第8話 ジュリアはハートブレイク
新宿は歌舞伎町あたりを根城にしていると思しき不良グループ、寂れたこの町にはまるで似つかわしくない彼らだったがそれなりに統制は取れているようで騒ぐわけでもなくむしろおとなしく食事をしていた。とにかく彼らがこちらに興味なんぞ示さぬようにと、ミエルと高英夫はカウンター席で小さくなりながらひたすら彼らが出て行くのを待ち続けるのだった。
そんな不良連中が店にやって来て三〇分ほど経ったときだった、店の外で車のクラクションが鳴る。一定間隔で数回鳴るそれはおそらく盗難防止装置によるものだ。するとウーロン茶の二人が飛び上がるように席を立って店の外へと出て行った。
同じくしてリーダー格の青年も食事を終えたのだろう、店の主人に向けて手を挙げながら会計の合図を送る。腕を挙げたと同時に下がる袖口から刺青の一部が見てとれた。
主人が伝票を手にして席に向かうとリーダー格は隣に座る根元が黒くなり始めた金髪頭の青年に「おい」と声をかける。すると金髪は財布から一万円札を取り出すとそれをテーブルに置いた。リーダー格の男は言う。
「親父、これで間に合うだろ、ツリはいらねぇ」
その一言を合図にあとの二人も席を立ち、三人揃って店を出て行った、先に出ている二人の膳は食べ残されたそのままで。
「ふぅ――、なんとか気付かれずに済んだぜ。親父さん、生ビールをもう一杯。ミエルも気疲れしただろう、何か頼めよ、お茶以外に」
肩と首をストレッチしながら高英夫はこれから飲み直す腹積もりだった。
「いえ、ボクは、一足先に宿に戻ります。これでも受験生ですから」
そう言ってミエルが席を立とうとしたそのときだった、またもや店の引戸が開く音が聞こえた。二人は今出て行った連中が戻って来たのかと再び小さく身構える。しかし聞こえて来たのは聞き慣れたいつもの明るい声だった。
「おっはよ――っ!」
夜の九時をとうに回ったこの時間にもかかわらずそんな挨拶とともにやって来たのはジュリアだった。足のラインがハッキリわかるえらくスリムなデニムのパンツに丈の短いタンクトップ、その上から羽織るアロハシャツは彼女のへそのあたりで裾が結ばれていた。山あいの寂れた温泉街でひと昔もふた昔も前に流行ったようなビーチスタイルはさっきまでいた不良連中以上に浮いた存在だった。
彼女は背を向けて座るミエルの後ろ姿を見つけるとハイテンションな嬌声を上げながらその隣に陣取った。
「やった――、ミエルいるじゃん。今日はいつもより遅いからもう帰っちゃったかなぁなんて思ってたんだけど、ラッキー。ジュリアさんはうれしいぞ」
そう言いながらジュリアはショートボブヘアを揺らしながら首を振り振りミエルの肩を抱きしめた。
「よし、ミエル、一緒に飲もう。親父さん、あたしは生ビール」
すぐに出て来た中ジョッキを片手にしてその半分を一気に飲み干すとジュリアの機嫌はますます高まる。
「ほらほら、ミエルも。今夜はジュリアさんのおごりだから、気にしないでなんでも好きなものを頼んじゃって」
異常なまでに明るいジュリアの勢いにすっかり押されてしまったミエルは困った顔で高英夫にアイコンタクトを試みた。すぐにそれを察した彼がジュリアを引き留めにかかる。
「なあジュリアさん、ミエルはこれでも受験生なんだ。俺との契約でも夜は勉強の時間ってことになっててさ、今も帰るところだったんだ。だからそのへんにしてやってくれよ」
「え――っ、受験って大学? ってことは君は女子高生なのかなぁ?」
「は、はい」
「マジで? マジで? 女子高生でボクっ娘なんて、あたしはますますミエルが大好きになったぞ」
やたらとハイなテンションでミエルに頬ずりせんと髪を振り乱すジュリアを呆れた顔で見ていた店の主人もミエルへの助け舟を出す。
「ジュリアさん、今日はヒラメのいいのが入ってますが」
すっかり気を削がれたジュリアはミエルを解放すると少しばかり不機嫌そうな声で「それじゃヒラメ、ご飯セットで」と一言、続いて残りのビールも飲み干すと二杯目をオーダーした。
「それでは高さん、ボクは帰ります。親父さん、ごちそうさまでした。それにジュリアさんも、また今度誘ってください」
「え――っ、ほんとに帰っちゃうんだ。あ――あ、ジュリアはハートブレイクって気分だよねぇ。でもしょうがないか、ミエルも勉強頑張ってねぇ、バイバ――イ」
こうして無事解放されたミエルはひとり店を後にした。
ミエルが帰った後、高英夫とジュリアの二人だけとなった店の中はすっかり静まり返っていた。さっきまでのテンションはどこへやらジュリアはつまらなそうにヒラメの切り身をつまみにビールを飲んでいた。
「あ――あ、つまんないなぁ。ねえ縛り屋さん、あんたってさ、ちょっとアングラの香りするよね。何か面白い話とかないの?」
そろそろ腹も落ち着いて来たので宿に帰る算段をしていた高英夫だったが、この機に乗じてジュリアに少し揺さぶりをかけてみようと考えた。
「ジュリアさん、何かいいことでもあったんっすか?」
「えっ、どうしてそう思う?」
「今日は小屋に来なかっただろ。もしかしたら彼氏とデートとかさ」
「よしてよ、あたし、男になんて興味ないわ。今のあたしはミエルに首ったけって感じかな」
「なるほど、それで今夜はご機嫌だったわけだ。それにしてもビール一杯であのテンションは普通じゃねぇよな」
「そりゃね、会えないと思ってたミエルに会えたんだもん、上げ上げにもなるよ」
「そういうことか。俺はまた酒以外の何かでもやってるんじゃねぇか、なんて心配しちまったよ。例えば大麻とかさ」
大麻、その言葉に一瞬だが反応したジュリアを高英夫は見逃さなかった。彼はなおも畳みかける。
「ミエルが帰ったらば今度はやけにおとなしくなっちまうし、そういえば大麻ってのはダウナー系なんだっけか?」
ジュリアの顔に緊張の色が走る。すっかり黙り込んでしまった彼女を前にして高英夫は少しやり過ぎたかと後悔した。二人の間に流れる気まずい静寂、それを破ったのはこれまたやけに元気な声だった。
「ちわ――っす、親父さん、まだ大丈夫?」
声の主は青年会の面々だった。主人はすっかり片付いたテーブル席を示すと人数分のおしぼりとともに彼らの席に向かう。ジュリアもこの重苦しい場から逃れんと宴席に目を向ける。すると青年会のひとりが彼女を見止めて声をかけてきた。
「おっ、ジュリアさんじゃない。今日はステージオフだったよね?」
「おいおい、なんだよお前、昼間っからストリップ通いかよ」
「違ぇ――し、うちの爺さんに聞いたんだよ。てかさ、ジュリアさん、たまにはいっしょにどう?」
これぞまさに渡りに舟だ、ジュリアは店の主人に一言告げると高英夫を振り返ることなく彼らの宴席に溶け込んでいく。背後で響く「カンパ――イ」の声、それを聞きながら高英夫は店を後にするのだった。