20 土佐
幸村との対談の翌日。身支度を整え私室を出る。
「如何なされました、秀頼様。」
「そなたは、確か…」
「木村殿も出陣準備で陣所に出て居られるので留守を頼まれました、結城朝勝で御座います。」
結城朝勝か!結城姓だが本来は宇都宮氏の血脈だ。史実では関ケ原の戦いから終始大阪方に与しており夏の陣以降も生き延びた数少ない将だ。小身のため独立部隊を率いる事は無かったが、持って生まれた運は有る方だろう。
「そうであった。朝勝殿、ちと長曾我部殿の陣所へ行くので供を頼む。」
結城朝勝を伴い出陣準備で忙しい長曾我部盛親の陣所へ向かう。
「朝勝殿は上杉殿や佐竹殿の陣営を渡り歩いて居られたが、どうであった?なにか気が付く事などは無かったか?」
「上杉様と佐竹様ですか………。そうですな、特にお二方に限った事では御座いませぬが、上方の軍勢と比べると関東東北の軍勢は鉄砲の装備が少ない………それもすごく少ないと感じまする。ただ、伊達様と伊達様に影響された最上様は早くに気が付き、上方の軍勢に劣らぬ数を揃えられておりますな。」
「ふむ。関ケ原の戦、直江殿が最上を攻めあぐねた原因の一つが鉄砲と聞くが、今でもそうであろうか。」
「さほど変わりますまい。御存じの通り、関東東北は常設の市も滅多になく、今でも商いは低調で御座います。鉄砲だけ突出して取引されれば噂に成りますが、左様な話は聞いた事も御座いませぬ。火薬はさらに入手し難く、上方の軍勢のように銃身が焼ける程連射することはほとんど無く、1斉射後には突撃に移るのが普通で御座います。」
「成程、そうであるか。良い話を聞けた。また思い出した事などあれば教えてほしい。」
朝勝が頷く。程なくして長曾我部盛親の陣所に着いた。
「秀頼である、盛親殿と面談したい。」
取次が走ってすぐに長宗我部盛親が出てくる。
「次は御大将かよ?、どう為された?なにか心配事でも?」
「?次とな?」
「いやあ、つい先程まで、お方様の陣中見舞を受けちょった。」
ふふ、千も頑張っておるか。
「それは重畳。なに、盛親殿の戦にはなんら心配など有りはせぬよ。土佐の事で気がついた事があって来た。盛親殿は土佐の様子を部下と話されたりはされて居るかな?」
「儂はもう土佐の国主やないきな。未練思われるがも剛愎やき話題にはせんな。部下達も気ぃ使うてくれちゅーがじゃろう、土佐には触れんなあ。」
「やはり左様であったか。」
「土佐がどうかしたがかのう?」
「盛親殿は関ケ原以降、京に隠棲されていたので知らぬと思うが、今、土佐は酷い有様なのだ。盛親殿に代わって入府した山内が在地武士の慰撫に失敗し反乱が多発して居る。今は掛川から連れてきた旧臣を土佐の要地に駐屯させて力任せに抑え込んで居ると聞く。」
「はぁ?何をやっとるんじゃ、山内は。一領具足は皆家族じゃ。そがな事したら余計に拗れるだけじゃ。腹割って意気投合するまで膝突き合わして何が不満か聞きゃええものを。」
「このままでは領主も住民も、何れも上手く行かぬ。そこでだ、次の戦で大坂方の武名が上がった後、土佐で燻っている山内に反抗的な剛の者を大坂に誘ってくれぬか?山内に従順な者はそのまま土佐で暮せば良いと思うが、不満を抱えた者は働き場が欲しかろう。」
「なるほどのう。流石御大将じゃ。日ノ本の隅々まで良う見とられるわ。そうよなあ、おお、そうや、土佐には谷神右衛門がおる筈じゃ。まだ二十代の若者だが人扱いが上手う内治の才に秀でちゅー。奴に選別するように文を書きましょう。」
