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琥珀の瞳が見つめた終止符

作者: 白月つむぎ

 人間という生き物は、つくづく不可解だ。


 言葉という便利な道具を持っているくせに、一番肝心なことは喉の奥に隠してしまう。

 ボクはいつものように、公園の植え込みから「それ」を眺めていた。


 ベンチに座るハルキとミサ。二人の間には、猫一匹が丸くなれるほどの隙間がいつも空いている。指先が触れそうで触れない。そのもどかしさに、ボクは何度あくびを噛み殺したことか。


 けれど、その日は違った。


 夕暮れ時、ハルキが震える声で何かを呟くと、二人の隙間は一瞬で消えた。ミサの肩がハルキの胸に預けられる。ボクは尻尾をひと振りして、ようやくかと目を細めた。


 それから数ヶ月、二人の距離は物理的な法則を無視するほどに近かった。


 公園のベンチでは、肩と肩が磁石のように吸い寄せられ、ハルキの大きな手がミサの小さな手を包み込む。ボクはそれを見て、「ようやく体温の分け合い方を覚えたか」と毛繕いをしながら眺めていた。


 二人の周りだけ、世界の色彩が一段と鮮やかになったようだった。


 ハルキは、ミサが笑うたびに世界で一番大切な宝物を見つけたような顔をした。ミサは、ハルキが何気なく口にする言葉ひとつひとつを、零さないように大切に両手で受け止めていた。


 雨の日には一本の傘に身を寄せ合い、片方の肩を濡らしながらも笑い合っていた。


 ボクが二人の足元に擦り寄れば、ハルキがボクを抱き上げ、ミサがその頭を撫でる。


「このままずっと、時間が止まればいいのにね」


 ミサがそう呟いた時、ハルキは少しだけ困ったように、でも最高に優しい顔をして彼女の髪を撫でた。


 あの日々は、まるで終わりのない春の陽だまりのようだった。


 ボクも、この温かな光がずっと続くものだと信じて疑わなかったのだ。


 しかし、幸せの匂いは唐突に、そして音もなく消えた。


 ある日から、ミサが公園で一人、泣き崩れるようになった。

 スマホを握りしめ、「なんで、急に……」と繰り返す。ハルキの姿はどこにもない。


 ボクは不思議に思い、ハルキの匂いを辿った。街の喧騒を抜け、辿り着いたのは白く無機質な建物——病院だ。


 病室の窓の外。ボクは桜の枝を伝って、中を覗き込んだ。

 そこには、別人のように痩せ細ったハルキがいた。


「先生……俺の命は、もう長くないのか」


 窓越しに聞こえたその言葉は、冷たい風よりも鋭くボクの耳を刺した。

 ハルキは、自分の終わりが近いことを悟っていた。

 だから、彼女を悲しませないために、悪者になって自分を遠ざけたのだ。馬鹿な男だ。突き放された方が、よっぽど深く傷つくというのに。


 ボクは走り出した。病院からミサの家まで、小さな体で全力で駆け抜けた。

 ベランダから忍び込むと、ミサは暗い部屋で、彼から届いた「もう会いたくない」という嘘のメッセージを眺めていた。

 ボクは彼女の足元にまとわりつき、鳴いた。必死に、力の限り。

 そして、彼女がかつて彼にプレゼントされた月がモチーフのイヤリングをくわえて外へ飛び出した。


「待って! 返して!」


 彼女が追いかけてくる。ボクは何度も振り返りながら、彼女を誘い込んだ。街灯の下を抜け、坂道を登り、あの白い建物の庭へ。

 そこに、車椅子に座ったハルキがいた。

 イヤリングを彼の足元に落とし、ボクは暗闇に身を潜めた。


「……ハルキ?」


 ミサの声が震える。ハルキは驚き、逃げようとしたが、ミサはもう離さなかった。

 嘘が剥がれ落ち、真実が涙と共に溢れ出す。二人は静かに、けれど強く抱きしめ合っていた。


 ――それから、どれくらいの月日が流れただろう。


 公園のベンチには、またミサが一人で座っている。

 けれど、以前の彼女とは違う。


 彼女の左手首には、男物にしては少し小ぶりな、アンティークの腕時計が巻かれていた。それはハルキがずっと身につけていた、彼の「時間」そのものだ。


 ミサは愛おしそうに時計の文字盤をなぞる。チクタクと刻まれる音は、まるで彼の鼓動がそこで続いているかのようだ。


 彼女は前を向き、小さく微笑んだ。その瞳に悲しみはない。形見という絆を身に纏い、彼女は彼と共に今を生きている。


 ボクは植え込みの中で、満足して目を閉じた。

 形は変わっても、二人の距離はもう、猫一匹分も空いてはいないのだから。

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