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雨粒のガントチャート

<雨粒のガントチャート>


## 目次


1. 祝福は予定通り

2. ガラスの掲示板

3. 雨のキックオフ

4. 余白のない現場

5. 崩れた予定

6. 病院の白い廊下

7. 消えない録音

8. 鍵のない会議室

9. 正しい失敗

10. 選ばなかった未来

11. 雨粒のガントチャート

12. 余韻としての朝


---


## 1. 祝福は予定通り


その日は、すべてが予定通りに進んでいた。


会議室の壁はガラスで、外の曇天が薄く透けて見える。蛍光灯の白が、机の上の資料の角に冷たい影を落としていた。結衣は、スライドの切り替えに合わせて呼吸を整える。声の高さも、間の取り方も、今日のために何度も音読して調整した。


「では、立ち上げ初月は“運用定着”ではなく“救助フェーズ”から入ります」


“救助”。その単語がスクリーンに現れた瞬間、顧客側の役員の眉がわずかに動いた。結衣はそれを見逃さない。


この案件は大きい。プロジェクト管理DXのSaaSを、全国拠点に横展開する。現場の工程、承認、稼働、人員、会議体。すべてをひとつの画面に束ねる。成功すれば、会社にとって今年最大の実績になる。


結衣にとっては四社目だった。


新卒で大手証券会社のリテール営業を経験し、数字の厳しさと人の弱さを骨で覚えた。次にヘルスケアDXへ転職し、病院という“命の現場”にシステムを持ち込む怖さを知った。上場の鐘の音も、そのとき聞いた。三社目はECショップ向けのSaaSベンダー。店主の生活と、画面のクリック数が直結する世界で、数字の向こうにいる人間の息遣いを学んだ。


そして四社目。プロジェクト管理のDX。時間そのものを扱う仕事。遅れを見つけ、手当てし、二度と同じ遅れを起こさないように設計する。


結衣は、この仕事が自分に似合うと思っていた。似合うというより、ここに辿り着くために今までのキャリアがあったように感じていた。


最後のスライドを終えると、会議室に拍手が起きた。乾いていて、短い。でも、確かな音だった。顧客側の役員がひとつ頷く。


「分かった。進めよう」


その一言で、社内の空気がふっと緩む。結衣の背中に積み上がっていた緊張が、少しだけほどけた。


会議が終わったあと、上司が近づいてきて、結衣の肩を軽く叩いた。


「結衣、さすが。君なら取れるって言っただろ」


彼の手は温かい。だが結衣は、笑いながらも胸の奥に小さな棘のようなものを感じた。勝ちの空気は甘い。甘いからこそ、口の中に残る苦味にも気づいてしまう。


勝った。

また勝ってしまった。


---


## 2. ガラスの掲示板


証券会社の一年目、結衣は“ガラスの掲示板”を見上げるのが癖になっていた。


支店のフロアの一角、ガラス張りの壁に、成績が貼り出される。数字は冷たい。でも、その冷たさが、結衣には救いでもあった。感情を挟まずに評価されるのは、単純で分かりやすい。


ある冬の夕方。掲示板の上位に自分の名前が載った日、結衣はビルの回転ドアを抜けた瞬間、頬を刺す風の冷たさに笑った。世界が少し明るく見えた。


その数日後、転落はやってきた。


相場が急変し、顧客の一人が大きな損を抱えた。電話口の声は怒りではなく、落胆だった。


「君は、私の人生を数字で見ていたんだね」


結衣は言葉を失った。受話器越しの沈黙が伸びるほど、胸が苦しくなった。数字の正しさが、誰かを傷つける瞬間がある。結衣はその時、初めて知った。


――正しいことが、正しくないことになる。


ヘルスケアDXに転職したのは、逃げでも、挑戦でもあった。病院の廊下の消毒液の匂いに慣れるまで、結衣は何度も胃をきゅっと縮めた。便利さを導入することで、人の顔を見る時間が減るかもしれない。その恐怖が常にあった。


