第12話 ミエルの涙
「ミエル少年、起きろ、起きるんだ」
その声と頬を軽く叩かれる感触でミエルは目を覚ました。口に貼られたクラフトテープは剥がされ拘束されていた腕も解放された状態でぼんやりとソファーベッドに横たわるミエルの顔を心配そうに覗き込むのは高英夫、その背後にはチャコールグレーのスラックスに白いワイシャツとブラックのネクタイを着けた見覚えのある顔があった。
東新宿署の相庵警部だ。高英夫がいるのはまだ理解できる、しかしなぜここに警部がいるのか。ミエルは未だ覚醒しきっていない頭で必死に考えてみる。もしや新宿から来たらしきあのギャング風味な連中が絡んでいるのだろうか、それ以外に思い当たるフシがない。ミエルは未だぼんやりする頭で問いかけた。
「け、警部さん、どうしてここに?」
その問いに答えんと相庵警部もミエルと目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「この町に新宿あたりの不良集団が来ただろう。連中、大麻草の鉢植えを横流ししてやがった。その商売相手が歌舞伎町を拠点とするカルト集団でな、宗教法人を名乗ってるだけにこっちも迂闊に手が出せないんだ。仕方ないからブツの流れだけでも追いかけようってことになってな」
余程イラついているのだろう、相庵警部はぶっきらぼうな口調でさら続けた。
「したらばこの町に行きついたってわけだ。ところがそのカルト集団がこの町で信者相手の霊園造成を計画してるなんて話も飛び込んできてな、おかげで全てがつながったってわけさ」
「ミエル少年、外鎮守は知ってるよな、ママの依頼で空撮したあそこだ。あそこに……」
「大麻草の自生地ですよね」
高英夫の言葉にミエルがすかさず相槌を打つ。そこまでわかっているのならと相庵警部が事の全貌を話し始めた。
元々は河川跡だったいびつな土地を霊園にふさわしい形に造成するには外鎮守と呼ばれるあの区画をなんとしてでも手に入れたい。そう考えたカルト集団は当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった新進の不動産デベロッパーに話を持ち掛けた。
「それってあのダイモンエステートですよね」
「その通り、お前さんがぶっつぶしたあのダイモンさ」
「そんな、つぶしただなんて……」
困惑の表情を浮かべるミエルをよそに相庵警部はさらに続けた。
ダイモンはお得意の手口で所有者である神主の息子を毒牙にかける。しかしある日を境に地上げ事業自体がストップしてしまった。困ったカルト集団は独自に調査を始める。幸い町は霊園開発に大乗り気だ、彼らへの協力を惜しむことはなかった。そこで彼らは大麻草自生地の存在を知ってしまったのだった。
「あの教団め、イニシエーションだとか気取った名目で信者に大麻を提供していやがるんだ。連中にとってはまさにおあつらえ向きの話だ、不良どもを使って調達した株で自家栽培を始めたってわけだ」
「それで警部さん、検挙とかしないんですか?」
「まあな、いろいろあって今は本庁が内偵中だ。いわゆる大人の事情ってヤツさ」
相庵警部は吐き捨てるようにそこまで話すと立ち上がって四畳半を物色し始めた。すっかり回復したミエルも高英夫の手を借りて立ち上がると部屋の中を見渡した。
「あれ? ここに鉢植えがあったんだけどなくなってる。四つあったんですよ」
「大麻か?」
「おそらく。あの匂いと葉っぱの形はボクが森で見たのと同じでした」
ミエルと高英夫の会話に相庵警部もすかさず話に加わる。
「そりゃ女が持って行ったんだろう」
「警部さん、彼女のこと、ご存知なんですか?」
警部がそう言うも部屋の中にジュリアがいた痕跡は何一つ残されていなかった、吸い殻を残したままの灰皿を除いては。それを目にした瞬間、ミエルの脳裏に昨夜の記憶がフラッシュバックした。
「あ、ああっ」
自然と溢れる涙、それはあまりにも迂闊で非力だった自分に対する悔し涙だった。
「高さん、警部さん、ボクは、ボクは……」
大麻を喫ってしまった。そう言おうとしたときだった、相庵警部がミエルの肩に手を置いて諭すように言った。
「心配するな、お前さんが喫わされたのはただのタバコだよ。両切りの、おそらく缶ピースか何かだろう」
「えっ?」
「あの女は大麻常習者だ、逮捕歴もある。だがな、さすがにまだ子どものお前さんには情でも移ったんだろう、ここにある吸い殻は確かにピースだよ」
「それじゃ……」
「ミエルよ、お前さん、タバコは初めてだったろ。そりゃ眩暈もするさ。とにかくお前さんは大麻なんぞやってないってことだよ」
相庵警部の言葉を聞いた途端、一度は引いていた涙が再びミエルの頬を伝う。しかし今度のそれは彼にとって安堵の涙だった。
「ミエル少年、泣くな、泣くな。とにかく君は無事だったんだ。終わり良ければ何とやらだ、そんでもってあんな女のことなんかさっさと忘れちまえ」
涙を拭いながら小さく頷くミエルの頭をくしゃくしゃと撫でる高英夫の姿はまるで弟を気遣う兄のようだった。
三人はもぬけの殻となったジュリアの住まいを後にする。案の定、そこにあるはずの軽トラックは轍だけを残して消えていた。ただミエルの荷物と自転車だけを残して。
「中井朱里、二八歳、またの名を落合蘭子、どれが本名かわからんが大麻解禁を主張する活動家崩れの女だ。やっこさん、どこで聞きつけたのかここに大麻草が自生していることを知ってこのヤサに潜伏してたんだろうよ。ヤツにはペット屋と植木屋って仲間がいてな、フクロウの森がどうとか言う自然保護団体を名乗って活動してる。連中、会員制の裏サイトだかで乾燥大麻を売りさばいてやがるんだ。まあ、そっちも本庁が動き始めてるがな」
相庵警部がひと通り話し終えると思い出したように高英夫が口を開く。
「ところでミエル少年、朝イチでママから連絡があってな、すぐに帰って来いって話だ」
「ええっ、マジですか?」
「ああ、マジもマジ、大マジだ。あの人のことだ、詳しいことは全然話さねぇけど少年が撮った外鎮守の動画、あれが絡んでるかも知れねぇな」
「わかりました。ところで高さん、宿に戻るならボク、お風呂に入りたいです。何しろ昨日から着の身着のままですし」
「しょうがねぇなぁ、よし、そのかわり四〇分で支度するんだ」
「了解です」
ミエルの顔から涙はすっかり消えていた。ようやっと取り戻したいつもの笑顔でおどけた敬礼をして見せるミエルの姿に相庵警部も苦笑いを浮かべる。
さあ、ここの温泉も今日で浸かり納めだ。こうしてミエルの夏休みは苦い思い出を残しながら突然に幕を閉じるのだった。
次回、いよいよ完結です。
引き続きお楽しみください。