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第三話 崩壊する『暁の剣』、始まりの狂気

地下七十階層、安全地帯。

そこは本来、強力な聖なる結界によって魔物の侵入を拒み、瘴気を中和して冒険者に安息を与える場所だった。

焚き火の暖かな光、携帯食料ながらも温かい食事、そして何より頼れる仲間たちとの語らい。

それらは、過酷なダンジョン攻略における唯一の救いであるはずだった。


しかし今、Sランクパーティ『暁の剣』のキャンプ地を支配しているのは、安らぎとは対極にある、粘りつくような沈黙と、冷たい緊張感だった。


「……ッ、ガッ!」


静寂を破ったのは、勇者アレクが酒杯を地面に叩きつける音だった。

陶器の砕ける乾いた音が響き、中に入っていた最高級の赤ワインが、まるで血痕のように地面に広がる。


「おい、どうしたんだよアレク。せっかくの祝い酒だぞ?」


武闘家のガイルが、口元を肉の脂でぎらつかせながら怪訝な顔を向ける。

アレクは荒い呼吸を繰り返し、自身の口元を手の甲で乱暴に拭った。


「なんだこの酒は……腐ってるぞ! 酢でも混ぜたのか!?」

「あ? 何言ってんだ。それは王都の馴染みの店で仕入れたヴィンテージだろ。俺も飲んでるが、普通に美味いぜ?」

「嘘をつくな! 鉄錆と腐った血の味がしたぞ!」


アレクが充血した目で怒鳴り散らす。

その剣幕に、ガイルは肩をすくめたが、その瞳の奥には不快に歪んだ色が宿っていた。

(なんだコイツ、急に喚き散らしやがって。俺が毒でも盛ったとでも言いたいのか?)

口には出さないが、その猜疑心は確実にガイルの胸中に芽生えていた。


「もう、うるさいわね……。食事くらい静かにできないの?」


聖女リリィが、不機嫌そうにカトラリーを置く。

彼女の皿には、半分も手をつけていないスープが残っていた。

彼女の顔色は、蝋人形のように白く、額には脂汗が滲んでいる。


「リリィ、お前こそ顔色が悪いぞ。どこか具合でも悪いのか?」


弓使いのサラが心配そうに声をかけるが、リリィはその手をパシリと振り払った。


「触らないで! ……汚いわね」

「え……?」

「その手よ。泥だらけじゃない。そんな手で私の聖衣に触れないでちょうだい。カビが移るわ」


サラは自分の手を見た。

確かにダンジョン探索中なので多少の汚れはあるが、リリィが言うような泥まみれではない。

だが、リリィの視界には、サラの腕が腐敗したゾンビのようにただれ、蛆が湧いているように見えていたのだ。

これもまた、精神汚染が見せる幻覚の一種である。


「なによそれ……。私だって毎日手入れしてるわよ。リリィこそ、さっきから独り言ばかり言って、気味悪いわ」

「なんですって!? 誰が気味悪いですって!?」

「あんたよ! 誰もいない虚空に向かって『ごめんなさい』とか『私じゃない』とかブツブツ言って……頭おかしくなったんじゃないの?」

「――ッ!!」


リリィが立ち上がり、サラを睨みつける。

その目は、慈愛に満ちた聖女のそれではなく、ヒステリーを起こした悪鬼のようだった。


「私が……私が頭がおかしいですって!? 私は選ばれた聖女よ! 神の声を聞く者よ! おかしいのは、私の食事に毒を混ぜたアレクと、私をいやらしい目で見ているガイル、そして私に嫉妬している貴女の方じゃない!」

「はあ!? 誰が嫉妬なんて!」

「俺がいやらしい目だと!?」

「俺がいつ毒を盛った!」


全員が同時に立ち上がり、怒号が飛び交う。

焚き火の炎が、彼らの歪んだ影を岩肌に大きく映し出す。

その影は、まるで彼らを嘲笑うかのように揺らめいていた。


彼らは気づいていない。

今までこのパーティが円満だったのは、彼らの人格が優れていたからではない。

彼らの心に生じる些細な苛立ち、不安、猜疑心といった「負の感情」を、ネイトというゴミ箱が全て吸い取っていたからに過ぎないのだ。

ゴミ箱を捨てた部屋がどうなるか。

答えは簡単だ。悪臭とゴミで溢れ返る。


「……チッ、くだらねえ。俺は寝るぞ」


ガイルが吐き捨てるように言い、武器の手入れを放り出して寝袋に潜り込んだ。

他の三人も、互いに背を向け合い、険悪な空気のままそれぞれの場所へ散っていく。

見張り?