上場の日、鐘の音は乾いていた。拍手も乾いていた。笑顔の写真も撮った。だが、どこかで結衣は自分に問い続けていた。


――私は、誰を救っているんだろう。


ECのSaaSでは、数字が生活に直結していた。店主の指先には倉庫の段ボールで擦れた跡が残っている。請求書の青い印刷が、月末の不安を濃くする。売上が上がっても、孤独が増えることもある。それも結衣は見た。


そして今。プロジェクト管理。

結衣は時間を売り、遅れを減らし、現場の負担を軽くするはずだった。


はずだった。


---


## 3. 雨のキックオフ


キックオフ当日、雨が降っていた。


雨粒は細かく、ビルの窓を白く曇らせる。結衣が傘を畳むと、柄の先から雫が落ち、床に小さな円を作った。その円がいくつも重なっていくのを、結衣は一瞬ぼんやりと見つめてしまう。まるで遅延が波及していくときのように。


会議室に入ると、顧客側のPM――高橋が先に来ていた。三十代後半。視線は柔らかいが、背筋がまっすぐで、現場の信頼がそのまま姿勢になっているような人だった。


「結衣さん、今日からよろしくお願いします」


高橋の握手は強すぎず弱すぎず、湿り気が少ない。無駄がない。結衣はこの人がいるなら大丈夫だ、と思った。


だがその直後、扉が開いた。


スーツの肩に雨の跡を残した男が入ってくる。相沢。結衣の胸が、ほんの少しだけ跳ねた。


ヘルスケアDXの会社で同期だった。上場の前夜、誰よりも冷静に資料を整えていた男。結衣が辞めるとき、最後まで引き留めず、笑って送り出した男。


――なのに、連絡は途切れた。


相沢は顧客側の外部アドバイザーとして同席するらしい。席に着く前、結衣と目が合い、彼はほんのわずかに口角を上げた。笑っているのに、どこか硬い。結衣は、その硬さが何なのか分からないまま、説明を続けた。


