13. 大和郡山城攻撃作戦
箸尾高春:箸尾氏は平安末期以降、大和国の広瀬郡箸尾荘を根拠とした土豪。藤原北家の庶流とも。
大坂城表御殿に主だった諸将を集めている。家康来寇までに一ヶ月の猶予があるが、堀の復旧にはさらに1ヶ月不足であるため時間稼ぎをせねばならない。そのための軍議を開くのだ。
ここで史実での夏の陣の主な出来事を時系列順に整理しておくと、
慶長19年(1614年) 7月21日 方広寺の鐘事件
10月1日 片桐且元、大坂城を退去
11月15日 大阪冬の陣始まる
12月19日 冬の陣、講和
12月23日 大坂城の堀、埋められる
元和元年(1615年) 2月14日 家康、駿府へ戻る
3月 ?日 大坂方、再軍備開始
4月 7日 家康、諸大名に大坂追討発令
(今、ここぐらい)
4月23日 大坂方、大和方面軍編成出陣
4月26日 大坂方、大和郡山城を攻略
4月29日 塙団右衛門が和泉樫井にて討死
5月 5日 徳川家康・秀忠十二万、河内星田に着陣
5月 6日 河内若江の戦。木村重成 討死
道明寺の戦い。後藤基次、薄田兼相 討死
5月 7日 真田幸村 討死
5月 8日 大坂城落城
このような経緯だ。ちなみに、大坂方7万、徳川方総兵力約15万と云われるが、双方盛っている感じがする。
ともかく表でわかる通り、敵側の勘違いで掠め取れた大和郡山城攻略以外は連戦連敗だ。
だが個々の戦闘場面では結構善戦もしていたのだ。河内若江の戦では一度は撃退に成功しているし、八尾の戦いで長宗我部盛親が藤堂高刑などを討ち取ってもいる。毛利勝永に至ってはこれと言った敗戦は無く、個人実績としては連戦連勝、大坂城での最終戦まで戦い抜いた。
結局、兵数の差に押し切られたのだった。
兵も将も寄せ集め、統一指揮の下で戦った経験もない。援軍の見込みもない。マトモにぶつかって勝てると考える事がおかしいにも関わらず、此処まで善戦できている事実は将帥の能力では寧ろ大坂方のほうが上回っていた事を伺わせる。
そして、この世界では諸将に将来の希望を見せているので逝き急ぐ将は無く、皆本気だ。
兵数差のある相手にマトモにぶつからず、戦果を上げる軍議ができる下地ができている。
そして史実でも大和郡山城攻めは成功した。よって未来知識をフル活用して、此処で形だけでも一勝をもぎとる。
「皆も知っての通り、いよいよ家康達が攻め込んでくる。大坂城の総構えは今でもそれなりの防衛力を保持しているのは先日説明した通りだが、内堀、外堀も含めて万全な状態にするには少し時間稼ぎが必要だ。今日は其の方策を皆に諮りたい。」
「やはり、要害の地まで出張って通過しようとする徳川方を叩く事になりましょうな。」
直情径行で戦闘指揮に自身がある後藤又兵衛が常識的な作戦を言う。諸将も頷いている。
さらに話が進む直前、予め仕込んでいた通りに大野治房がボソッと言う。
「………いっそ、大和郡山城を奪っては如何でしょうか。」
治房は筒井氏調略に郡山城に赴いている。郡山城の筒井定慶が地侍を掌握できておらず、正規兵が数百にすぎない事までは知るまいが、非常に手薄と感じ取っている。この仕込みを相談した処、一も二も無く賛同してくれたのだった。
「我々の元に大和の地侍が多数参集しております。彼らの手引があれば、手勢が僅かの郡山城は落とせましょう。」
「郡山城がそがに手薄かえ?」
改めて長宗我部盛親が問いただす。長宗我部盛親は関ケ原敗戦後改易され京都で隠棲していた。情報遮断されていた時期も長く、京・大坂以外の情勢には疎い。
「はい。某(治房)が訪れた時にはほんの僅かな守兵しかみかけませなんだ。あれでは山寨一つも守れれば良い方かと思いますぞ。」
諸将が前向きに考え始めている。中途半端に要害で迎撃するよりも出来上がっている城塞を奪うほうが効果が上がるのではないか?と検討し始めた。
だが、徐に真田幸村が言う。まるで独り言のような調子で皆に聞かせる。
「大和郡山城は元々度々落城する弱い城だった。地形がなんら要害ではないからだが、大和大納言(豊臣秀長)様が入府されて大改修され大規模化、さらに増田長盛殿が未完成とは云え総構えまで計画するに至り名実ともに大坂城と対をなす、『掎角の計』を施せる城になったわけだが………。」
「『掎角の計』?とな?」
軍事にあまり明るくない大野治長が聞き咎めて問い質す。
「『掎角の計』とは、掎は後ろから足をとること、角は前から角をとること。つまり、前後から挟み撃ちにする構えと云う訳ですな。だが、郡山城は規模が大きくなりすぎた………。」
「大きいと障りがあるのか?」
