第9話 愛と起請文
「……下で待ってるから、降りてきてくれないか?」
低く抑えた声。怒っているわけでも、責めているわけでもない。
ただ、何かを受け入れようとしているような、そんな響きだった。
私はスマホを置いて、静かに立ち上がった。正義チェックも、タイムラインも、一瞬でどうでもよくなった。
リビングに降りていくと、パパとママがダイニングテーブルに向かい合って座っていた。二人とも、湯気の立つコーヒーカップを前にしていた。漂うのは、ほろ苦い焙煎の匂いと、家族という名前の、どこかぎこちない空気。
「まぁ、座りなさい」
ママが静かに促す。私は頷き、彼らの前の椅子に腰を下ろした。
「……話は、聞いてるよ」
パパが言った。その目は、メガネ越しに真っ直ぐ私を見ていた。
「正義との契約があるってことも……お前が小さい頃から、なんとなく気づいてた。正直……どうしていいかわからない。こういうことを生業にしてるなら、受け入れざるを得ないのかね。仕方ないのか……」
ママが目を閉じ、ひとつ息を吐いた。
けれど何も言わない。代わりに、パパが静かに、口を開いた。
「でね、いくつか質問がある。まず、これについては……起請文があるの?それとも、誓詞?」
「前世の私の記憶だと、起請文を交わしてるよ」
私は淡々と答える。パパの眉がわずかに動く。
「じゃあ……神文の内容を教えてもらうことって、できる?」
「それはできない。知ることそのものにペナルティが課される。パパとしては、成約の監視者や神仏の名を知って、抜け道を探したいのかもしれない。でも、それも無理だよ。そもそも、そのルートごと潰されるようになってる」
パパの口元が引きつる。けれど、驚きはしなかった。ただ、しんと沈んだ目で呟いた。
「……神仏は、なんとなく心当たりあるけどな。例えば……京都とか、狐とか」
ブラフかもしれない。私の表情を読もうとしているのか、まあ普通に考えたらそこら辺になるだろうから。それとも、どこかに引っかかる何かがあるのか。
私は目を逸らさない。
「罰則がわからないと、まあ……難しいよな。たとえば、なにか取引材料とかあるの?これをしたら、正義との縁を絶ってくれるとか……」
「ないよ」
言い切る。
「前世の私も、今世の私も、正義がすべてだから。取引なんかできない。……もしかしたら、前世の私だったら、パパと引き換えにできたかもしれない。でも、今の私は、もう違う」
その瞬間、パパの顔にかすかな寂しさが走った。
けれど、それはすぐに懐かしむような、悟ったような笑みに変わった。
「そうか……そうだよね。因果応報かね。なら、受け入れるしかないな」
静かに言ったあと、パパはカップに口をつけた。ほとんど飲んではいない。苦い現実だけが、彼の喉を通ったのかもしれない。
「なら、仕方ない。正義は君のものだね。でもね、覚えておいてくれ。これは地獄の始まりかもしれないよ。……正義と一緒に、歩めるのかい? 前世の君は、それができなかった。私とともに、その道を歩めなかったんだ」
重たい沈黙が、部屋を包んだ。
そして、それを破ったのは、ママのため息だった。
「なら、あなたが“正義の嫁”って言うなら……明日から、正義の洗濯物と朝ごはん、お弁当と、身の回りのことは全部あなたがやるのよ。私がやらなくても、もう文句言わないでね」
皮肉にも聞こえるが、それはママの最後の優しさだったのかもしれない。
「で……何人取り込んだの?」
パパがふと、聞いた。
「その娘たち、どうした? ……本当のこと、言ってごらん」
「契約したのは、10人。うち2人だけが……気持ちよく同意してくれた。みんな……寿命が迫ってた。私は1年間だけ、能力を貸した。でも、ほとんど……裏切られた。こっちから手は出してない。神文を破ったから、後は知らない。処理されたんだと思う」
パパも、ママも、目を見開いていた。
私は俯いた。誰にも言わなかった。言えるはずもなかった。
けれど、今、家族という重さの中で――
「……うん。そっか」
パパが呟いた。
その言葉には、怒りも、叱責もなかった。ただ、重さだけがあった。たった一つの「理解」という名前の、痛みだった。
私はそのとき、胸の奥が少しだけ痛んだ。
愛してくれる人を――裏切った気がしたから。
☆ここまで、読んでくださり、感謝いたします。
補足説明 起請文は契約書です。
なので、契約内容とそれを監視する神仏とそのペナルティが明記されてます。
それに対し誓詞というのは、もっと限定的な契約に使われます。
神仏が明記されていない場合もあります。
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