「誰かがやるだろう」という甘えと、「こいつらと話したくない」という拒絶が、基本的なルールすら忘れさせていた。


結界があるから大丈夫だ。

ここは安全地帯だ。

そう信じ込んでいた。

だが、精神汚染パラノイアにとって、物理的な結界など何の意味も持たないことを、彼らはすぐに知ることになる。


          ◇


深夜。

重苦しい空気が漂うキャンプ地に、異音が響いた。


『グルルルゥ……』


低く、湿った獣の唸り声。

アレクはハッと目を覚ました。

熟睡などできていなかった。目を閉じた瞬間から、ネイトが奈落の底から這い上がってきて自分の首を絞める悪夢を見続けていたからだ。


「……敵襲か!?」


アレクが聖剣を掴んで飛び起きる。

結界のすぐ外、暗闇の中に、無数の赤い瞳が光っていた。

影狼シャドウ・ウルフ』の群れだ。

深層では雑魚に分類される魔物だが、群れで行動し、隙を見せた獲物を執拗に狙う狡猾さを持つ。


「おい、起きろ! 敵だ!」


アレクが叫ぶが、仲間の反応は鈍かった。

ガイルは寝ぼけ眼で「あぁ?」と不機嫌な声を上げ、リリィは「きゃあ!」と悲鳴を上げて頭を抱え、サラは震える手で弓を探している。


「何してる! 早く構えろ! 結界が破られるぞ!」

「うるせえな! わかってらぁ!」


ガイルが大斧を担いで立ち上がる。

だが、その足取りはふらついていた。平衡感覚が狂っているのだ。

本来なら、ネイトが事前に『探知』で接近を察知し、闇魔法で目くらましを入れている間に体勢を整えるのが常だった。

だが、今はその「当たり前」がない。


ガッ、と結界に爪が立てられる。

聖なる光が明滅し、影狼の一匹が強引に頭をねじ込んできた。


「入ってきた! ガイル、前衛だ! 引きつけろ!」


アレクが指示を飛ばす。

しかし、ガイルは動かなかった。


(……待てよ。なんで俺が先なんだ?)


ガイルの脳裏に、汚染された思考が走る。

(アレクの野郎、俺を囮にして自分だけ助かろうとしてるんじゃねえか? さっきの食事の時も、俺のことを嘲笑っていた。間違いない、俺を殺して報酬を独り占めする気だ)


