お年玉戦線
年末になると、テーブルの上にぽち袋が並ぶ。
テレビでは特番が流れ、ストーブの前には洗濯物が干されている。
その真ん中で、私はボールペンを握り、親戚の子どもたちの名前を書いていた。
「ねえ、お父さん」
向かい側で、娘がいつになく真剣な声で言う。
さっきまで折り紙で何かを折っていたはずだが、いつの間にかこちらを向いて話しかけてくる。
「お年玉ってさ、ちゃんと貯めてくれてる?」
「急に疑いの目を向けないでほしいんだけど」
「だってさー、ママもパパも、昔は『預かっておくね』って言われて、消えたって言ってたし」
昔を思い出す。
お年玉という制度が、ただの「親戚からの贈り物」ではなく、
大人たちの見栄と関係性がからみあう、小さな政治だと気づきはじめた年。
そして同時に、「預かっておくね」という一言が、
子どもの胃袋と財布にとって、どれほど重いかを知った年でもある。
──私は、お年玉を情報戦だと信じていた。
そして、その戦いに勝ったと思った瞬間、最も無防備に敗北するのだ。
元日の居間は、いつもより人口密度が高かった。
こたつを中心に、大人たちが円を描くように座る。
テレビでは正月番組が騒ぎ、テーブルの上にはみかんと漬物と、謎の乾き物が散らばっている。
ユウキ(三歳)は、こたつの端でみかんを転がしながら、視線だけを忙しく動かしていた。
(まずは、状況の把握からだ)
彼なりの戦いは、すでに始まっている。
お年玉という制度については、ある程度の基礎知識があった。
昨夜、お風呂上がりにテレビを見ていたとき、母が電話口で誰かに話していたのを、廊下の陰から聞きかじったのだ。
──もともと、お年玉ってさあ、歳神様にお供えした鏡餅を分けて配ったのが始まりなんだって。
──昔は餅で、だんだんお金になっていったらしいよ。
(お年玉は、むかしは餅だった。
それをお金に変えたのは、たぶん、とてもえらい人たちだ)
三歳なりにまとめると、そういう理解になる。
餅も嫌いではないが、
喉につまりそうな白い塊より、
おもちゃ屋で好きなものに変えられる紙切れの方が、どう考えても価値が高い。
(先に餅を配ってた人たちには悪いけど、
お金にしてくれた人たちには、感謝しておくべきだ)
ユウキは、そんなことを考えていた。
歳神様より先に、「誰だか知らないけど制度を改良した人たち」に対して祈る三歳児である。
(あとは、このお金が、どの大人から、どれくらい、どういう順番でもらえるかだ)
玄関で靴を揃えたこと。
スーパーで母のカゴにみかんを足してやったこと。
おじいちゃんの背中を意味のわからないリズムで叩いたこと。
ここ数日で重ねた「善行」の数々を振り返りながら、彼は小さく頷いた。
(評価ポイントは、すでにいくつか稼いである。
あとは、配分のされ方を最適化するだけだ)
世界は、わりと合理的にできている。
少なくとも、三歳のユウキはそう信じていた。
◇
(メンバーの確認からだ)
親戚Aおじちゃん。
スーツ姿ではないが、時計とベルトだけ妙に高そうだ。さっきから「ボーナス」の話を繰り返している。
「いやあ、今年もなんとか出たよ、ボーナス。まあ、ちょっとだけだけどさあ」
と謙遜しながら、指で「ちょっと」の幅を不自然に大きく示すあたり、見栄指数は高い。
その隣にいるのが、親戚Bおばさん。
エプロン姿で台所と居間を行き来しつつ、周囲の反応をよく観察している。
「ほんと、なんでも値上がりしちゃってねえ」と言いつつも、
誰かが笑えば一緒に笑い、誰かが渋い顔をすれば話題を変える。
空気を読み、場の平均値に自分を合わせようとする習性がある。
おじいちゃんCは、こたつの向かい側。
