29 八尾の戦い(その1)
「宮内少輔(長宗我部盛親)様、ほんまに物見を出さずともえいのですろうか。この霧では目隠しされちゅーも同然で御座るるが?」
「右近(長宗我部右近大夫)よ、必ず藤堂が来ると秀頼様がおっしゃったきには、來るのだ。やったら、物見は不要。敵が見えたら好機に押し出し一気に玉串川まで押し込む。それでこの戦は勝ちや。」
長瀬川の堤防の裏に長曾我部勢五千と淡輪重政勢二千が伏せている。眼前の長瀬川は大河ではなく、徒歩で越えられ無い訳では無いが、この時期は水量が多く幅10~20m、深さ1~2mになる。この微妙に渡りにくい状況を利用して撤退する藤堂勢を刈り取り、さらに東の玉串川まで追い立てよう………そういう作戦を盛親は立てていた。玉串川はなかなかの大河で幅50m以上、深さ2~3m近くある。玉串川を渡って逃げるには泳がねばならず相当に水練に達者な者以外はここで溺死に至らしめようという訳だ。
「右近(長宗我部右近大夫)、関ケ原でもちっくと思うた事だが、我ら土佐勢は鉄砲装備が遅れちゅー。数ももちろんやけんど運用の技も拙い。急ぎ鍛錬もさせちゅーがまだまだじゃ。じゃが、白兵戦ではだれにも負けん兵達じゃ。じゃから、この戦は射撃戦はせん。十分引き付けて一息に白兵戦で突き崩し藤堂ばらを玉串川に沈めるがよ。」
「宮内少輔(長宗我部盛親)様、そりゃえいお考えじゃ。兵達も戦い易かろうて。じゃが藤堂勢には弥次兵衛(桑名吉成)もおるが、それでえいき?」
桑名家は応仁の乱のころから長宗我部家に仕えた家臣だ。桑名吉成自身も四国平定戦、戸次川の戦いと転戦している。関ケ原の戦いで長曾我部家が取り潰される時に徹底抗戦を主張する者達を説得、無血開城に尽力した縁もあって、現在は藤堂家に仕官していた。
「ちっくと昔なら、親子で槍を突き合う事も普通にあった。敵として見えたやったら死力を尽くして戦うがが武士いうもの………とでも云うたら恰好が付くがやろうが、弥次兵衛と戦うがは正直気分が乗らんねや。だが、中途半端に手を抜ける相手でもない。本気で首を取らんとわれが首に成るで。」
「そりゃ困るなあ。それじゃ、なんちゃあ考えず見境のう首狩りにはげむわい。」
「それがよか………。」
この戦場も他同様に深い朝霧に覆われている。一寸先も見えぬ真っ白の中、全身を耳と皮膚にした土佐一両具足残党達。ついに彼らの前に段丘を登り切った藤堂勢がその姿をぼんやりと顕す………
「いまじゃぁ~!突き落せぃ!!!」
--------------------
---------------
----------
「弥次兵衛(桑名吉成)殿、なにも此度まで先鋒を買って出ずとも。我らはこの戦、ずっと出ずっぱりですぞ。」
「仁右衛門(藤堂高刑)殿。毎々付き合わしてすまん。ですけんど、我らは土佐衆にあって裏切り者。無事に土佐の引き渡しも終えた今となっては疾く逝くだけがお役目なったら、仁右衛門殿は我が討ち死にを見届けられし後は皆を見捨てて和泉守(藤堂高虎)様へご注進くだされとう。」
「弥次兵衛(桑名吉成)殿………なにもそこまで意固地にならずとも。和泉守様も多くの主君に仕えてこそ武士の誉と申されて居りますぞ。」
「左様。これからの世の武士はそう有るべきなのですろうな。ですけんど儂は古い古い武士ながや。土佐の為と我を曲げても和泉守(藤堂高虎)様のお手伝いをさせて戴き俸禄までもろうちょりまするが我は抜け殻。彼ら大坂方の槍に掛けられ終わりにするがが似合いで御座る。それまでは、ただ只管前に進みたいき御座る。引き受け手の無かった目付を受けてくだされた仁右衛門(藤堂高刑)殿にはすまん事なれど………。」
桑名吉成の意思が固く、藤堂家に心服させて譜代の家臣とさせるのは無理か………と半ば藤堂高刑が匙を投げかけた、その時
「いまじゃぁ~!突き落せぃ!!!」
「ぬっ、大坂方め、此処まで迎撃にでてきていたかっ!弥次兵衛(桑名吉成)殿、対応………弥次兵衛(桑名吉成)殿?」
「見なされ、仁右衛門(藤堂高刑)殿。ありゃ土佐勢、宮内少輔(長曾我部盛親)殿で御座るで………。」
「………確かに。いや、それどころでは御座らぬ。あの勢いはいかぬ。直ちに手当を、弥次兵衛(桑名吉成)殿!」
「宮内少輔(長宗我部盛親)殿が…我が一両具足が渾身の手詰めの戦に手当らあなにも叶わんわ。なったら今こそ、この桑名弥次兵衛が一時支えるゆえ仁右衛門(藤堂高刑)殿は急ぎ和泉守(藤堂高虎)様の元へ赴かれ後方に陣を敷かれませい!それ以外の手立てなどあり申さん!」
「 ………弥次兵衛殿………この場は任せますぞ………」
桑名吉成の返事を待たず、数名の近習のみを率いて藤堂高刑は走り去るのだった。




