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第四話 届かないSOSと、優雅なる開拓者

カチャン、と白磁のカップがソーサーに戻される音が、静寂な空間に心地よく響いた。


立ち昇る芳醇な湯気。

ベルガモットの爽やかな香りが、鼻腔をくすぐる。

口に含めば、渋みの一切ない透き通った味わいが広がり、喉を潤していく。

それは、地上の一流ホテルで振る舞われる紅茶よりも、遥かに香り高く、魔力に満ちた一杯だった。


「……美味い」


俺、ネイト・クロウは、深く息を吐き出しながらソファの背もたれに体を預けた。

背中を包み込むのは、最上級の魔獣の革をなめして作ったクッションだ。

かつては固い地面に薄い布一枚で寝ていた背中が、今は羽毛のような柔らかさに甘やかされている。


「本当? ネイトの口に合ってよかった!」


俺の向かい側で、満面の笑みを浮かべているのは、銀髪の美少女――邪神ミスティだ。

彼女は今、黒いゴシックドレスの上に、フリルのついた白いエプロンをつけている。

この屋敷のメイド服だ。俺が『深淵創造アビス・クリエイト』で作り出した服だが、驚くほど似合っている。


「ミスティが淹れてくれたからな。格別だよ」

「えへへ……。魔界の湧き水を使って、適温で蒸らしてみたの。あ、スコーンも焼けたよ! 『地獄麦』を粉にして焼いたやつ!」


彼女がテーブルに置いた皿には、こんがりと黄金色に焼けたスコーンが並んでいる。

地獄麦。地上では猛毒とされる植物だが、適切に毒素(魔力)を処理すれば、栄養価が高く、バターのような濃厚な風味を持つ食材になる。

サクッとした食感と共に、甘い香りが口いっぱいに広がる。


「これも絶品だ。……信じられないな。数時間前まで、泥水と干し肉で食いつないでいたなんて」

「かわいそうなネイト。でも、もう大丈夫。これからは毎日、私が美味しいものを作ってあげるからね」


ミスティが身を乗り出し、テーブル越しに俺の手を握る。

その手は温かい。

かつて世界を震え上がらせた「死の冷たさ」は、もうどこにもない。

俺が彼女の余剰魔力を吸い取り続けているおかげで、彼女はただの「魔力が多すぎる元気な女の子」として安定していた。


俺たちがいるのは、地下百階層に作り出した「深淵のアビス・マンション」のリビングだ。

窓の外には、俺が浄化し、作り変えた美しい庭園が広がっている。

発光する苔をランタン代わりに配置し、毒々しい色の植物たちを品種改良して鮮やかな花壇にした。

そこはもう、死の世界ではない。

俺とミスティだけの、誰にも邪魔されない楽園だ。


「平和だな……」


俺は心からの言葉を漏らした。

耳鳴りがない。

幻聴がない。

誰かのイライラした足音も、理不尽な罵声も、舌打ちも聞こえない。

ただ、穏やかなクラシック音楽のような魔力の共鳴音と、ミスティの可愛らしい鼻歌だけが聞こえる。


「あ、そうだネイト。お代わり淹れる?」

「ああ、頼むよ」


ミスティがティーポットを持ち上げた、その時だった。


ビーッ、ビーッ、ビーッ!!