「おいガイル! 何してる!」

「指図すんじゃねえ! テメェが行けよ勇者様!」

「なっ!?」


前衛が機能しない。

その隙に、影狼が二匹、三匹となだれ込んでくる。

安全地帯が一瞬にして修羅場と化した。


「くそっ! やるしかない!」


アレクは聖剣を振るう。

光刃ライトニング・エッジ』――聖なる光を刃に乗せて放つ必殺技。

だが、その軌道は大きくズレていた。

視界が歪んでいる。影狼が三匹に分裂して見えるのだ。

空振りした剣が虚しく空を切り、無防備になった脇腹に影狼の牙が食い込む。


「ぐあぁっ!!」

「アレク!」


リリィが悲鳴を上げる。

回復、回復しなければ。

彼女は杖を構え、治癒魔法の詠唱を始める。


「聖なる癒しよ、彼の傷を塞ぎたまえ……『ヒール』!」


光が降り注ぐ。

しかし、その光が向かった先は、アレクではなかった。

影狼だった。


「は……?」


アレクが絶望の声を漏らす。

傷ついた影狼が、リリィの魔法によってみるみる回復し、毛並みを良くして唸り声を上げた。


「な、なんで……? 私はアレクを狙ったのに……」


リリィの手が震える。

彼女の視界では、アレクと影狼の位置が逆に見えていたのだ。

空間認識能力の欠如。これもまた、精神汚染の典型的な症状だ。


「リリィ! 貴様、俺を殺す気か!?」

「ち、違うの! わざとじゃないの!」

「ふざけるな! サラ、援護だ! 早く射て!」


サラは弓を引き絞っていた。

だが、彼女は矢を放つことができなかった。

彼女の目には、影狼の背中に「人間の赤ん坊」が乗っているように見えていたからだ。

泣き叫ぶ赤ん坊。

それを射抜くことへの忌避感が、彼女の指を凍りつかせていた。


「無理……無理よ……赤ちゃんがいる……」

「はあ!? 何を言ってるんだ! ただの狼だろ!」

「いるのよ! こっちを見て泣いてるの! 撃てないわ!」

「クソッ! どいつもこいつも!!」


アレクは血を流しながら、一人で剣を振り回した。

連携などない。

互いが互いを邪魔し、足を引っ張り合う。

本来ならBランクパーティでも対処できる相手に、Sランクの『暁の剣』が蹂躙されていく。


「あがッ……!」


ガイルが腕を噛みちぎられた。

サラが足を爪で裂かれた。

リリィは恐怖のあまり失禁し、その場にへたり込んでいる。

アレクの自慢の聖剣は、刃こぼれし、その輝きを失っていた。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