湯飲みを両手で包み、「みんな元気でおれば、それでいい」と、毎年同じ台詞を述べる。
その隣に座るおばあちゃんは、静かに相槌を打ちながら、おじいちゃんの財布が入った布ポーチをしっかりと握っていた。
おばあちゃんは、おじいちゃんが好きだ。
だからこそ、おじいちゃん自身が孫に懐かれると、途端に財布の紐がゆるむ。
(おじいちゃんに優しくすると、おばあちゃんの満足度も上がる。
二重取りが可能なポイントだ)
ユウキは、以前の経験からそれを学習していた。
ソファの端には、学生いとこDのお兄ちゃん。
携帯をいじりながら、「バイト代、年末で全部飛んだわ」と誰にともなくつぶやく。
財布の中身は薄そうだが、ステッカーやゲーム情報など、非金銭的報酬の可能性を秘めている。
さらに今年は、もう一人、新たな戦力──もとい、対象──が参加していた。
親戚Eおじさん。
既に缶ビールを二本空け、顔が赤い。
「いや〜、正月くらい飲まねえとな!」
声も大きく、笑いも多い。
アルコール摂取量と気前の良さが、明らかに正の相関を見せるタイプである。
(A:見栄指数・高。
B:空気読み指数・高。金額は周囲の平均+少しになりがち。
C:情にもろいが、財布権限はおばあちゃん経由。
D:金額は低いが、情報価値・高。
E:アルコール依存型高額化候補)
ここまでが、登場人物の整理だ。
ユウキは、みかんの薄皮を器用に剥きながら、頭の中で表を描いた。
(次は、順番だ)
お年玉には、暗黙の順序がある。
誰か一人がぽち袋を差し出すと、その動きが合図になる。
その金額が、他の大人たちの頭の中で「今年の相場」として一時的に固定されるのだ。
もし最初に、控えめな人が少額を渡してしまえば、
そのあとの人々は「まあこのくらいでいいか」と安心するだろう。
逆に、最初に見栄っ張りが高額を出せば──
その場で、目に見えないプレッシャーが走る。
ユウキは、頭の中で二つのパターンを描いた。
──パターン1。
1.Aおじちゃんが、周囲の大人の視線を浴びながら、最初に封筒を差し出す。
2.それを受け取った自分が、「ありがとう」と大きめの声で言い、封筒の厚みを両手で確かめる。
3.「なんか、ぶあつい」と無邪気にコメント。
4.それを聞いたBおばさんが、「うちもそれくらいにしないと」と密かに上方修正。
5.おばあちゃんは「Aさんに負けていられないわね」と言って、おじいちゃんの財布から札を一枚多く抜く。
──パターン2。
1.Eおじさんに、気分よく飲んでもらう。
2.ほろ酔いを通り越し、いい気分になったところで、「ユウキ〜、お年玉だぞ〜」と自発的にぽち袋を掲げさせる。
3.周りが「え、もうあげちゃうの?」とざわつく。
4.Eおじさんは「正月だから景気よくな!」と見栄を張り、普段以上の金額を投入。
5.その気風の良さに場の空気が温まり、Aおじちゃんも負けじと額を上乗せする。
(……最大値をねらうなら、2だ)
ユウキは、みかんの房を口に放り込みながら、心の中で静かに決断した。
安定より爆発力。
三歳児にしては危険な選択だが、正月は年に一度しかない。
◇
(Eおじさんを先に、厚めの封筒で動かす。
それを見たAおじちゃんが、見栄で追従。
あとは、おじいちゃんとおばあちゃんが感情で微調整……)
頭の中で簡単なフローチャートを描きながら、ユウキはこたつからそっと抜け出した。
ターゲットは、こたつの角にあぐらをかいて座っているEおじさんだ。
すでに缶ビールを二本空けており、顔がりんごのように赤い。
「いや〜、正月は飲まねえとな!」
声も大きく、笑いも多い。
感情の振幅が大きい人間は、たいてい財布の振幅も大きい。
ユウキは、何食わぬ顔でEおじさんの隣にちょこんと座った。
「おじさん」
