表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

宮中・中




 2人に面識はない。

 紫式部は清少納言と入れ違いで宮中入りしている。

 そして、清少納言とその主、定子の爪痕サロンと『枕草子』に出会う。




 清少納言って誰。




 清少納言は藤原道隆の娘、定子に仕える。

 紫式部は藤原道長の娘、彰子に仕える。

 藤原道隆。藤原道長の兄にあたり、2人はライバル関係にあった。

 仕える2人もまたライバル関係であったのが通説である。

 ところがどっこいしょ。史実では清少納言の『枕草子』で紫式部の夫、宣孝を「服装のセンス最悪、周りも呆れてるわ」等と散々に書かれており、紫式部が激怒したのが理由だ。


 藤原道長との関わりが一つ。

 『源氏物語』では道長が一晩中、紫式部の部屋の戸を叩くシーンがある。

 紫式部は開けたら終わりと思っていたようで道長は朝まで放置された。

 後日、仕返しに道長が紫式部の部屋の几帳(平安式移動型カーテン)ごしに女郎花の枝を見せる。

 これで何か詠んでみろという道長のからかいに対し紫式部は見事な歌を読み上げて道長を驚かせた。

 直後、紫式部に「お前は年増だけど努力すれば綺麗になれる」と捨て台詞を残している。

 この2人は仲が良かった。

 性格は真逆だが、不思議と波長が合った。

 叔父と姪のような、歳の離れた兄妹のよう。

 紫式部自身、20歳上の宣孝と結婚した経験からか、歳上相手の扱いには慣れていた。

 何歳差なのか紫式部の生まれ年が不明なのでわからないが10歳は離れていない。

 

 この出来事からヒントを得たか知らんけど、『源氏物語』の夕霧の段でも女郎花の話が出てくる。

 『光る君へ』では、まひろ(紫式部)は藤原道長との身分差恋愛をする。

 



 清少納言って誰だっけ?




 清少納言と主、定子は陽キャである。

 宮中の立ち回りが上手かった。

 時の天皇、一条天皇も定子を贔屓するようになり、頻繁にベッドインしている。

 同時期に定子の父、藤原道隆が関白に就任し絶頂期を迎えた。

 ところがどっこいしょ。道隆は不審死。後を就いだ道兼も不審死、藤原道長が関白となる。

 居場所が無くなった定子は出家する。

 それから数年後に定子は亡くなった。


 その一年前、藤原彰子は入内していた。

 これを一帝二后という。

 定子死後、清少納言が宮中を去るのと入れ替わる形で紫式部が入内。

 即、彰子に仕えるようになる。


 


 藤原彰子って誰?




 中宮・藤原彰子。先の中宮・藤原定子とは違い陰キャである。

 容姿は抜群で教養もあり天皇の后としては文句なし。

 ところがどっこいしょ。立ち回りが下手。

 定子が作り上げた華やかな雰囲気を継承できなかった。

 やがて陰口が囁かれ、宮中の評判はイマイチとなる。

 さらに不運な事に、一条天皇は亡き定子を忘れられなかった。

 定子の残した子を気にかけており、彰子にベッドインは全然なかった。仕方ないよね、いくら結婚適齢期が13歳でも13歳なんだから。


 大河コンプライアンス大丈夫か?

 でも『源氏物語』の若紫は数え年10歳、つまり9歳だったから、この時代の価値観ではセーフ。現代の価値観をドラマに持ち込むお馬鹿さんはいませんよね。と言いたいが現実は違うんだよな。どう躱すのか気になるところ。