「初月は“救助フェーズ”です。現場が疲弊しない導入にします。完璧に詰めません。呼吸の場所を作ります」


“呼吸”。その言葉に、高橋が小さく頷いた。

顧客役員は腕を組んだまま、視線だけをスクリーンに向けている。


「前のベンダーも似たようなことを言った。“見える化”だ、“標準化”だ。結局、現場は疲弊した。うちには余力がない」


役員の声は淡々としていた。淡々としているからこそ、過去の傷が深いと分かる。会議室の空気が硬くなる。


結衣は、説明しない。体験に変える。


「余力がないの、分かります。だから最初に“空白”を置きます」


ガントチャートを映す。色分けされたタスクの列。その中央に、一本の白い帯。余白。


「ここは、何もしません」

「何もしない?」

「はい。現場で何かが起きる前提で、呼吸の場所を作ります。完璧に詰めるほど、壊れます」


そう言い切った瞬間、結衣の胸が少し痛んだ。痛みは、本気の証拠だ。


会議は、ひとまず予定通りに終わった。

だが、結衣の中でひとつの違和感が残った。


相沢は、ほとんど喋らなかった。

ただ、時々、結衣の言葉に目だけで反応していた。


その視線が、なぜか怖かった。


---


## 4. 余白のない現場


導入は、順調に見えた。


進捗は常に予定を上回り、遅延はゼロ。社内のチャットは称賛で埋まる。上司は「この案件で君は一気に上がる」と言った。


結衣は毎週、顧客の拠点に足を運んだ。現場の会議室はいつも明るく、資料は整理され、タスクは閉じられていく。だが、その明るさの奥に、妙な乾きがあった。


休憩室で、現場の女性リーダーが笑いながら言った。


「すごいね。遅れないね。でも、息つく暇ないね」


冗談のような口調。周りも笑う。結衣も笑って返す。


「慣れれば楽になりますよ。最初は、どの現場もそうです」


口に出してから、胸の奥がチクンとした。あの証券会社の電話口の沈黙が、どこかで鳴った気がした。


――“慣れれば”って、誰のための言葉だろう。


結衣は、その痛みを見ないふりをした。

進捗は予定通り。

数字は正しい。

正しいものが、間違いであるはずがない。


ある夜、顧客のチャットにメッセージが流れた。


《高橋さん、今日も遅くまでありがとう》

《助かりました》

《明日もお願いします》


結衣は、その言葉の数が増えていくほど、胸の奥が冷えるのを感じた。感謝は、時に“依存”の仮面をかぶる。


翌週、高橋は少し痩せて見えた。

目の下に薄い影がある。

それでも彼はいつもの声で言った。


「大丈夫です。現場も頑張ってます」


“頑張ってます”。

その言葉は、危険信号のことが多い。結衣は、ヘルスケアの現場で何度も聞いた。誰かが倒れる直前に、よく出る言葉だ。


結衣は言いかけて、飲み込んだ。

「休んでください」と言ったところで、プロジェクトは止まらない。止めれば評価が落ちる。評価が落ちれば、また誰かが責められる。


結衣は、気づいていた。

自分の設計は“遅れ”を許さない。

だから誰も、助けを呼べない。


余白を作ったはずだった。

でも余白は、ガントチャートの中にしかなかった。


---


## 5. 崩れた予定


崩れる時は、いつも唐突だ。


雨の朝だった。駅のホームでスマホが震え、結衣は顧客側の総務からの短い連絡を見た。


《高橋が倒れました。しばらく休職します》


結衣の足元が、一瞬浮いた。

ホームのアナウンスが遠くなる。

周囲の人の傘が、ゆっくり揺れる。


「倒れたって……」


口に出した声が、見知らぬ人のものみたいだった。


顧客のオフィスに着くと、空気が重かった。会議室の机にはまだ高橋の飲みかけのペットボトルが置かれている。キャップが半分だけ締まっていて、そこに焦りが残っているように見えた。


