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第二話 禁忌の地での邂逅と、覚醒

落下した地点は、腐敗した大地の底だった。

『奈落の顎』の最下層、深度一万メートル。

日光など届くはずもなく、頭上を覆うのは幾重にも重なった暗黒の岩盤と、その隙間を縫うように漂う濃密な瘴気だけだ。


普通なら、絶望する状況だろう。

出口はなく、空気は猛毒、魔物は地上とは比較にならないほど凶悪。

だが、俺、ネイト・クロウの心は、これ以上ないほど晴れやかだった。


「……空気が、うまい」


思わず口に出して、自分でも笑ってしまった。

この最下層に充満しているのは、空気というよりも液状化した『呪詛』に近い。

一度吸い込めば肺が焼け爛れ、二度吸い込めば脳髄が沸騰して発狂死する。そんな劇薬だ。

しかし、俺の身体にとって、それは極上の栄養剤だった。


俺はゆっくりと立ち上がり、自分の掌を見つめた。

今まで俺の手は、常に小刻みに震えていた。

指先は冷たく、血の気はなく、まるで老婆の手のように枯れ果てていた。

アレクたちの精神的排泄物を処理し続けるために、生命力すら削っていたからだ。


だが、今はどうだ。

肌には瑞々しい張りがあり、血管には熱い血が巡っているのがわかる。

震えなど微塵もない。

軽く拳を握りしめると、パキパキと小気味よい音が鳴り、全身に力がみなぎるのを感じた。


近くにあった水たまり――いや、どす黒いヘドロのような液体が溜まった場所を覗き込む。

そこには、見知らぬ男の顔が映っていた。


「……これが、俺か?」


頬のこけは消え、土気色だった肌は健康的な白さを取り戻している。

うつろだった瞳には、闇の中でさえ鋭く光る理知的な輝きが宿っていた。

伸び放題でボサボサだった黒髪も、瘴気を浴びたせいか艶を帯び、不思議とまとまりを見せている。

自分で言うのもなんだが、そこらの貴族令息よりもよほど整った顔立ちをしていた。


「はは……。あいつら、『陰気な顔』だなんて言っていたが……」


俺を陰気な顔にしていたのは、他ならぬお前たちだったんじゃないか。

皮肉な事実に、乾いた笑いが漏れる。

だが、不思議と怒りは湧いてこなかった。

怒りという感情すら、今の俺には「不純物」として消化されてしまうのかもしれない。あるいは、あまりにも快適すぎて、過去の不快な記憶などどうでもよくなっているのか。


「さて」


俺は軽く首を回し、周囲を見渡した。

視界は良好。闇魔法の特性を持つ俺にとって、暗闇は昼間よりも鮮明に見える。

ここが『禁忌の地』と呼ばれる未踏領域であることは間違いない。

地面には見たこともない奇怪な植物が根を張り、遠くからは地鳴りのような魔物の咆哮が聞こえてくる。


目的などない。

地上に戻る義理もない。

ただ、この自由を謳歌したい。

そう思った時、俺の魔力感知ソナーが、ある一点から放たれる強烈な反応を捉えた。


「なんだ、これ……?」


背筋がゾクリとするような感覚。

恐怖ではない。圧倒的な質量への畏怖だ。

この空間に満ちている瘴気のすべてが、まるで「そこ」から湧き出しているかのような、源泉としての気配。


「……行ってみるか」


俺は足を踏み出した。

一歩進むごとに、空気の粘度が増していく。

普通の人間なら、この圧力だけでミンチになっているだろう。

だが俺は、『深淵の精神アビス・マインド』を全開にし、押し寄せる狂気の波を片っ端から吸収し、歩を進めた。

歩けば歩くほど、魔力が回復し、身体能力が向上していく。

永久機関のような全能感が、俺の足を軽やかにさせた。


瓦礫の山を越え、毒の沼を渡り、たどり着いたのは、巨大な地下空洞だった。

天井の高さは数百メートルはあるだろうか。

その中央に、それはあった。


巨大な、黒水晶の檻。

その中に、一人の少女が囚われていた。


「……綺麗だ」


思わず、そんな言葉が漏れた。

少女は、人間ではなかった。

透き通るような銀色の髪は、重力を無視してふわりと広がり、その先端は夜空のような黒へと溶け込んでいる。

肌は病的なまでに白く、纏っているのは漆黒のドレスのような、あるいは翼のような有機的な何か。

そして何より異質なのは、彼女の周囲に漂う「音」だった。


耳で聞こえる音ではない。

脳に直接響く、不協和音。

悲鳴、慟哭、怨嗟、狂笑。