なんとか群れを追い払った時には、全員が満身創痍だった。

地面は血の海となり、高価なポーションの空瓶が散乱している。

生き残った。

だが、それは勝利とは程遠い、惨めな敗走に等しかった。


「……なんでだ」


アレクが、血まみれの顔で呻いた。


「なんでこんなことになる……。俺たちは最強のパーティじゃなかったのか……?」


痛い。

傷口が焼けるように熱い。

だが、それ以上に心が寒い。

誰かが、自分を見ている気がする。

暗闇の奥から。

あるいは、仲間の背中から。


「……お前のせいだ」


ガイルが、血走った目でアレクを睨んだ。


「お前が指示をミスったからだ。お前がビビって剣を外したから、俺が噛まれたんだ」

「なんだと……? 俺のせいだと? お前が命令無視をしたからだろうが!」

「うるせえ! 大体、お前がネイトを追い出すからこうなったんだ!」


禁句だった。

その名前が出た瞬間、場の空気が凍りついた。


「……ネイト?」


リリィが、虚ろな目で呟く。


「そうよ……ネイト。彼がいた時は、こんなことなかった。彼が、魔法で目くらましをして、私たちの位置を調整して、怪我をしたらすぐにポーションを投げてくれて……」

「黙れ!」


アレクが叫んだ。


「あいつは役立たずだ! 陰気な疫病神だ! いなくなって正解だったんだ!」

「でも現に私たちは死にかけたわ!」


サラが泣き叫ぶ。


「変なのよ! 体が重いし、頭が痛いし、変な声が聞こえるの! ネイトが……あいつが何か呪いをかけたんじゃないの!?」

「呪い……」


その言葉に、アレクはハッとした。

そうだ。そうに違いない。

自分たちが弱いわけがない。

自分たちが無能なわけがない。

これは、あの陰湿な男が、去り際にかけた呪いのせいだ。

そう考えれば、全ての辻褄が合う。


「あいつだ……ネイトの仕業だ……!」


アレクの瞳に、狂気じみた光が宿る。

自分の失態を認めるよりも、他者を恨む方が精神的に楽だからだ。

汚染された精神は、安易な「犯人探し」へと彼らを誘導していく。


「許さない……許さないぞネイト……。俺たちをハメやがって……」

「でも、どうするのよ!?」


リリィが髪をかきむしりながら叫ぶ。


「もうポーションも残り少ないわ! 結界魔道具も壊れかけだし、食料だって……」

「救援だ」


アレクは震える手で、懐から通信用の魔道具を取り出した。

王都のギルド本部と直接通話ができる、緊急用のアーティファクトだ。


「ギルドに連絡して、救援を呼ぶ。……いや、違うな」


アレクは歪んだ笑みを浮かべた。


「あいつを呼び戻すんだ。ネイトを」

「は? 何言ってるの? 殺そうとした相手が戻ってくるわけないじゃない」

「戻ってくるさ。あいつは幼馴染だし、俺たちのことが好きだったからな。泣いて謝れば、きっと戻ってくる」


それは、あまりにも都合の良い妄想だった。

だが、精神が摩耗しきった彼らにとって、それは唯一の縋れる希望だった。

ネイトに戻ってきてもらって、呪いを解かせる。

そして、安全になったら――またこき使ってやればいい。

この期に及んで、彼らはまだ自分たちが「上の立場」だと思っていた。


「貸して、私が話すわ」


リリィが通信機をひったくる。


「私の声なら、きっと断れないはずよ。だって、あいつはずっと私を見ていたもの」

「待て、俺が話す!」

「俺だろ!」


醜い奪い合いの末、通信機が起動した。

ノイズ混じりの音と共に、魔力回線が繋がる。


『――はい、こちらネイト・クロウ。どちら様ですか?』


その声は。

彼らが今まで聞いたことがないほど、明るく、張りがあり、そして理知的な響きを持っていた。

背景からは、優雅なクラシック音楽のような旋律と、小鳥のさえずりが聞こえてくる。


地獄の底で血に塗れた彼らとは対照的な、天国からの声。


「ネ、ネイト!? 私よ! リリィよ!」


リリィが通信機にしがみつくように叫ぶ。

その表情は、救いを求める亡者のようだった。


「大変なの! 私たち、今すごいピンチで……怪我人もいて、ポーションもなくて……!」

『ああ、リリィか。奇遇だね、ちょうど今、ティータイムをしていたところなんだ』


通信機越しに、カチャン、と上品なティーカップの音が響く。


「て、ティータイム……? 何言ってるの? あんた、奈落に落ちたんじゃ……」

『落ちたよ。でも、ここは思ったより快適でね。……それで? ピンチだっけ?』

「そ、そうよ! だから早く助けに来なさいよ! あんたの呪いのせいで、私たちはボロボロなのよ!」

『呪い?』


ネイトの声が、ふっと冷ややかなものに変わった気がした。

いや、それは気のせいではない。

絶対零度の侮蔑が、通信機を通して伝わってくる。


『……まだ、そんなことを言っているのか』

「な、なによその言い方は! 私たちはSランクパーティよ! あんたみたいな落ちこぼれ、置いていってあげたのに……!」


リリィの言葉は、支離滅裂だった。

プライドと恐怖と依存が混ざり合い、言葉にならぬ叫びとなる。


横からアレクが通信機に向かって怒鳴った。


「ネイト! 命令だ! 今すぐ戻ってこい! そうすれば許してやる! パーティに戻してやってもいい!」


沈黙。

数秒の静寂の後、ネイトの笑い声が聞こえた。

それは彼らを嘲笑うものではなく、心底不思議そうに、そして憐れむような笑いだった。


『――アレク。お前たち、本当に気づいてないんだな』

「あ?」

『まあいい。そのままそこで、自分たちの「正体」と向き合ってくれ。……ああ、そうだ』


ネイトの声が、楽しげに弾む。


『そっちの結界、あと十分も持たないと思うよ。僕が吸い取っていた分の負荷が、結界石にかかってるはずだから』

「な……ッ!?」


アレクが慌てて結界発生装置を見る。

その中心にある魔石は、どす黒く変色し、今にも砕け散りそうにヒビが入っていた。

あと十分。

いや、数分も持つかどうか。


「う、嘘だろ……? おい、ネイト! 待て! 切るな!」

『じゃあね。二度と連絡してこないでくれ。こちらの空気が悪くなる』


プツン。

無慈悲な切断音。

それと同時に、パキィン! と高い音が鳴り響き、キャンプ地を守っていた聖なる結界が砕け散った。


「あ……」


結界が消えた瞬間。

周囲の闇が、一気に濃度を増して押し寄せてきた。

そして、暗闇の奥から無数の赤い瞳が――さっきの影狼の比ではない、深層の魔物たちの瞳が、一斉に彼らに向けられた。


「いやぁぁぁぁぁぁぁ!!」


リリィの絶叫が、奈落の闇に吸い込まれていく。

地獄の釜の蓋は、今、完全に開かれた。

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