「はい。治長殿、この大坂には七万の兵が詰めていると申せ、本来大坂城は十万でも詰めるべき巨城。今でも少し手薄なので御座る。巨城の郡山城を拠点として進退するには二万は欲しい………。」
郡山城を堅持するだけなら一万ほどで足りようが、それでは只籠もっているだけだからな。出撃して家康方の背後を脅かすには別働隊を出せるだけの兵力が必要だ。
「そうか………。幸村殿の説明で良く判った。七万では大坂城以外の拠点を造るには足りぬか………。」
ほう?意外にも大野治長は他人の言う事を素直に聞き入れられる人となりだったのだな。治長の傲岸不遜という人物像は江戸時代の徳川に阿った軍記物作者の創作だったようだ。
「されど、その巨城を奪うと言う事実は捨て難いですぞ。」
大和郡山城に入府した増田長盛の配下でもあった浅井井頼か。浅井の血脈と云うだけで信長に追い回された過去も有ってか、表徴としての郡山城攻略の価値に気がついたか?大坂方の意気盛んと云う宣伝効果は結構重要なんだが。
「大方の意見は出尽くしたようだな。ではこれでどうだ?大和郡山城は落とす。だが、速やかに大坂城に撤退する。勿論、城の物資は根こそぎ奪う。」
「成る程、徳川方の出鼻を挫き、大坂方の武名を挙げると。さすれば、日和見している浪人衆も参集するかもしれませぬな。」
奉公構えを喰らい浪人していた後藤又兵衛を説得して大坂方に勧誘した大野治長が云う。浪人徴募も苦労が耐えなかったのだろう。誰が見ても劣勢な大坂方だからな。
「うむ。その通りだ。どうだ、治房。やってくれるか?この作戦は郡山城や現地の状況に詳しい治房でのうては叶わぬと思うが。」
「よくぞお申し付けくだされました。ならば、我が陣に居ります箸尾高春殿も伴いまする。一軍を以て城に迫れば郡山城に詰める大和の地侍を調略出来ましょう。箸尾氏は古くから大和に根を下ろす氏族なれば。」
「うむ。細かな事は治房に任せよう。僅かの守兵との事、兵は二千程度で良かろう。夜間に城に迫り大軍と見せかけて脅すのも良いかもしれぬ。」
いきなり具体的な戦術まで言及したため、諸将がやや怪訝な表情をしている。史実ではこういった経緯が伝えられているので一応言っておいたのだが、蛇足だったか。
「郡山城攻撃、速やかに撤退は良いとして、城を落とされた家康方は狂ったように反撃してくる事が予想されますぞ。」
当然の懸念を表明したのは明石全登か。勝ち逃げは許さぬと急進しそうな連中が家康方には結構居る。藤堂高虎に井伊直孝、水野勝成………伊達政宗は微妙だな。積極的な見せかけだが、損害を受けるのは御免被るが本音だろう。浅野長晟は真田幸村に九度山から脱走されて面子が無いので、奮戦せざるを得ない立場だな。
そう言えば史実では真っ先に紀伊方面の騒乱を図り、大坂方は塙直之や淡輪重政、後詰めに大野治房が南下、樫井の戦いが発生。奮戦するも結局大敗している。なぜ紀伊などかき回しに行ったのか?成功しても戦略的意味はあまりないのだが。とりあえず一勝を得て味方を落ち着かせる………それぐらいしか意味は無さそうだが?
まあ良い。誰も紀伊について言及しないようだし無視していよう。そもそも浅野は戦局次第では日和見に転ずる可能性もある。わざわざ積極的に敵対する必要は無いしな………。
おっと、家康の反撃だったな。
「全登の言う通り、家康方の忠犬共が狂ったように反撃して来よう。そこで治房の撤退を支援する部隊が必要になる。」
「大和からの撤退路は最短が暗峠越えですが、難路ですな。大回りになりますが竹内街道が確実でしょうか。略奪した物資も持ち帰る事ですし。あるいは北回りで木津川の西岸を辿り相楽から田辺に出て巨椋池の西南から大坂へ帰る、奈良街道の脇街道(精華町の西路)も考えられなくもないか。」
近畿の地理に詳しい木村重成が地図を思い浮かべつつ言う。
精華町の西路は平安時代の帰京路だろう。斎王が京から伊勢へ派遣された場合、京に戻る帰り道のコースだ。
群行路と帰京路
「そうだな。そして其の三通りが一応ありえるが、巨椋池周りは竹内街道よりさらに大回りの上、竹内街道より道も格段に悪い。巨椋池周りは除外して良いだろう。残り2つがそのまま家康方が来寇しうる経路でもある。つまりは両方を抑える必要がある。」
「竹内街道方面は藤井寺の南、大きな古墳のある辺りですな。暗越えの西側出口付近ですと河内国の一之宮、枚岡神社付近ですか。」
史実でも堅実な用兵で大坂城落城まで戦い抜いた毛利勝永が指摘する。
「そうなる。では以後の軍議はこの2方面への手当に絞って検討しよう。」