「おお、ユウキ〜。どうした、酌でもしてくれるのか? ははは」
「おつまみ、もってくる」
そう言って立ち上がり、テーブルの上にあったスルメとチーズを、小皿にちょいちょいと盛る。
それを両手で運び、Eおじさんの前に置いた。
「はい。いつも、ありがとう」
「おお〜、気がきくなあ!」
Eおじさんの笑い声が、居間に響いた。
周りの大人たちも「えらいねえ」と笑う。
ユウキは、そこで一拍おいてから、わざとらしくない程度の声量で続けた。
「Eおじさん、いちばん、たのしい」
「ほう?」
「おさけのむと、いっぱい、わらうから。
いちばん、しあわせそう」
Eおじさんの眉が、一瞬だけ震えた。
それは、単純に酔いのせいだけではない。
「おお〜……おまえ、わかってるなあ」
嬉しさと照れくささを誤魔化すように、Eおじさんはビールを一口あおった。
そして、ウエストポーチのチャックに手を伸ばす。
「よし、じゃあ、いちばん最初は、おじさんからだ!」
その宣言に、こたつのまわりの空気がぴりりと変わった。
「え、もうあげちゃうの?」
「まだご飯も途中なのに」
大人たちが口々に言う。
だが、「一番楽しい」と名指しされた直後の気分の良さは、そんな制止を簡単に飛び越えてしまう。
「正月くらい景気よく行こうぜ! なあ、ユウキ!」
Eおじさんは、ウエストポーチからぽち袋を引き抜いた。
それは他の誰のものより、明らかに分厚かった。
(……よし)
ユウキは、心の中で静かにガッツポーズをした。
だが、それを表情に出すわけにはいかない。
(心中を表情に漏らすまい。漏れていいのは、紙オムツだけだ)
三歳児にしては妙に大人びた決意が、頭の中でつぶやかれた。
顔はできるだけ、いつもの「よくわかっていない幼児」のままに保つ。
「はい、ユウキ。あけましておめでとう!」
どん、と、ぽち袋が小さな手の上に乗せられる。
紙越しに伝わる重さは、これまでの人生で感じたどんな封筒よりも頼もしかった。
「……ありがとう」
ユウキは、できるだけ平坦な声でそう言った。
口角が勝手に持ち上がろうとするのを、全力で押しとどめながら。
周囲の大人たちは、その「妙に落ち着いたお礼」が、単に人見知りの照れなのだと解釈してくれたらしい。
誰も、彼の胸中の算盤には気づかない。
(出だしは、予定通りだ)
Eおじさんからの厚めの封筒。
これが、今日の「上限値」の一つの目安になる。
あとは、これを見たAおじちゃんが、見栄でどう動くかだ。
(次は、Aおじちゃん……)
ユウキがこっそり期待を込めてAの方を見た、その瞬間だった。
「じゃあ、うちも」
先に動いたのは、意外にもBおばさんだった。
(……え?)
立ち上がったのは、いつも周りの様子を気にしている、あのBおばさんだ。
エプロンのポケットから、控えめな柄のぽち袋を取り出しながら、
彼女は居間の空気を一瞬でスキャンした。
Eおじさんのやりすぎ感。
周囲の苦笑。
そして、こたつの角でぽち袋を握りしめているユウキの姿。
(このままだと、あそこだけ突出してしまう)
そう判断したのだろう。
彼女にとっては、「場の平均値」を作ることが最優先だ。
「ユウキくん、あけましておめでとう。今年もよろしくね」
柔らかい声とともに、ぽち袋が差し出される。
(ちょ、ちょっと待って。順番が……)
ユウキの心拍数が、わずかに上がった。
本来なら、このタイミングでAおじちゃんが、
「じゃあうちも」「負けてられないな」と言いながら、
Eおじさんに近い額で追従するはずだった。
ところが今、Aおじちゃんは缶ビールを持ったまま、様子をうかがっている。
Bおばさんの額が、暗黙の「中間値」になってしまう危険がある。
(EとBのあいだに、Aを挟みたかった……!)