優雅な空間に、場違いな電子音が鳴り響いた。

テーブルの隅に置いてあった、小さなクリスタル。

俺がパーティを追放された時、荷物の中に紛れ込んでいた「緊急通信用魔道具」だ。

アレクが投げつけた荷物の中に、たまたま入っていたのだろう。


ミスティが不快そうに眉をひそめる。


「……なに、これ。すっごく嫌な音がする。壊していい?」


「いや、待ってくれ。……心当たりがある」


俺は苦笑しながら、そのクリスタルを手に取った。

発信元の魔力波長は、よく知っているものだ。

アレク、リリィ、ガイル、サラ。

かつての仲間たちの魔力が、混然となって悲鳴を上げている。


「タイミングが良いというか、悪いというか……」


俺はクリスタルを見つめた。

無視してもよかった。

だが、彼らが今「どんな状態」なのか、確認して引導を渡してやるのも、かつての仲間としての最後の情けかもしれない。

いや、正直に言おう。

俺は確認したかったのだ。

俺がいなくなった彼らが、どれほど滑稽に踊っているのかを。


「……繋いでみるよ」


俺は指先に魔力を込め、通話ボタンを押した。


『――ア、あ……たすけ……!』


繋がりざま、鼓膜をつんざくような絶叫が飛び込んできた。

それはリリィの声だった。

だが、かつての可憐で澄ました猫なで声ではない。

喉が裂けんばかりの、獣のような悲鳴だ。


「はい、こちらネイト・クロウ。どちら様ですか?」


俺は努めて明るく、礼儀正しく応答した。

紅茶の香りを楽しみながら。


『ネイト!? ネイトなのね!? お願い、助けて!! 死んじゃう! 私たち、死んじゃうのぉぉ!!』


リリィが泣き叫ぶ。

背景からは、何かが砕ける音、魔物の咆哮、そして男たちの怒号が聞こえてくる。

まさに阿鼻叫喚の地獄絵図だ。


「リリィか。どうしたんだ、そんなに大声を出して。せっかくのティータイムが台無しだよ」

『ティータイム!? 何言ってるのよ! こっちは影狼の大群に囲まれて……アレクが腕をやられて、ガイルが発狂して……!』

『貸せ! 俺が話す!』


ドゴッ、という鈍い音と共に、通信の主が代わった。

アレクだ。

息が荒く、言葉の端々に血の匂いが滲んでいる。


『ハァ……ハァ……! ネイト! 生きてるんだな!? だったら今すぐ戻ってこい! これは命令だ!』

「命令?」


俺は思わず笑ってしまった。

この期に及んで、まだ自分が上の立場だと思っているのか。


「アレク、君は勘違いをしているようだ。僕はもう『暁の剣』のメンバーじゃない。君がクビにしたんだよ。覚えているかな?」

『うるさい! 那の時は少し気が立っていただけだ! お前が必要なんだよ! お前がいないと……変なんだ!』


アレクの声が震え始める。


『影狼が……消えないんだ! 斬っても斬っても湧いてくる! それに、リリィの回復魔法が俺を焼くんだ! ガイルは俺の背中を狙ってるし、サラはずっと虚空に向かって謝り続けてる……! お前、何をした!? 何の呪いをかけたんだ!!』

「呪い、か」


俺はため息をつき、ソーサーにカップを置いた。

ミスティが心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。俺は彼女に「大丈夫」と目配せをして、通信機に向かって淡々と告げた。


「アレク。僕は何もしていないよ。ただ、君たちの『排泄物』を処理するのをやめただけだ」

『は……? 何を……』

「君たちが今見ている幻覚、感じている恐怖、疑心暗鬼。それは全部、君たち自身の心の中にあるものだ。君の傲慢さ、リリィの嫉妬、ガイルの劣等感、サラの弱さ。ダンジョンの瘴気がそれを増幅させているんだ」


