじが湧いていると信じ込んでいるからだ。


「おい、どうすんだよアレク! テメェ、なんとかしろよ!」


武闘家ガイルが、アレクの胸倉を掴み上げた。

その怪力に、アレクの体が軽々と宙に浮く。

ガイルの瞳は血走り、獣のような凶暴な光を宿していた。


「あ? なんだその目は。俺を見下してんのか? 勇者様だからって、俺を肉壁にするつもりだろ!」

「は、放せ! 俺は考えているんだ! 貴様こそ、俺を裏切るつもりか!?」

「裏切る? 最初から信用なんかしてねえよ! お前が報酬をピンハネしてるの、知らねえとでも思ってんのか!」

「何を……! それは必要経費だ! 俺の装備を整えることがパーティへの貢献だろ!」

「ふざけんな! 俺の酒代をケチりやがって!」


醜い言い争い。

本来なら、こんな時に仲間割れをしている場合ではない。

結界が消えれば、周囲を取り囲んでいる魔物の群れが一斉に襲いかかってくることは明白だ。

だが、思考がまとまらない。

脳味噌に泥を詰め込まれたように重く、正常な判断ができない。

『精神汚染』が、彼らの優先順位を狂わせ、「生存」よりも「感情の爆発」を選ばせているのだ。


パァァァン!!


けたたましい破砕音と共に、ついに結界発生装置が爆発した。

聖なる光のドームが、ガラス細工のように砕け散り、光の粒子となって消滅する。


瞬間。

世界が「反転」した。


今まで結界によって遮断されていた、深層の「真の闇」が雪崩れ込んでくる。

空気の味が変わった。

鉄錆と、腐った内臓と、甘ったるい死臭が混ざり合った、濃厚な瘴気。

それを肺に入れた瞬間、彼らの本能が警鐘を鳴らした。

――ここは、人間が生きていていい場所ではない。


「ヒッ……!」


弓使いのサラが、へたり込んだまま後ずさる。

結界が消えた暗闇の向こう。

無数の赤い光が灯った。

一つ、二つではない。百、二百……いや、もっと。

暗闇の全てが「目」で埋め尽くされている。


『グルルルゥ……』

『ギシャァァ……』


飢えた獣の唸り声。

骨と皮が擦れる音。

粘液が垂れる音。

それらが四方八方から、サラウンドで迫ってくる。

影狼シャドウ・ウルフだけではない。

巨大な蜘蛛の姿をした『アラクネ』、大鎌のような腕を持つ『マンティコア』、不定形の粘液生物『スライム』の上位種。

この階層の生態系の頂点に君臨する怪物たちが、結界の消滅を嗅ぎつけて集まっていたのだ。


「あ、あ、あ……」


アレクはガイルの手を振りほどき、聖剣を構えた。

だが、その切っ先は小刻みに震えている。


(勝てない)