頭の中で描いていたフローチャートが、ぐにゃりと歪む。
しかし、もはや巻き戻しはきかない。
Bおばさんのぽち袋は、Eほどではないが、決して軽くはなかった。
紙の質も悪くない。
「高すぎず、安すぎず、無難なライン」が、ここで設定されてしまった。
ユウキは、受け取ったぽち袋を両手でそっと撫でながら、必死に表情を整えた。
「ありがとう」
声は、さっきと同じトーンに保つ。
(……まだだ。まだ終わってない)
パターン2は、完璧ではなかった。
だが、致命的に崩れたわけでもない。
Eおじさんの「やりすぎ封筒」を最初に見せることには成功している。
Bおばさんの封筒も、場の空気を読んで、たぶんいつもより少しだけ厚めになっているはずだ。
(ここでAおじちゃんが、「Bさんよりケチだ」と思われる額は、出しにくい)
そう考えれば、まだAおじちゃんに期待する余地はある。
ユウキは、そっと視線だけをAの方へ向けた。
Aおじちゃんは、ビールを一口飲み、
ちらりとEおじさんのぽち袋を見、
そしてBおばさんのぽち袋を見た。
ほんの一瞬、眉がわずかに寄る。
「……じゃあ、うちもそろそろ」
観念したように、ジャケットの内ポケットに手を入れた。
指先が、布越しに封筒の角を探る。
一度つまみ、しかしすぐには取り出さない。
ほんの一瞬、迷いの間が挟まった。
(いまEとBのあいだを、計算してる)
ユウキは、そう読んだ。
目の前でEおじさんの分厚い封筒を見て、
続いてBおばさんの「場の平均」を見て、
それでも「ケチだ」とは思われたくない。
だが、Eほどの無茶はしたくない。
Aおじちゃんの額の皺が、その葛藤を物語っていた。
「……ほら、ユウキ。あけましておめでとう」
ようやく姿を現したぽち袋は、見た目にはごく普通だった。
干支のイラスト。金色の細い縁取り。
ただ、手渡された瞬間、紙越しに伝わる重さは、Eのそれの少し下、しかしBよりは明らかに上だった。
(想定どおり中の上……)
ユウキは、内心でだけ小さく頷いた。
Eおじさんが上限。Aおじちゃんが「上限寄りの標準」。
Bおばさんが安定した中間値。
この三つが揃えば、お年玉マーケットは十分に健全である。
「ありがとう」
声のトーンは、EとBのときと変えない。
嬉しさを表情に出さない。
漏れていいのは紙オムツだけ──その誓いだけは、まだ守られていた。
こたつのまわりの大人たちが、少しほっとしたように笑う。
ここでようやく、「今年の相場」が空気の中に固定された。
その瞬間を見計らったように、おばあちゃんが動いた。
「……じゃあ、うちもね」
おじいちゃんの隣で、布ポーチの口を開ける。
中には、見慣れた茶色い財布。
中身の管理権限は、おばあちゃんが握っている。
「おじいさん、どうする?」
「どうするって、そりゃあ……」
おじいちゃんは、E・A・Bそれぞれの封筒をちらりと眺めた。
そして、膝の上に座っているユウキの頭に、ぽん、と手を置く。
「こいつ、この前なあ、わしの背中、たたいてくれてな。
あれ、けっこう効いたんだぞ」
「それ、マッサージっていうより太鼓ですよ」と誰かが笑う。
おじいちゃんは、ふふっと目を細めた。
「元気でおれば、それでいい。……が、まあ、たまには元手があってもいいか」
財布が開く音。
札を数える指の動きは、おばあちゃんにだけ見える位置だ。
おばあちゃんは一度、無言で首をかしげる。
「それじゃ、Aさんより少ないわよ」
「そうか?」
「そうよ。さっき、握り方でわかったもの」
おばあちゃんは、Aおじちゃんの封筒を持つ指の力加減を覚えているらしい。
観察眼の鋭さは、Bおばさん以上だ。
「じゃあ、もう一枚」
おじいちゃんは、少しだけ眉を上げながらも、素直に札をもう一枚抜いた。
おばあちゃんは満足そうにうなずき、静かにぽち袋に滑り込ませる。
「はい、ユウキ。じいちゃんと、ばあちゃんから」
差し出された封筒は、Eほど派手ではない。
だが、手に持ったときの「ほどよいずっしり感」は、数字に換算する前から伝わってきた。
「ことしも、げんきでいてね」
ユウキがそう言うと、おばあちゃんの顔がほころぶ。
おじいちゃんもつられて笑う。
善行ポイントは、ここで確実に回収された。
三日前の、意味のわからない背中マッサージも、無駄ではなかったらしい。
(よし……これで大人ゾーンは、だいたい完了)
こたつの周囲は、ぽち袋を渡し終えた大人たちの安堵と、「やりすぎたかな」という微妙な後悔が入り混じった空気に満ちていた。