現場の人たちは、結衣を見ても笑わなかった。

目線が、どこかで揃っている。

責める目ではない。

諦めに近い目だ。


高橋の代わりに出てきた若手が、言った。


「正直……皆、限界でした」


彼の手が小さく震えていた。指先で資料の角を何度も撫でる。紙の感触で、自分を保とうとしているみたいに。


「遅れないように、隠してました。遅れを出すと、責められる気がして。助けてって言うと、評価が下がる気がして……」


結衣は息を吸って、吐けなかった。

胸の奥に何かが落ちる。重い石のように。


「計画は……」と結衣は言いかけた。

だが、その後に続く言葉が、喉の奥で崩れた。


計画は正しい。

正しいのに、人が壊れた。


――正しいことが、正しくないことになる。


証券会社の電話口の沈黙が、また鳴った。

今度は、目の前で。


---


## 6. 病院の白い廊下


結衣は、その足で病院に向かった。


高橋が運ばれたという病院。ヘルスケアDX時代に何度も通った、あの匂いのする場所。自動ドアが開くと、消毒液と暖房の乾いた空気が混ざり合い、鼻の奥を刺す。


白い廊下。

白い天井。

白い床。

その白は、清潔なのに、どこか冷たい。


受付で面会の手続きをし、結衣はエレベーターを待つ。鏡に映った自分の顔が、驚くほど無表情だった。無表情のまま、目だけが濡れていた。


病室の前で、深呼吸をする。ドアノブが冷たい。

扉を開けると、高橋がベッドに横たわっていた。点滴のチューブが腕に刺さり、薄い毛布が胸を覆っている。顔色は悪くない。けれど目は閉じたままだ。


横に、妻らしき女性が座っていた。彼女は結衣を見ると、頭を下げた。


「来てくださってありがとうございます」


その声は丁寧で、疲れていた。目の下に影がある。睡眠不足の影だ。


結衣は言葉を探した。

謝罪を。説明を。弁明を。

でも、それらは全部、病室の空気の中で浮いた。


妻が続ける。


「高橋、ずっと言ってました。“遅れを出したくない”って。責任感が強くて……でも、最近は家でもずっとPC開いて。夜中に何度も起きて。食事も取らなくて」


結衣の胸が、ぎゅっと縮む。

“遅れを出したくない”。

それは結衣が作った世界の言語だ。結衣が売った価値だ。


結衣は、ベッドの脇に立ち、そっと高橋の手元を見る。指先が少し乾いている。紙を触りすぎた人の指だ。

結衣は、その指先に“人間”を見た。


「……すみません」


声が震えた。謝罪しか出てこない。

妻は、首を振る。


「責めてません。ただ……このまま戻ったら、また壊れる気がして。どうにか、なりませんか」


その言葉は、懇願だった。

結衣の胸に、火がついた。


どうにかする。

しなければならない。

でも、どうやって。


病室を出ると、廊下の窓に雨が当たっていた。

雨粒がガラスを滑り、筋を作る。

その筋が、涙みたいに見えた。


---


## 7. 消えない録音


帰り道、結衣は傘を差さなかった。

雨がコートに染み込み、冷たさが肌に張り付く。冷たいのに、頭の中は熱かった。


スマホを取り出す。指先が濡れて反応が鈍い。

奥深くに残っていた、古い録音データを見つける。タイトルもない。日付だけが残っている。


ヘルスケアDX企業の上場前夜。

結衣が非常階段で録った声。


再生ボタンを押す。

自分の声が、雨音の向こうから聞こえる。


《もし、正しい選択が誰かを壊すなら、

それは正しくないって言える人でいたい》


若い声。震えている。

言葉の端が少し濡れている。泣きそうな声。


《私は、役に立てる人でいたい。

でも、役に立つって、誰の目線なんだろう。

笑顔の数じゃない。

自分が、自分を裏切らないことだ》


結衣は立ち止まり、雨の中で目を閉じた。

録音の言葉が、今の自分を裁く。


自分は裏切った。

“遅れない”を売って、人を壊した。

その事実が、胸の奥で重く鳴る。


スマホが震えた。相沢からだ。


《このまま進めば、現場は持たない》

《君の計画は正しい。でも正しさが刃になってる》

《会える?》


