第8話 ──父、帰る。
「――ただいま」
玄関に響く、どこか乾いた声。
感情の温度がないわけじゃない。むしろ逆だ。
その声には、妙な“熱”がある。
けれど私は、その声に対して、何の感慨も抱かなかった。
パパが、帰ってきた。
おそらく2日か3日、長くてもそれくらいだろう。
――いつもそうだから。
パパは私にとって、最も“理解不能”な存在だ。
家にいても、私に話しかけてくることは少ない。
親子らしい会話なんて、何ひとつ覚えていない。
たまに口を開けば、妙に的を射たことを言ってくるくせに、その声には心がない。
見た目は、どこにでもいる冴えないメガネの中年男。
額の生え際は後退気味で、服のセンスも地味の極み。
でも――**時折見せる“あの顔”**が、私は怖かった。
穏やかな目元が、急に冴えた光を宿して。
優しげな口元が、どこか冷笑的に歪んで。
一瞬、世界の構造ごと見抜くような、底知れないものが、そこに宿る。
年を重ねるたびに、パパはそのギャップを強くしていった。
「普通」の仮面と、「異質」の本性――その落差が、まるで人間という容器から溢れ出てくるみたいだった。
……正直、あまり直視したくない。
「ママとは、見合いだったのよ」
これは昔、ママが私に話してくれた言葉だ。
絶世の美女――という表現でも足りないほど、完璧な外見を持つママ。
ハーフというより、もはや天上の存在めいていて、街中を歩けば振り返られ、写真を撮られるほどのオーラを持っている。
そのママが、よりによってパパに猛アプローチしたというのだから、正直笑ってしまった。
「若い頃のパパは、ほんっとにかっこよかったのよ? モデルでも俳優でも通用するくらい。なのに、あの人ったら全然その気がなくて……惚れた方が負けって、あれ本当ね」
そのときのママは、まるで思春期の乙女のように目を細めて笑っていた。
でも、私は思う。
本当にそんなに“好き”だったのなら、なぜ今のこの距離なのだろう。
いや、違う。ママはまだ、怖れているのだ。
あの“仮面の下”に潜む何かを。
私も知っている。
――前世で、私はこの男を、狂うほどに恋い焦がれた。
いや、正確には記憶がある。
私自身の魂の奥底に、黒く焼き付いたような断片が、確かに存在する。
けれど、月読の力を持った今でも、それを開示することは不可能だった。
「これは、見てはならない」
そう、月読の内なる神性が警告してくる。
私はそれに従うしかなかった。
見たくない。
どうせロクなものじゃない。
おそらくは、私が自我を保てなくなるような“業”がそこにはある。
だから私は言う。
「見ないでおこう。それがいい」
そのせいか、私にとっての“パパはずっとお兄ちゃんだった。
正義が、私の心の拠り所。
正義が、世界の光。
正義が、私にとっての唯一の秩序だった。
お兄ちゃんがいるなら、それでよかった。
それ以外の誰も、何もいらない。
でも、今は――お兄ちゃんはいない。
大学に通っている。日中は家を出て、見知らぬ人たちと時間を過ごしている。
それだけで胸がざわつく。
大学生活という名の“無法地帯”で、お兄ちゃんが誰かと話しているかもしれない。
笑っているかもしれない。
異性と、視線を交わしているかもしれない。
それだけで胃が焼ける。
「ただいま」なんて言ってる場合じゃないのに。
誰があんたの“帰宅”を待ってたっていうの。
私は今日、学校が休みだ。
お兄ちゃんは大学。
なら、私のやるべきことはひとつ。
2階の自室にこもり、スマホを開く。
指が勝手に動く。
検索欄には――
「正義チェック」
SNSでの検索。アカウント追跡。
過去の「いいね」やタグづけされた投稿の洗い出し。
共通フォロワーの相関図解析。
隠しアカウントらしきプロフィールの精査。
これが、今の私の“義務”であり、“愛”の形。
スマホを叩く手が止まらない。
……そんなとき、背後で声がした。
「何してるの、佑夜」
――パパだった。
背筋がゾワリとした。
私は、即座にスマホの画面を伏せる。
「別に。ちょっと調べもの」
「そう。……霊力の波動が強くなってるね」
パパは穏やかに言った。
けれどその声の奥に、冷たい鉤爪のような何かを感じた。
私の秘密――
お兄ちゃんとの関係。
月読の力。
そして、あの日の“契約”。
もう、全部、気づいてるのだろう……
視線を逸らした。
私の心臓が、静かに跳ねた。
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