残りは、ソファの端にいる学生いとこDのお兄ちゃんである。
お兄ちゃんは、さっきからスマホをいじりつつも、こちらの様子を横目で見ていた。
自分も「何かしら渡すべき側」であることは理解しているが、懐事情は心許ない。
「……Dはどうするの?」と、Bおばさんが小声で聞く。
「う、うん、一応」
お兄ちゃんは、ジーンズのポケットから折れた封筒をひとつ、取り出した。
他の大人たちのものと比べると、明らかに薄い。
「ユウキ」
「うん」
「これはな……うん、これはゲーム用とかじゃなくてな……。まあ、ジュースでも飲んでくれ」
言い訳が先に出るあたり、まだ立派な大人ではない。
それでも、その表情には一種の覚悟があった。
ユウキは、その封筒を両手で受け取り、紙の感触だけで「これは少額ゾーンだな」と判断しながらも、顔には笑みを浮かべた。
「ありがとう。
Dにいちゃん、ゲームの、つづき、おしえて」
「お、おう。それは、いくらでも」
お兄ちゃんは、ほっとしたように笑った。
(Dにいちゃんのお年玉は、たぶん、これから一年分のゲーム情報とセットなんだろう)
封筒の厚さだけでは測れない価値も、世の中にはある。
三歳児なりに、ユウキはそれを理解していた。
それでもやはり、札は札である。
ぽち袋たちは、それぞれの由来と物語を抱えながら、彼の小さな手提げ袋の中に収まっていった。
そのときだった。
「ユウキ、お年玉、いっぱいもらったねえ」
背後から、母の声がした。
「うん!」
ユウキは、戦果を報告する兵士のように胸を張った。
「じゃあ、それはお母さんが預かっておくね」
「……え?」
ポチ袋に伸びてきた母の手は、ためらいがなかった。
ひょい、と中身ごと持ち上げ、そのまま自分の膝の上に移す。
「だ、だめ!」
「だめじゃないよ。なくしたら大変でしょ?
ちゃんと通帳に入れておくからね。ユウキのだから、勝手には使わないよ」
言っていることは、概ね正しい。
反論の余地は、あまりない。
だが、三歳のユウキにとって、「通帳」というものは、
おもちゃ屋の陳列棚に比べれば、あまりに抽象的だった。
(いま、現金が、数字になってしまう……)
頭の中で、札束が桁の多い数字に吸い込まれていくイメージが浮かぶ。
そこに実感はなく、ただ漠然とした喪失感だけが残った。
「だいじょうぶ、大きくなったらね、ちゃんと渡すから」
母はそう言いながら、ぽち袋を一つひとつ数えている。
ユウキはその指の動きをじっと見つめ──そして、諦めた。
(世界は、そんなに合理的にはできていなかった……)
その瞬間、身体の一部が、じんわりと暖かくなった。
こたつの中で、紙オムツが静かに任務を果たす。
漏れていいのは紙オムツだけ──そのはずだったが、
どうやら、感情も少し漏れてしまったらしい。
◇
「いっぱい、たまってきたかなー?」
目の前で通帳を振りながら、娘がさっきと同じ台詞を繰り返した。
こたつはあの頃より新しく、テレビは薄くなった。
今の私は三歳児ではなく、「お年玉を詰める側」だ。
テーブルの上には、さきほど書き終えたばかりのぽち袋が並んでいる。
親戚の子どもたちの名前。
娘の名前が書かれた封筒も、一番端にちょこんと置いてある。
本当なら、この中にピン札を入れてやるつもりだった。
新年最初の「見栄」として。
(……あ)
私は、自分の財布の中身を思い出した。
小銭と、くたびれた千円札が数枚。
ピン札はおろか、「それなりにまっすぐな札」すら入っていない。
銀行は、休みだ。
両替窓口は開いていない。
「お父さん? どうしたの?」
「いや……ちょっと、用事を思い出してね」
私は、ぽち袋の山をそっと端に寄せ、テーブルの上の通帳を手に取った。
娘専用の、小さな預金の歴史が詰まった冊子だ。
ページには、毎年「預かっておくね」と誰かが言ってきたであろう額が、淡々と数字になって並んでいる。
「ちょっと、外行ってくる」
財布ではなく、通帳だけをポケットに差し込み、私は立ち上がった。
昔、母に「預かっておくね」と言われたあのお年玉たちは、
たぶんどこかで、家族の生活費に化けて消えていったのだろう。
餅はお金になり、札は数字になり、数字はまた札になる。
世界はそこそこ不合理で、しかし案外、帳尻は合っていく。
そう思いながら、私は通帳をポケットに押し込み、玄関のドアを開けた。
冷たい冬の空気が、顔に当たる。