結衣は、指先で画面を強く押した。雨が画面を濡らし、文字が滲む。


会う。

会って、言う。

自分の正しさが、人を壊したことを。

そして、変えることを。


---


## 8. 鍵のない会議室


相沢と会ったのは、会社近くの古い喫茶店だった。

コーヒーの苦い匂いと、カウンターの木の乾いた香りが混ざり、雨で冷えた身体を少しだけ温める。


相沢は、先に来ていた。コートの袖口が少し濡れている。

結衣が席につくと、彼はカップを置いて言った。


「高橋さん、倒れたんだって」


結衣は頷いた。喉が詰まって、声が出ない。

相沢は続ける。


「君の設計は、綺麗だ。無駄がない。……でも、無駄がないってことは、逃げ道もないってことだ」


結衣は唇を噛む。

相沢は、まっすぐ結衣を見た。


「君、上場前夜に録音してたよね」

結衣の背筋が冷える。

「なんで知ってるの」

「見かけた。資料取りに戻って。君が“もし明日が終わったら”って言って……」


相沢は言葉を飲み込む。

結衣は、目を逸らさず待った。

喫茶店の奥でスプーンがカップに当たる音がした。妙に現実的で、胸が痛い。


「“正しい選択が誰かを壊すなら、それは正しくないって言える人でいたい”って。君、言ってた」


結衣の胸に、熱いものが込み上げた。

「今の私は……言えてない」

声が掠れる。

「正しさで、人を壊した」


相沢は静かに首を振る。

「君だけのせいじゃない。現場の文化も、会社の都合もある」

「でも、私が設計した」

結衣は言い切った。言い切ることでしか、逃げないでいられなかった。


相沢は、しばらく黙ってから言った。


「結衣。計画を引き直すなら、会社は嫌がる。売上も評価も落ちる。君は……大丈夫なの?」


結衣は答えようとして、言葉が詰まった。

大丈夫なはずがない。

上司は勝てると言った。勝てる計画を出せと言う。

ここで引き直せば、負けになる。

そして負けは、社内で“罪”になる。


結衣は、コーヒーの熱を舌で確かめた。苦い。

苦いのに、口に残る香りは優しい。


「大丈夫じゃない。でも……このまま進めば、また誰かが壊れる」


相沢は頷き、静かに言った。


「俺は、君の選択に賭けたい。……でも、立場上、賭けられないかもしれない」


その言葉の意味を、結衣はすぐには理解できなかった。

ただ、胸の奥がひやりとした。


喫茶店を出ると、雨は少し弱くなっていた。

二人は会社の会議室へ向かった。夜のオフィスは静かで、廊下の照明が床に細い光を落とす。


会議室のドアは、鍵がかかっていなかった。

誰もいない空間。

結衣は、その“鍵のない”感じに救われるような、怖いような気持ちになった。


結衣はノートPCを開き、ガントチャートを映す。美しい線。美しい色。美しい予定。


相沢が言った。


「この線、誰が守ってる?」

結衣は答えられない。

相沢は続ける。

「守ってるのは、人だ。人が守れなくなったら、線は凶器になる」


結衣は、マウスを握り、線を消した。

タスクを削る。期限を延ばす。レビュー回数を減らす。

“遅れ”を前提にする。


画面の美しさが崩れていく。

その崩れが、結衣には痛かった。

でも痛いからこそ、生きている感じがした。


「余白を……本当に作る」


結衣は、声にならない声で言った。

相沢は、頷いた。


その時、結衣のスマホが鳴った。上司からだ。

結衣は、一瞬だけ躊躇ってから出た。


「結衣。進捗、最高だな。役員が褒めてた。来週の全社で表彰だ。――絶対に崩すなよ」


“崩すな”。

その言葉が、結衣の胸を刺した。


結衣は、雨粒みたいに散らばる思考を、ひとつにまとめた。

そして言った。


「崩します」


電話口が沈黙する。

証券会社のあの沈黙と同じ質感がした。


「……何を言ってる」

上司の声が低くなる。

結衣は、呼吸を整えた。説明ではなく、体験で言う。


「高橋さんが倒れました。現場は限界でした。遅れを出せない空気が、人を壊しました。私の設計が刃になりました。だから、計画を引き直します。売上が落ちても、評価が落ちても。人を壊さない計画にします」


