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10 郡宗保(こおり むねやす)

「重成、昨日はすまぬ。幸村殿は良く言えば気高く、悪く言えば気位が高い。幸村殿を特別扱いしているという演出に重成を利用させて貰ったのだ。許せ。」

「!秀頼様。そのような事、いまさら不要で御座る。この重成を如何ようにもお使いくだされ。」

「うむ。そう言ってくれると思っていた。これからも頼むぞ。今日は最後の呼び出しだ。旗奉行の郡宗保(こおりむねやす)殿を頼む。表向きの口実は、そうさな………我が父の播磨時代の物語でも聞きたい………そうしておこうか。」


郡宗保は現在数え年69歳の老将だ。秀吉が中国方面軍司令官になったあたりからの家臣で黒田官兵衛とも昵懇(じっこん)の仲だった。黒田長政とも親交がある。裏切の恐れは無く、史実でも夏の陣で大勢決して後、律儀に旗を持ち帰って見事な切腹を果たしている。一説には七手組組頭も努めていたと有る。高齢のため組頭を引退して旗奉行になったと云うのも有りそうな話だ。


「秀頼様。この爺に御用とは有り難い。どのような事でもお引き受けいたしますぞ。」

「うむ。宗保には余人では叶わぬ重要な任務を頼みたい。もうすぐ来寇する幕府軍にわが豊臣は一度、あるいは二度、野戦で痛撃を与え城の復旧の時を稼がねばならぬ。此度はその野戦に儂も出陣する。」

「そうでありましょう。この宗保もきっと出陣されるだろうと思うておりましたぞ。」

「ああ。大方の兵も出払い僅かの兵と守将、恐らく大野治長になろうが………それで大坂城を守らねばならぬ。だが先の冬の陣でも発覚した通り、この大坂城には徳川の間者が未だに残置されておる。」


冬の陣では大坂方の南条元忠が内通していたが渡辺糺が見破り大事に至らずに済んでいる。


「ふむ………。」

「次の戦では完全に信頼できる将の多くを引き連れて出陣するため、冬の陣の時よりも大坂城の防諜は困難になる。最近手に入れた忍び衆も居るが、その多くは戦場に撒くので城には僅かしか回せられぬ。」

「成る程、秀頼様はこの爺に留守の守備を引き締めよと。そこまでわざわざ言われるからには、誰か御心当たりが?」

「伊東長実は、まず間違いなく家康に内通している。」

「なにっ!」

「奴は関ケ原の戦のときも、三成の挙兵をいち早く家康に注進して居る。恐らく太閤入寂直後から、家康に鞍替えして間諜として働いておるのだろう。」

「三千を預かる七手組の将で有りながら進んで寝返っていたとは許せぬ。」

「まあ、それだけ儂に人望が無かったと云う事でもある。多かれ少なかれ、皆が家康の影に怯えていたのだ。儂が内応に気がついたからには最早好き勝手はさせられぬが、長実が自分から家康に裏返った事自体は責める事は出来ぬ。」

「………秀頼様………。」

「だが安心せよ。現状では高位武将で怪しい者は長実だけだ。他の東西融和派や家康贔屓は片桐且元の退去の時に皆大坂城から逃げ出しておる。そこで宗保、お主の出番じゃ。」

「?」

「長実を適度に牽制し不自由を強いつつも泳がせよ。次の戦、我らが出陣した状況を必ず家康に注進しようとするだろう。その書状を密かに奪え。最近俺に従う事となった伊賀者を数名宗保に付ける。」

「!伊賀者がっ!」

「宗保はその奪った書状を真似て、偽の書状を家康に届けさせよ。我らがほぼ全力で出た………そう書かれている筈の部分を半分ほどの兵数に改竄(かいざん)するのだ。この仕事は長実とも付き合いの長い宗保でのうては叶わぬ。お主が改竄した書状であれば、より付き合いの浅い家康が見破る事は叶うまい。」

「秀頼様がこれほど恐ろしいお方だったとは、この爺も今の今まで知りませなんだ。大坂方が全力で出せる兵数で確実に勝つにちょうど良い程度、その最大の兵数を引きずり出して削り取ってしまおうと………。」