俺はずっと、それを見てきた。

彼らの笑顔の裏にある、ドロドロとした感情を。

それを俺の『深淵の精神』というフィルターで濾過し、綺麗な水として返してやっていた。

彼らが飲んでいた「勝利の美酒」は、俺という浄化装置を通した安全な水だったのだ。


「フィルターがなくなれば、汚水が溢れるのは当たり前だろう? 君たちは今、自分たちが垂れ流した汚物の中で溺れているんだよ」

『ふ、ふざけるな! 俺たちが……汚物だと!? 俺は勇者だぞ! 選ばれた人間だぞ!』


アレクが激昂する。

だが、その声には以前のような覇気はない。

自分の足元が崩れ去っていく恐怖に、震えている子供の声だ。


『頼む……ネイト……戻ってきてくれ……。お前がいれば、元通りになるんだろ? 報酬なら弾む! 俺の装備をやる! 金だって……!』

「いらないよ」


俺は即答した。


「ここには、君の聖剣よりも価値のある宝がある。君の金貨よりも輝く時間がある。何より、ここには『不快なノイズ』がない」


俺はリビングを見渡した。

豪華な調度品、美しい庭園、そして俺を慕ってくれる最高のパートナー。

この平穏と引き換えにする価値など、地上のどこを探しても見当たらない。


『ま、待て! 見捨てるのか!? 幼馴染だろ!? 仲間だろ!?』

「仲間?」


俺の口調が、自然と冷徹なものに変わった。


「仲間なら、なぜ僕の話を聞こうとしなかった? なぜ、僕が苦しんでいる時に笑っていた? なぜ、僕をゴミのように捨てた?」

『それは……』

「君たちは僕を仲間だなんて思っていなかった。ただの便利な『道具』、あるいはストレス発散のための『サンドバッグ』としか見ていなかった。……違うかい?」


沈黙が返ってきた。

肯定だ。

彼らも心の底では分かっていたのだ。自分たちの罪を。


『――助けて……』


再び、リリィの声が聞こえた。

今度は悲鳴ではなく、蚊の鳴くような、消え入りそうな懇願だった。


『ごめんなさい……ネイト……。私、間違ってた……。貴方が好きだったの……。いじめてたのは、気を引きたかったから……。だから……お願い……』


その言葉を聞いた瞬間、俺の隣でミスティが動いた。

彼女は俺の手から通信機をひったくると、マイクに向かって氷のような声で言い放った。


「――黙れ、下衆女」

『え……? だ、誰……?』

「ネイトは私のものだ。貴様のような性根の腐った女が、気安く名前を呼ぶな。その汚れた声で愛を語るな。反吐が出る」


ミスティの瞳が真紅に輝き、通信機越しでも伝わるほどの殺気――いや、神威カムイが放たれる。


「貴様らは、自分たちが捨てた宝石の輝きに目が眩んで、泥の中でのたうち回っていればいい。それが、神の裁きだ」


ミスティの宣告は、死刑判決のように響いた。

向こう側で、リリィが「ひっ」と息を呑む音が聞こえる。


「ミスティ……」


俺は驚いて彼女を見た。

彼女は頬を膨らませ、通信機を俺に返してきた。


「ごめん、ネイト。我慢できなかった。……あんな女の言葉、聞かなくていいよ」

「……ありがとう」


俺は彼女の頭を撫でた。

そうだ。俺にはもう、守るべき人がいる。

過去の亡霊に構っている暇はない。


通信機からは、まだアレクたちの声が聞こえていた。

だが、それはもう言葉になっていなかった。


『うあぁぁ! くるな! くるなぁぁ!』

『私の足が! 足がぁ!』

『誰か! 誰か助けてくれぇぇぇ!!』


結界が完全に消滅したのだろう。

あるいは、彼らの精神が完全に崩壊し、互いに殺し合いを始めたのかもしれない。

断末魔の叫び。肉が裂ける音。絶望の合唱。


俺はカップに残った紅茶を一口飲み干すと、静かに告げた。


「さようなら、英雄たち。地獄の底で、仲良く喧嘩してくれ」


パキッ。


俺は指に力を込め、クリスタルを粉々に砕いた。

ノイズが消え、絶叫が途絶える。

リビングに、再び静寂と、クラシック音楽のような魔力の調べが戻ってきた。


手の中にあるのは、ただのガラスの破片だけ。

俺と彼らを繋いでいた最後の絆は、今、完全に断ち切られた。


「……終わった?」


ミスティが、心配そうに俺の顔を覗き込む。

俺は破片をゴミ箱に捨て、彼女に向き直った。

不思議と、胸の痛みはなかった。

あるのは、憑き物が落ちたような清々しさと、未来への希望だけ。


「ああ、終わったよ。これでもう、完全に自由だ」


俺は立ち上がり、ミスティの手を取った。

彼女の手は柔らかく、そして力強かった。


「さて、ミスティ。お茶の後はどうする? 庭の拡張でもするか? それとも、地下温泉でも掘ってみるか?」


俺の提案に、ミスティはパァッと顔を輝かせた。


「温泉!? いいね! ネイトと一緒に入りたい!」

「あー……まあ、完成したらな」

「約束だよ! 絶対だよ!」


彼女が無邪気に俺の腕に抱きついてくる。

その温もりを感じながら、俺は窓の外を見た。

どこまでも続く暗闇の地底。

だが、今の俺には、ここがどんな場所よりも輝いて見えた。


『暁の剣』の冒険は、今日ここで幕を閉じた。

そして今ここから、俺と邪神による、新たな国作り――『深淵の開拓記』が始まるのだ。


かつての仲間たちがどうなったか、俺が知る由もない。

ただ、俺たちが幸せになること。

それこそが、彼らに対する最大の復讐であり、最高の「ざまぁ」なのだから。


俺はミスティの肩を抱き寄せ、これからの未来に思いを馳せて微笑んだ。

紅茶の香りは、いつまでも甘く、優しく部屋を満たしていた。

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