沈黙。

そして、上司の短い吐息。


「感情論だな。数字は……」

結衣は被せない。待つ。

上司が言う。

「結衣、君のキャリアに傷がつくぞ」

その言葉は脅しでもあり、心配でもあった。


結衣は、小さく笑いそうになった。

キャリアに傷。

今まで自分は、傷を避けるために正しさを磨いてきた。

でも傷を避けることが、誰かを傷つけるなら。


「傷がつくなら、つけます」


結衣はそう言って電話を切った。

切った瞬間、手が震えた。

怖い。

でも、怖いからこそ、これは選択だ。


---


## 9. 正しい失敗


役員会議は、翌朝だった。


結衣は一睡もできなかった。眠ろうとすると、高橋の指先と、妻の疲れた目が浮かぶ。

雨音が窓を叩くたび、録音の言葉が胸の中で繰り返された。


会議室の空気は冷たかった。

役員たちは正しい顔をして座っている。正しい顔は、時に人間味を削る。


上司が結衣を見て、目だけで“言うな”と言った。

結衣は、その視線を受け止める。


結衣は、資料を開かなかった。

まず、言った。


「計画を引き直します」


空気がざわつく。

「何を今さら」

「遅延ゼロだろ」

「うちのストーリーが崩れる」


結衣は、心臓が暴れるのを感じた。

それでも声を落ち着かせた。


「遅延ゼロは、現場が“遅れを隠した”結果でした。助けを呼べない設計が、人を壊しました。高橋さんが倒れました」


役員の一人が眉を寄せる。

「それは現場の問題だ」

結衣は、首を振らない。ただ、目を逸らさない。


「現場の問題にした瞬間、同じことが繰り返されます。私は、設計で起きたことだと思っています」


役員が言った。

「感情論だ」

結衣は、深呼吸をして言った。


「感情は、現場の現実です」


その言葉を口に出した瞬間、結衣は自分の中で何かが変わる音を聞いた。

“正しさ”を守る人から、“守るもの”を選ぶ人へ。


結衣は画面を映した。ガントチャート。

そこから線が消え、余白が増え、期限が伸び、救援の導線が太くなっている。


「この計画は、売上を落とします。短期の評価も落ちます。でも、現場が壊れません。助けを呼べます。遅れを“罪”にしません」


会議室が静かになる。

静けさの中で、結衣は続けた。


「成果を出すことと、人を壊さないことは、両立できます。私は、その両立のためにここまで来ました」


役員の一人が、ゆっくり息を吐いた。

「……やってみろ」

短い言葉。だが、結衣には救いのように聞こえた。


会議が終わると、上司が廊下で結衣を呼び止めた。


「結衣。君は……自分が何をしたか分かってるのか」

声が震えていた。怒りとも、恐れともつかない。

結衣は頷いた。

「分かってます。負けるかもしれない」

「なら……」

上司は言葉を探し、最後に吐き捨てるように言った。

「勝てよ。負けるなら、最初から崩すな」


結衣は、胸の奥で小さく笑った。

上司は“勝ち”しか知らない。

でも結衣は、初めて“負ける覚悟”を持った。

負けても、自分を裏切らないために。


それが、正しい失敗だった。


---


## 10. 選ばなかった未来


計画を引き直したことで、現場は少しずつ変わった。


チャットに“助けてください”が流れるようになった。

それに対して“任せて”が返るようになった。

遅れが出ても、誰かが責められない。代わりに“救援回数”が増える。救援回数が増えるほど、現場が呼吸している証拠だと、結衣は言葉を変え続けた。


高橋は、休職を経て戻ってきた。

痩せたままだが、目に光が少し戻っている。

彼は最初のミーティングで言った。


「遅れていいって、初めて言われました」

笑い方が不器用だった。

結衣は胸が熱くなり、視線を落とした。涙を見せたくなかった。


だが、代償も確実に来た。


社内では、結衣の評価が割れた。

“現場思い”と褒める人もいれば、“数字を落とした”と責める人もいる。上司は表立って守ってくれない。守れば自分も燃えるからだ。結衣は、孤独を知った。


そして、相沢から連絡が来た。


《話がある》


会ったのは、雨上がりの夜だった。

路面が濡れて、街灯の光が滲んでいる。

相沢は、少し疲れた顔をしていた。


「俺、顧客側の意思決定に関わる立場になった。君の計画変更は……正しい。でも、うちの役員は短期の数字しか見ない。俺が君の側に立てば、俺が切られる。そうなると、現場を守る導線が消える」


