第6話 狩りの時間
──運命なんて、最初から決まってた。
小さなころから、私はお兄ちゃんが大好きだった。
誰よりも、何よりも。
それは、ただの“家族愛”なんて言葉では説明できないくらいの、もっと根っこから狂っているような、深い愛だった。
うちの家族は、ちょっと変わっている。
単身赴任の父は、年のほとんどを九州の片田舎で過ごしていて、滅多に帰ってこない。
家にいるのは、私と、兄の正義、そしてカナダ人ハーフの母――
母は美人だ。青みの混じる金髪に、真っ直ぐな鼻梁、澄んだ氷のような瞳。
まるで物語の中から出てきたみたいな、浮世離れした雰囲気をまとっていた。
でもそれ以上に、兄は……兄の正義は、完璧だった。
優しくて、気が弱くて、でもどこか強さを秘めていて。
学校の成績は常に上位。運動もできて、先生からも友達からも好かれていた。
そして何より――母譲りの美しさを持っていた。
そんな正義の隣にいる私は、いつだって“妹”として恥じないように振る舞いたかった。
でも、気づけばその想いは、だんだん別の形になっていって……
ある日、すべての歯車が、音を立てて噛み合ってしまった。
それは、前世の記憶を思い出した日のことだった。
それは夢の中のようだった。
気づけば私は、暗い水の底のような場所にいた。
――《いまこそ、輪廻の鎖より蘇れ》
次の瞬間、私は知ってしまった。
あの正義は――兄は、前世でも私のものであったことを。
焼けるような悦びが、脳髄をじゅうじゅうと焼いた。
* * *
翌朝、私は母に伝えた。
「ママ、思い出したよ。あの約束……私とママの前世の約束」
母は洗い物の手を止めて、薄く微笑んだ。
「……やっぱり、思い出したのね」
「うん。ねぇ、いいでしょ? 約束なんだから」
「……そうね。それは認めるわ。正義は、あなたのもの。
それが“契約”。でも、忘れないで。あなた達は人間で、私とパパの子供なの。そこは――超えてはならない一線よ」
母は、私の目を見て、静かに言った。
それはきっと、母なりの優しさ。最低限の歯止め。
でも、私にとっては意味がなかった。
「大丈夫だよ、ママ。
お兄ちゃんを不幸になんかしない。私が、正義を……幸せにするんだから」
不幸にしない。壊したりしない。
私の中だけで生きて、私だけを見て、私だけを愛して、そうやってずっとずっと一緒に――幸せになるの。
だから私は、始めた。
あの日から。
兄のすべての行動を記憶し、生活を合わせていった。
通学路も、昼食も、帰宅時間も、部屋にいる時間も。
気づけば私は、兄の影のようになっていた。
一緒に食事を取り、風呂に入り、寝室も同じにした。
もちろん最初は兄も驚いていたけれど……そのたびに私は、涙を流した。
「どうして、いやなの……?」
兄は戸惑い、そして諦めたように私を受け入れた。
……正直、チョロい。
そう思った。
でもそれでいいの。チョロくていい。正義は、私だけに優しければいいのだから。
誰が何と言おうと、この物語は私たち二人のものだ。
前世の契約も、来世の誓いも、全部私が覚えてる。忘れたりしない。
だから――
「正義は、私のもの。そうでしょ? だって、それが約束だったんだから」
にっこりと、私は笑う。
兄の顔が引きつっても、距離を置こうとしても、無駄だよ。
* * *
理性が崩れる音を、私はずっと待っていた。
いつからだろう。
兄の部屋に、鍵がかかるようになったのは。
いや――違う。正確には、かけようとしたが、私はそれを許さなかった。
正義が私から距離を取ろうとするたびに、涙を浮かべ、膝を抱えて黙り込んだ。
「……なんで、閉めるの?」
そう尋ねるだけで、正義は罪悪感に顔を曇らせ、私を部屋に入れてくれた。
鍵は、使われることはなかった。
私たちは、いつもひとつの部屋、ひとつの空間を共有していた。
そして私は、兄の変化を――喜びを持って、観察していた。
ある日、私は気づいた。
兄の机の引き出しに、隠されていた雑誌。
表紙には、妙にスタイルの良い外国人風の女の子たち。
もうそれだけで、私は確信した。正義が、“男”になった証拠だと。
スマホの履歴、パソコンの検索欄。
“妹”、“ハーフ”、“義妹”――
そんな言葉が並んでいたとき、私は心臓が跳ねるほどの悦びを感じていた。
ああ、やっぱり。
やっぱり正義は、私を見てる。
表ではまだ“妹”として接してくれているけど、内面ではもう、理性が軋み始めている。
これはもう――狩りなのだ。
私の中で、長い追跡の果てに、ようやく獲物が疲れ、動きが鈍ってきた手応えがあった。
「もうすぐ。あと少し」
私は、さらに距離を詰めた。
正義は、母に相談したようだった。
「妹が最近、距離感おかしいんだ」って。
でも母は、それを真正面から否定することはなかった。
なぜなら、母と私の間には、**“約束”**があったから。
「正義が嫌がることはしないでね」
それが母の精一杯の忠告だった。
けれど、私は思った。
――これは、“嫌がってる”んじゃない。
正義の中で、理性と欲望がせめぎ合っているだけだ。
本当の“嫌悪”なんて、私のことを見ない。触れない。喋らない。
そんな態度をとるもの。
でも兄は、まだ私と一緒にいる。目を逸らしながらも、私の涙には屈してくれる。
だから、それは“拒絶”じゃない。葛藤だ。
「それに、正義は“うちの跡取り”なんだから。……そのへん、ちゃんと考えてよね」
母は、そうため息混じりに言った。
やっぱり、諦めてる。分かってる。
だから私は、笑って答えた。
「うん、ママ。跡取りいいじゃない。私がずっとそばで支えるから」
それは、心からの言葉だった。
* * *
そして――その日が来た。
正義が高校生になって、最初の夏。
蒸し暑い夜。エアコンの効いた部屋。
私は、いつも通り正義の隣で、眠ったふりをしていた。
正義は、しばらくスマホを眺めていたけれど、ふと私の方を見て、小さく息を呑んだ。
その気配が、背中に伝わる。
私は、寝息を立てる演技を続けたまま、全身を張り詰める。
しばらくして、正義の手が――私に、そっと触れた。
震えていた。
兄の手が、小さく、小刻みに震えていた。
私の肌に、その指が触れたとき、私は確信した。
ああ、もう崩れた。
堤防が、ついに決壊したのだ。
私の“狩り”は、ついに果たされた。
それは悲劇じゃない。敗北でもない。
これが、私たちの本当の始まり。
翌朝、兄は目を覚ますと、顔色を真っ青にしていた。
私と視線を合わせることもできず、何かを言いかけて、言葉を飲み込んだ。
私は、それを見て、優しく笑った。
「おはよう、お兄ちゃん。……昨日は……」
兄の顔が、苦悩に歪む。
でもそれも、想定内。
いまさら逃がさない。
何を言っても、何をしても――もう、私たちは一つの罪の中にいるのだから。
「大丈夫だよ。正義。これからは、全部……何もかも……私が……私だけがあなたを守ってあげる……だから……」
私の声は、どこまでも優しく。
けれどその瞳は、獲物を逃がさない獣のように、兄のすべてを捉えていた。
☆ここまで、読んでくださり、感謝いたします。
評価ポイント、ブックマーク登録 していただければ、励みになります。
今後もよろしくお願いします!