勇者としての直感が、残酷な事実を告げていた。

万全の状態なら、連携が取れていれば、あるいは撤退戦くらいはできたかもしれない。

だが今の彼らは、満身創痍で、精神が崩壊し、互いを憎み合っている。

勝率など、ゼロですらない。マイナスだ。


「くそっ……くそぉぉぉぉ!! なんでだ! なんで俺がこんな目に遭うんだ!」


アレクは叫んだ。

恐怖を怒りに変換しなければ、立っていられなかった。


「お前ら! 構えろ! 死にたくなければ戦え!」


アレクの声に、誰も応じない。

リリィは自分の腕を掻きむしり続け、サラは弓を放り出して耳を塞いでいる。

唯一反応したのはガイルだが、彼は魔物ではなく、アレクの方を向いて大斧を構えていた。


「へへ……やっぱりな。テメェ、俺を囮にする気だろ。そうはさせねえぞ」

「ガイル、貴様正気か!? 後ろを見ろ! 魔物が来てるんだぞ!」

「うるせえ! 魔物はテメェだ! 俺を食おうとしてる口が見えてんだよ!」


ガイルの視界では、アレクの顔が巨大な魔物のあぎとに見えていた。

精神汚染が見せる悪夢。

仲間が怪物に見え、怪物が救済に見える。


「死ねぇぇぇ!!」


ガイルが咆哮と共に大斧を振り下ろす。

アレクは咄嗟に聖剣で受け止めるが、重量差がありすぎる。

ガギンッ! という衝撃音と共に、アレクの体が吹き飛ばされ、岩壁に叩きつけられた。


「ぐはっ……!」


肺から空気が強制的に排出される。

肋骨が数本折れたのが分かった。

味方の攻撃によるダメージ。

それが決定打となった。


「ギャァァァ!」


吹き飛ばされた隙を、魔物たちは見逃さなかった。

影狼の群れが、防御のなくなった陣形に殺到する。


最初の犠牲者は、サラだった。

彼女は耳を塞いでうずくまっていたため、抵抗すらできなかった。

影狼の牙が、彼女の細い首筋に深々と食い込む。


「あ……ご、ぼ……」


声にならない気泡音。

鮮血が噴水のように舞う。

彼女は最期まで、自分が何に殺されるのかすら理解していなかったかもしれない。

彼女の視界には、自分を殺しに来た狼が「泣いている赤ん坊」に見えていたからだ。

赤ん坊を抱きしめようとして、喉を食い破られた。

ある意味、幸せな死に方だったのかもしれない。


「いやぁぁぁ! サラが! サラが食べられてるぅぅ!」


その光景を見たリリィが、金切り声を上げる。

彼女はパニック状態で杖を振り回した。


「来ないで! 近寄らないで! 私は聖女よ! 王都の大聖堂で祈りを捧げる身なのよ!」


彼女の魔法が暴発する。

『聖なる爆炎ホーリー・バースト』。

無差別に放たれた光の爆発が、群がる影狼を吹き飛ばすが、同時にサラの遺体をも消し飛ばし、近くにいたガイルの背中を焼いた。


「ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!!」


背中を焼かれたガイルが絶叫する。

彼は振り返り、狂気に満ちた目でリリィを睨んだ。


「テメェ……! やりやがったな! やっぱりグルか! アレクと結託して俺を殺す気か!」

「ち、違う! 私は助けようと……!」

「嘘をつけ! 殺してやる! 全員ぶっ殺してやる!」


ガイルは目前の魔物を無視し、リリィに向かって突進した。

影狼がガイルの足に噛み付くが、彼は痛みすら感じていない様子で、それを引きずったまま走る。

アドレナリンと狂気が、痛覚を麻痺させているのだ。


「ひっ、やだ、助けてアレク!」


リリィが助けを求める。

だが、岩壁に叩きつけられたアレクは、動けなかった。

動けないどころか、彼はその光景を見て「笑って」いた。


「は、はは……。あいつら、何やってるんだ……」


アレクの瞳から、理性の光が消え失せていた。

目の前で繰り広げられる惨劇。

仲間が仲間を殺そうとし、魔物がその肉を貪る地獄絵図。

それが、あまりにも現実離れしすぎていて、アレクの脳は「これは劇だ」と認識し始めていた。


「そうか、これはドッキリだ。ネイトが仕組んだサプライズだ」


アレクはへらへらと笑いながら、血反吐を吐いた。


「出てこいよネイト。もう分かってるんだぞ。成功だ、大成功だよ。俺はビビったよ。だから、もう終わらせてくれ」


アレクは虚空に向かって手を伸ばした。

彼の視界には、暗闇の奥から、ネイトが歩いてくるのが見えていた。

いつも通りの、少し猫背で、目立たない格好をしたネイトが。


「ほら、やっぱり来た。……遅いぞ、ネイト。ポーションを持ってこい。最高級のやつだぞ」


アレクは安心しきった表情で、近づいてくる影に語りかける。

その影は、ゆっくりと、確実にアレクに近づいてくる。

巨大な、八本の脚を持つ影が。


一方、リリィの元にはガイルが到達していた。

ガイルはリリィの首を片手で締め上げ、宙に吊るしている。


「が、ぁ……っ! はな……し……!」

「死ね! 死ね! 俺を馬鹿にしやがって! 俺の背中を焼きやがって!」


ガイルはリリィの顔が紫色になるまで力を込める。

魔物がすぐ後ろまで来ているのに、彼は気づかない。

いや、気づいていてもどうでもよかった。

彼の世界は今、「目の前の裏切り者を殺すこと」だけで完結している。


ドスッ。


鈍い音がして、ガイルの胸板を太い針が貫いた。

マンティコアの尾だ。

猛毒を含んだ針が、心臓を一突きにしていた。


「あ……?」


ガイルは口から大量の血を吐き出し、力が抜けた手からリリィを落とした。


「な、ん……だ……?」


自分の胸から生えた異物を見下ろす。

痛くはない。ただ、寒い。

急激に体温が奪われていく。


「ちく……しょう……。酒……飲みてえ……な……」


ガイルの巨体が、どうと倒れる。

倒れた彼の体には、即座にスライムたちが群がり、溶解液で消化を始めた。

Sランク冒険者としての強靭な肉体も、死んでしまえばただのタンパク質の塊だ。


「げほっ、ごほっ……!」


地面に落ちたリリィは、激しく咳き込みながら酸素を貪った。

喉が潰されかけ、声が出ない。

目の前でガイルが溶かされていく音。ジュウジュウという肉の焼ける音が、食欲をそそるステーキの音のように聞こえてしまう自分に吐き気がした。


「い……や……」


リリィは這いつくばって逃げようとした。

だが、動かない。

足が、感覚がない。

見ると、彼女の自慢の美脚は、アラクネの糸でぐるぐる巻きにされていた。


「あ……あぁ……」


アラクネが、天井からするすると降りてくる。

その上半身は美しい人間の女性の姿をしているが、下半身は醜悪な蜘蛛だ。

アラクネはリリィの顔を覗き込み、ニタニタと笑った。


(綺麗な顔ねぇ。頂戴よ、その顔)