「話はまだ半分だぞ。その書状を出した2日後、さらにもう一通偽手紙を出すのだ。今度は『先の書状の通り大坂方は2~3万程度で出る筈が出陣の日当日になって皆勝手に付いて出てしまい5~6万に膨れてしまった………』そう云う訂正の手紙だ。」

「なっ!ひ、秀頼様は一撃で飽き足らず、増援として逐次投入されるであろう追加の幕府軍をも連破しようと!」

「いや、書状を現実通りに訂正しておかぬと、同じ手が二度と使えぬであろう。長実には頑張って働いてもらわねば成らぬからのう、反間として。」

「いやはや………秀頼様は何時の間に軍略を会得されたのやら。爺には全く素振りも見えませなんだ。」

「関ケ原の戦以後、阿呆面で何年も只々座わっていたからのう。その間にじっと学ばせて貰ったのだ。只の子供と思われていたので色々と皆には見えぬ事も見えていたという訳だ。」

「左様で御座いましたか。家康殿も其れで秀頼様の本当の姿を見逃したと………。」

「いや。あ奴は多少の疑念を持ったようだぞ。二条城はまずかったな。」


二条城とは1611年、片桐且元などの肝いりで豊臣秀頼が家康と会見した事を指す。表面上は両者相手を立てていた形だが、豊臣家が家康に決して臣従しない事が明確になった会見だ。加藤清正が秀頼側であると旗幟を鮮明にした場面でもある。その帰国中に船内で発病、清正は病没した。その不審な死に様は家康による暗殺ともっぱらの噂だ。


「加藤殿を失ったのも痛かったですな。」

「いや。清正も正則も、最終的には家康には逆らえなかった事であろうよ。逆らえるぐらいなら、関ケ原でああはならぬ。根底の思いは片桐且元達と同じ融和派だろう。それより、儂が目を付けられた。」

「秀頼様が?」

「うむ。あの時儂は秀忠殿の有様を想像して同じような振る舞いを致すように腐心したのだが、どうも儂の想像以上に秀忠殿は凡庸だったらしい。秀忠殿に比べてあの場での儂の振る舞いは出来すぎだったようなのだ。」

「それで秀頼様が警戒されてしまわれた?」

「そうだ。冬の陣では城も健在だし中盤から勝ち戦になったので儂が表に出ずに済んだのは不幸中の幸いだった。あの大戦でも起たなかった儂を見て、家康も安堵した事だろう。」

「不出来な大将を演じるのも大変な事ですな。」

「なにせ豊臣家は財力が巨大だからのう。財力の真の威力を理解できて居らぬ戦国以来の猛将連中だが、なんとなくの不安は有るのだ。だから儂は愚将の凡将で有らねばならなかった。でないと何が何でも首を取っておかねばならぬ………そう思われてしまうのでな。幼少時は()()淀殿が儂を隠してくれていたがな、はっはっはっ。」

「確かに、秀頼様が成長なされるまでに打ち取りに来られたら手の打ちようが有りませなんだ。………!まさか、もしも三成殿が関ケ原で一戦に及ばず、上杉殿も前田殿同様屈服されていたなら………家康は秀頼様を暗殺した?のでしょうや?」

「恐らくそうなるな。謀殺など致さば世情が揺らぎ朝廷も背を向けるので普通は取れぬ手段だが、どれほど挑発しても誰も起たぬと確認出来て居るなら躊躇すまい。儂が今生きておるのは細い細い綱渡りを続けた結果なのだ。」

「真に………。」

「儂としては多少日ノ本統一が遅れても、太閤が小牧の役で有無を言わさず家康の首を取ってくれて居れば楽が出来たのだがな。太閤も家康をそれなりに警戒しては居たが、あくまで単なる猛将としてだ。家康は如何にして太閤を謀ったのかのう………。」

「太閤様は人を見る目は確かな筈で御座ったですが。そう言えばある時………………………。」


その後は深夜まで亡き太閤の思い出話が続くのであった。

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― 新着の感想 ―
将としても秀でているのでしょうが御伽衆として手元に置いても良さそう。
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