数億人の人間が同時に発狂したかのような、精神を破壊する情報の奔流が、彼女を中心に渦巻いているのだ。

彼女こそが、この魔境の「核」であり、すべての汚染の発生源なのだろう。


俺が近づくと、少女がゆっくりと瞼を開いた。

その瞳は、真紅。

血の色よりも深く、見る者の魂を吸い込むような赤だった。


『――愚かな』


声が、頭の中に直接響いた。

鼓膜を介さない、念話だ。

その一言だけで、普通の人間ならショック死していただろう威圧感があった。


『人間か。いや、人の皮を被った別の何かか? 我が結界の内に、正気を保ったまま踏み入るとは』


少女の視線が俺を射抜く。

そこには明確な殺意と、それ以上の「哀れみ」があった。


『立ち去れ。虫ケラよ。我が封印に近づけば、貴様の矮小な魂など瞬きする間に塵となるぞ』


警告。

だが、俺にはそれが、寂しげな拒絶に聞こえた。

彼女から放たれる狂気の波には、「近づくな」という拒絶と同時に、「誰か助けて」という悲痛な叫びが混じっていたからだ。

俺の能力は、そういう「本音」まで拾ってしまうらしい。


「立ち去れと言われてもな。俺もここ以外に行く場所がないんだ」


俺は肩をすくめて、さらに一歩近づいた。

少女の眉がピクリと動く。


『聞こえていないのか? 此処は禁忌の地。我はかつて世界を恐怖に陥れ、神々によって封印されし厄災。邪神ミスティルテインであるぞ』


邪神。

なるほど、その二つ名に相応しいプレッシャーだ。

彼女の放つオーラは、先ほどまで俺が食べていた瘴気とは桁が違う。

例えるなら、腐った水と、最高級のヴィンテージワインほどの差がある。


「邪神ミスティルテインか。長いからミスティでいいか?」

『……は?』


少女――ミスティが、呆気にとられたような顔をした。

数千年の封印の中で、そんな馴れ馴れしい口を利く人間に会ったことがないのだろう。


「俺はネイト。しがない元冒険者だ。……それにしても、辛そうだな」

『何を……』

「その溢れ出る力、制御できていないんだろう? 封印の檻が狭すぎて、自分の魔力に溺れかけている。違うか?」


俺の指摘に、ミスティの瞳が揺れた。

図星だったようだ。

彼女は強大すぎるがゆえに、自分自身が生み出す狂気に蝕まれている。

封印という名のコルクで栓をされた瓶の中で、発酵し続けるガスが限界まで膨張している状態だ。


『貴様に何が分かる……! 近寄るな! 我が瘴気に触れれば、貴様は……!』


ミスティが叫ぶと同時に、黒水晶の檻からどす黒い波動が放たれた。

物理的な衝撃を伴う、精神汚染の津波だ。

岩盤が砕け、空間が歪む。

Sランク冒険者パーティ全員が束になっても、一瞬で消し飛ぶほどの破壊力。


だが。


「『深淵の精神アビス・マインド』――捕食」


俺は右手をかざし、その津波を正面から受け止めた。

衝突の衝撃はない。

俺の掌に触れた瞬間、狂気の波は渦を巻き、急速に俺の体内へと吸い込まれていく。


甘い。

濃厚で、芳醇で、痺れるような極上の味。

アレクたちの腐った感情とは比べ物にならない、純粋で強大な「力」の味だ。


『な……っ!?』


ミスティが目を見開く。

放たれた波動が、霧散するのではなく「食べられた」ことに気づいたのだ。


「うまいな。これだけの魔力量、地上じゃまずお目にかかれない」


俺は唇を舐め、さらに一歩踏み出した。

黒水晶の檻の前まで、あと数メートル。


『馬鹿な……あり得ない……! 我が呪いを、喰らったというのか!? 貴様、何者だ!』

「ただの掃除屋だよ。お前のそれが『毒』だと言うなら、俺にとっては『主食』だ」


俺は檻に手をかけた。

バチバチと音を立てて、封印の結界が俺の手を弾こうとする。

だが、その結界すらも、俺にとってはエネルギー源でしかない。

封印を維持している神聖魔力と、中から溢れる邪神の魔力。その両方を同時に吸い取る。


パリン、と。

呆気ないほど簡単に、黒水晶に亀裂が入った。


『やめろ……! 封印を解けば、世界が……!』

「世界なんて知るかよ。俺が助けたいのは、苦しそうな顔をしてる女の子だけだ」


俺はさらに力を込める。

亀裂が広がり、眩い光と共に檻が砕け散った。


中から崩れ落ちてきたミスティの体を、俺は両腕で受け止めた。

軽い。

世界を滅ぼす邪神とは思えないほど、華奢で柔らかな感触。

だが、接触した肌からは、核融合炉のような熱量で狂気が流れ込んでくる。