声なき声が聞こえた気がした。

リリィは絶望に染まった瞳で、自分の「代わり」になるはずだった男の名前を呼ぼうとした。


「ネ……イ……」


だが、その声が出ることはなかった。

アラクネの鋭い牙が、彼女の顔面に突き立てられたからだ。

聖女としての誇りも、美貌も、未来も、全てが毒液と共に溶かされていく。


          ◇


一人残されたアレクは、まだ笑っていた。


「おいおい、ネイト。そんな変な格好して、仮装パーティか?」


アレクの前には、巨大な影が立っていた。

それはネイトではない。

深層のヌシとも呼ばれる、漆黒のドラゴン――『アビス・ドラゴン』の幼体だった。

幼体といっても、全長は十メートルを超える。

その鱗はあらゆる魔法を弾き、その爪はダイヤモンドすら切り裂く。


だが、アレクの壊れた脳は、それを「着ぐるみを着たネイト」だと認識していた。


「いいから、早く助けろよ。リリィたちがうるさいんだ。……あれ? リリィたちはどこだ?」


周囲を見渡すが、仲間の姿はない。

あるのは、散乱した肉片と、それを啜る魔物たちだけ。

だが、アレクの脳内補正は、それを「眠っている仲間たち」に変換した。


「なんだ、みんな疲れて寝ちまったのか。しょうがない奴らだな」


アレクは聖剣を杖代わりにして、よろよろと立ち上がった。

そして、目の前のドラゴンに向かって、尊大な態度で手を差し出した。


「さあ、ネイト。俺を背負え。安全地帯まで運ぶんだ。それがお前の役目だろ?」


ドラゴンは、金色の瞳で眼下の人間を見下ろした。

恐怖も敵意も見せず、ただ無防備に手を差し出してくる餌。

数百年の時を生きてきたドラゴンにとっても、これほど理解不能な生き物は初めてだったかもしれない。


だが、ドラゴンに慈悲はない。

あるのは食欲だけだ。


ドラゴンが大きく口を開ける。

喉の奥で、業火が渦を巻く。


「ん? なんだ、温かいな。焚き火でも用意してくれたのか?」


アレクは、口の中に広がるオレンジ色の光を見て、嬉しそうに目を細めた。

ああ、温かい。

寒くて仕方がなかった体が、芯から温まるようだ。

やっぱりネイトは気が利く。

こいつは、俺のために暖房を用意してくれたんだ。


「ありがとう、ネイト。……お前、やっぱり最高の仲間だよ」


アレクは、心からの感謝を口にした。

それは、彼が生まれて初めて、ネイトに対して素直に礼を言った瞬間だったかもしれない。

皮肉なことに、それが彼の最期の言葉となった。


ゴォォォォォォォォッ!!!


ドラゴンの口から放たれた『深淵の吐息アビス・ブレス』が、アレクを飲み込んだ。

一瞬の苦痛すら与えない、超高温の黒い炎。

勇者アレクの体は、聖剣と共に一瞬で蒸発し、灰すら残さずに消滅した。


          ◇


静寂が戻った。


Sランクパーティ『暁の剣』。

数々の難関ダンジョンを攻略し、将来を嘱望された若き英雄たち。

彼らが全滅したことを知る者は、ここにはいない。

彼らの死体は魔物の胃袋に収まり、装備品は酸に溶かされ、その痕跡は完全に拭い去られた。


地上では、彼らの帰還を待つ人々がいるだろう。

ギルドは捜索隊を出すかもしれない。

だが、誰も彼らを見つけることはできない。


彼らが最後に残したのは、通信魔道具の向こう側にいる、かつての仲間に向けた罵倒と懇願だけ。

そして、その仲間は今頃、優雅な館で紅茶を飲み、美しい邪神と共に新しい歴史を刻んでいる。


地面に落ちていたアレクの通信魔道具の残骸を、一匹のスライムが飲み込んだ。

キラリと光った破片が、スライムの体内でゆっくりと溶けていく。


それはまるで、彼らの栄光と虚勢が、無慈悲な現実ダンジョンに消化されていく様を象徴しているようだった。


地下七十階層に、冷たい風が吹く。

そこにはもう、誰の声も響かない。

ただ、永遠に続く闇と、捕食者たちの息遣いがあるだけだった。

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