結衣は言葉を失った。

恋愛の話ではない。

でも、恋愛より重い選択の話だった。


相沢が続ける。


「君の選択は、俺の世界の正しさを壊した。壊してくれて、ありがとう。でも……俺は、その壊れた世界の中で、まだ立っていなきゃいけない」


結衣の胸が痛んだ。

雨粒が頬に当たる。冷たい。


「一緒に……立てない?」

声が震えた。

相沢は、目を逸らさずに言った。


「今は、立てない」


その言葉は、別れの宣告に似ていた。

けれど、嫌いになったわけではない。むしろ逆だ。大切だからこそ、立場が刃になる。


結衣は、息を吐いて、頷いた。


引き留めなかった。

泣き叫びもしなかった。

それは強がりではない。選択だった。


恋を選べば、現場を裏切るかもしれない。

現場を選べば、恋を失うかもしれない。


結衣は、自分を裏切らない方を選んだ。


相沢が背を向け、数歩歩いてから振り返る。


「結衣。録音、覚えてる?」

結衣は頷く。

相沢は、静かに言った。


「君は、言えた。今、言えた。だから……いつか、余白ができたら、また会おう」


結衣は、雨の中で笑った。

笑うと涙が落ちた。

雨なのか涙なのか分からないまま、世界が滲む。


相沢は去っていった。

残ったのは、濡れた路面の光と、胸の奥の熱だ。

11. 雨粒のガントチャート


数ヶ月後、プロジェクトは“終わらせない形”で定着した。


遅れはある。

けれど、遅れが出たときの空気が違う。

以前は、遅れは罪だった。今は、救援の合図だ。


結衣は現場の会議に入るたび、椅子の背に預ける人の肩の力が少し抜けていくのを感じた。笑い声が増えた。雑談が戻った。雑談は無駄ではない。雑談は、壊れないための潤滑油だ。


高橋が言った。


「結衣さん。前は、遅れが怖くて眠れませんでした。今は、遅れたら助けを呼べるって分かってるから、眠れます」


その言葉に、結衣は胸の奥がほどけるのを感じた。

病院の白い廊下で、妻に懇願された言葉が、ようやく返せた気がした。


その日の帰り道、雨が降っていた。

結衣は傘を差し、ビルの窓に映る雨粒を見る。雨粒は揃っていない。大きさも落ちる速度も違う。けれど、どの雨粒も同じように世界を濡らし、光を滲ませる。


結衣は、思う。


完璧じゃなくていい。

遅れてもいい。

助けを呼べるなら、前に進める。


ポケットの中でスマホが震えた。

知らない番号ではない。相沢だった。


《今、少しだけ余白ができた》

《短いけど、会える?》


結衣は立ち止まり、画面を見つめた。

胸の奥が、熱くなる。

だが、喜びだけではない。怖さもある。

恋は、選択だ。

そして選択は、いつも怖い。


結衣は、返信した。


《会える》

《でも、私の計画はもう戻らない》


送信。

雨粒が傘の縁から落ち、足元に小さな円を作る。円はすぐに消える。だが、消えても、濡れた道は残る。濡れた道は、光を映す。


12. 余韻としての朝


翌朝、空は少しだけ晴れていた。


結衣は早く目が覚め、窓を開けた。冷たい空気が頬に触れ、肺がすっと広がる。昨日の雨の匂いがまだ街に残っている。濡れた土と、アスファルトの匂いが混ざり、冬の朝にだけある透明な匂いになる。


結衣はキッチンで湯を沸かし、コーヒーを淹れる。湯気が立ち上がり、窓の光の中で揺れる。揺れる湯気を見ながら、結衣はふと思った。


自分は、今まで“勝つ”ために生きてきた。

勝つことでしか、誰かの役に立てないと思っていた。

でも勝つことが、誰かを壊すなら。

それは勝ちではない。


結衣は、録音を再生する。


《もし、正しい選択が誰かを壊すなら、

それは正しくないって言える人でいたい》


声は若い。震えている。

でも、震えているからこそ真実だ。


結衣は、カップを両手で包み、温度を確かめる。

温かい。

その温かさは、誰かを壊して得たものではない。


スマホが震えた。相沢からの返信。


《分かってる》

《だから会いたい。君が壊した“正しさ”のその先を見たい》


結衣は、笑った。

涙は出なかった。

代わりに、胸の奥に静かな火が灯った。


外に出ると、歩道には昨日の雨の名残が光っている。

結衣はその光の上を、ゆっくり歩き出した。


雨粒は、揃わなくていい。

それでも、ちゃんと前に進む。


結衣は、自分の歩幅で歩く。

今度こそ、自分を裏切らないまま。

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