「頼めるか。ならば頼みついでに土佐水軍の心得の有る者が残っていれば、元の土佐水軍衆も集めてくれ。知っての通り儂の親父殿が水軍衆を失業させてしまったのでなぁ。なにも失業にまで追い込まずとも良かったのだ。だが、今ならまだギリギリ間に合う。儂が海運警護役として雇い新しい日ノ本水軍を育てたい。」
「おう、先の軍議でも話に出ちょった豊臣水軍再建じゃな。ゆくゆくは日ノ本で南蛮船を建造すると淡輪殿に言うちょられたのう。水軍衆のう………土佐水軍は池頼和殿が差配しちょったが、儂の親父、元親と行き違いがあり切腹させてしもうちゅー。だが、種崎ではまだ造船しちゅーはずだ。造船しちゅーきには操船できる者がおる筈や。こちらも谷神右衛門に探らしてみろう。」
長宗我部盛親に頼み事を済ませて陣所を出る。そのまま結城朝勝を伴い城南西の木津川口方面に出かける。
「朝勝、先の戦では木津川口砦も奪われていたのだったな。」
「はっ。明石様が八百ほどで守備されておりましたが浅野、蜂須賀などの大軍の攻撃を受け、衆寡敵せず放棄されております。」
「八百か。並の砦では其れ以上多くは籠められまい。やはり城から独立した孤塁ではだめだな。」
「すると秀頼様、総構えを延長して連結させる作事をなさると?」
「行く行くは………だな。通常の城には最低でも大手と絡手の2つの口が有る。巨城ともなればもっと数多くなる。だが、何故か水城の多くが水運の入り口が一つだ。制海権があれば一つで良いと云う考えだろうが、この木津川口は陸上で遮断出来るので制海権が有ったとしても、其れだけでは補給路を維持できぬ。」
「確かに。木津川そのものに隣接しているならともかく、木津川から狭い水路を引き込んだ運河ですからな。陸上兵力で容易に遮断できまするな。」
「うむ。運河をもう一本掘って回廊のように木津川口砦と船場南方砦まで繋ぐか?守備面が伸びる割に脆弱になるが。どうにもこの木津川からの搬入口は守りにくいな。」
「如何にも。本気で守るなら博労淵砦も手当が必要になりますな。」
「博労淵砦か。冬の陣では両方とも落とされていたな。元々守りきれる場所では無いのだな。」
「いっそ、西側まるごと城に取り込みますか?」
秘めている構想を言い当てられて驚く。やはり人は実際に合ってみなければ測れぬ。
「良い案だが流石に直ぐには無理だろう。大阪城が三倍ほどの大きさになる。工事期間も相当な日数になる。だが戦況が膠着した場合には生きてくる構想だ。その時は軍議で目くばせするので、提案してくれるか?」
よい機会なので、後日の種を朝勝に仕込んでおく。これで朝勝もその時まで秘匿してくれるだろう。
やはり、本命の補給路は南蛮船でも横付けできる淀川側に切り替えるべきだな。木津川口は淀川補給路を隠蔽するための偽装に使うのが当面は良さそうだ。
「何れにしろ今は時間が無い。最低限の復旧と物資の取り込みをするので限界だな。」
10年単位の籠城戦は戦国時代の想定外だからな。大阪城が復旧完了したとしても色々穴が見つかるだろう。いや、待てよ、家康はあと2年ほどで史実では逝く。家康が逝った場合、江戸幕府が大規模な動員は可能なのか?………残念ながら可能か。後の島原の乱の時でさえ12万を動員している。戦自体はボロ負けで攻めては撃退されてを繰り返した。最後はオランダ船に砲撃まで頼み込んでの兵糧攻めでやっと原城を落としている。まあ、動員はできても家康以降、軍略の才のある人材は徳川幕府に出なかったのは救いか。原城であれだけ持ち堪えたのだ。大阪城で職業軍人が籠城となれば、ちょっとやそっとでは落とせぬだろうが、幕府を屈服させるには、まだなにかが足らぬ………。何か見落としているような氣がする。
漠然とした不安を抱いて木津川口砦跡から戻るのだった。