『う、あぁ……っ!』


ミスティが苦悶の声を漏らす。

暴走しかけている魔力が、彼女の精神を焼き尽くそうとしていた。

俺は彼女の背中に手を回し、優しく囁いた。


「大丈夫だ。全部、俺が貰ってやる」


意識を集中する。

彼女の中で暴れまわる余剰なエネルギー、数千年分の怨念、孤独、絶望。

その全てを、根こそぎ吸い上げる。

俺の『深淵の精神』が、歓喜の声を上げて膨大な力を飲み込んでいく。


ドクン、ドクン、と。

俺とミスティの心臓の音が重なる。

彼女の顔から、苦悶の色が消えていく。

代わりに浮かんだのは、恍惚とした安らぎの表情だった。


『……あ……、ん……』


熱に浮かされたような吐息が、俺の耳にかかる。

彼女にとって、生まれて初めて感じる「静寂」なのだろう。

常に頭の中で鳴り響いていたノイズが消え、ただ温かい安らぎだけが残る。


数分、あるいは数時間そうしていただろうか。

完全に安定したミスティの魔力を確認して、俺は吸引を止めた。

彼女の真紅の瞳が、とろんとした色を帯びて俺を見上げる。


『……貴様、は……』

「ネイトだ」

『ネイト……』


彼女は俺の頬に、震える指先で触れた。


『暖かい……。我に触れて、壊れないものが、存在するなんて……』

「言っただろ。俺は丈夫なのが取り柄なんだ」

『……ズルいぞ』


ミスティは涙ぐみ、俺の胸に顔を埋めた。


『こんなの……好きに、なってしまうではないか……』


その言葉と共に、彼女の体から放たれていた威圧感が完全に消え失せた。

代わりに残ったのは、主人に甘える忠犬のような、全幅の信頼と依存の気配だけだった。


「さて、と」


俺はミスティを抱きかかえたまま、周囲を見渡した。

封印が解けたことで、地下空洞は静まり返っている。

だが、こんな瓦礫と毒沼の中で生活するわけにはいかない。

幸い、今の俺にはミスティから吸い取った、一生かかっても使い切れないほどの魔力がある。


「家を作るか」


俺は地面に手をかざした。

イメージするのは、かつてアレクたちと泊まった王都の最高級ホテル……いや、それ以上に快適な我が家だ。


「『深淵創造アビス・クリエイト』」


吸収した狂気を「物質」へと変換する応用魔法。

今まで魔力不足で使えなかった大魔法が、息をするように発動した。


ズズズズズ……と地響きが鳴り、毒沼が干上がり、地面が隆起する。

黒曜石で作られた堅牢な土台の上に、優美な白亜の壁がせり上がる。

窓ガラスが入り、屋根が架かり、庭園には枯れない魔界の花々が咲き乱れる。

ものの数分で、殺風景だった地下空洞の一角に、王侯貴族の別荘も裸足で逃げ出すような大豪邸が出現した。


「……やりすぎたか?」


さすがに想像以上の出来栄えに苦笑する。

腕の中のミスティが、目を丸くして屋敷を見つめていた。


『……すごい。これ、全部ネイトが?』

「ああ。これから二人で暮らすんだ。狭い檻よりはマシだろ?」

『……二人で……』


ミスティがその言葉を反芻し、そして花が咲くように微笑んだ。

それは「邪神」などという二つ名が嘘のような、年相応の少女の笑顔だった。


『うん! 一緒に暮らす! ネイトの傍なら、どこだって天国だもの!』


彼女は俺の首に腕を回し、嬉しそうに頬ずりをしてくる。

その柔らかな感触と、周囲に漂う「我が家」の安心感。

俺は心から息を吐き出した。


「ああ、そうだな。天国だ」


地上では今頃、アレクたちが地獄を見ているかもしれない。

いや、間違いなく見ているだろう。俺がいなくなったことの代償を、身を持って知っているはずだ。

だが、今の俺にはそんなことはどうでもよかった。


目の前には、俺を必要とし、俺が守るべき可愛い「邪神様」がいる。

そして、誰にも邪魔されない自由な生活がある。

復讐? ざまぁ?

そんな陰湿なことを考える暇があるなら、俺はこの子と優雅なティータイムでも楽しむとしよう。


俺たちは新居の扉を開けた。

そこには、明るい光と、温かい日常が待っていた。


          ◇


禁忌の地で、かつてない平和な生活が始まった頃。

地上に近い七十階層では、血と絶望に塗れた「崩壊」が始まろうとしていた。

彼らが、自分たちの愚かさに気づくまで、あと数時間――。

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