 焦ったのは彰子の父、藤原道長。

 紫式部を彰子の入内3年後に家庭教師として仕えさせた。

 判断が遅い。

 紫式部が彰子に仕えたのは35歳前後だと言われている。

 紫式部はこの15年後に亡くなる。

 ところがどっこいしょ。亡くなったと推察される二次資料があるだけなので、大河ドラマではオリジナルシーンで最終話を〆るかもしれない。ドラマチックに。


 新しき中宮となった彰子は13歳。

 紫式部は13歳まで京都にいた。 

 宮中から父、為時が帰った際には土産話をせがんだという。

 華やかな世界に憧れるのが普通だろう。

 紫式部は普通ではない。

 「女が顔だして人前で仕事なんて野蛮極まりねぇ」といった一般的な平安常識に染まっていく。

 その理由は紫式部が13歳の時に父、為時が官位を失ったから。

 ここから為時は結構頑張るのだが、それから約20年後に越前に下向。

 紫式部は京の雅な生活とは無縁になる。

 それでも越前に愚痴るのだから本当に面倒くさい。

 結婚、出産、夫との死別の後、京へ戻る。 


 幸運な事に友人が出来た。

 上東門院小少将、赤染衛門、和泉式部。

 紫式部、和泉式部、赤染衛門、清少納言の4人は国風文化を代表する『四才女』と呼ばれるほどの才女。


 上東門院小少将は紫式部の腰巾着。

 和泉式部とは悪友。年下相手なので多少威圧している感はある。

 赤染衛門は歳上で、彼女の夫、大江匡衡とはおしどり夫婦として有名だった。

 夫を亡くした紫式部にはそれが微笑ましく映ったのだろう、『紫式部集』では赤染衛門へ良い評価が散見される。


 上東門院小少将は紫式部と仲良し。

 その姿、まさに腰巾着。

 ところがどっこいしょ。上東門院小少将の階級は紫式部より高い。

 宮中での振る舞いの手助けになっていたようだ。

 仲が良すぎたのか、牛車乗り入れの順番が紫式部が上位に逆転した事がある。

 それを咎めないのも平安貴族の特徴である。

 もしこれが天皇や中宮相手なら流罪になるだろう。

 流罪は死刑と同等。

 ちなみに上東門院小少将は藤原道長の寵愛を一度受けた事がある。

 

 上東門院小少将の小少将とは少将の娘という意。

 紫式部の娘も宮中では小式部と呼ばれた。

 この『小』は世界史で時折人名に散見される。

 フランク王の小ピピン。シュリーフェンプランを改造した小モルトケ。

 ただし世界史では厳密な規定があるわけではない。

 小ピピンの『小』は体格が小さかったことに由来し、小モルトケは大モルトケとは甥と叔父の関係である。ジュニアの直訳や、それが養子の場合もある為注意が必要。


 ここまで書いて申し訳ないが上東門院小少将の父、源扶義は厳密には少将ではなく正四位下の参議。

 これは従三位・中納言の真下にくる地位。

 なら正四位上は? となるが正四位上なんて中務卿しかないので実質省をあずかる卿に比べたら影が薄いのだ。


 超簡単に言えば紫式部の父、為時より3つ上に偉いと思って問題ない。

 親の官位は子女にもそのまま適応される。

 これ重要。

 わかりやすくて助かる。


 中宮・彰子に集まった女房達は各所から推薦された一時的な集団である。

 アウトソーシングであり、直属の上司は女房衆に入らない。

 

 紫式部の直属は藤原道長の妻で、紫式部の又従姉妹にあたる源倫子。

 倫子は道長の正妻で従二位。


 上東門院小少将の直属は藤原繁子。

 藤原繁子は一条天皇の母、詮子に仕えた乳母であり藤三位と呼ばれる。

 三位、と示す通り従三位だ。

 仕える主が格上の紫式部が偉いように見えるが、上東門院小少将のほうが偉い。

 それに紫式部は道長の遠縁にあたる親戚とはいえ、道長一派であっても道長一族ではない。


 赤染衛門の直属は謎だが、彼女の父母の地位は低い。

 母に関しては少々問題を抱えており、夫、大江匡衡のツテで文章博士にいたと推察される。

 故に彼女は女房衆内での地位は低い。 

 だが紫式部入内の時点で待遇が高く、歌人として評価されていた。

 赤染衛門は紫式部の前例とも言えた。

 実績のある先輩。

 

 和泉式部は紫式部は完全に同格。

 時々、京から下向を繰り返すキャリアウーマン。

 女房衆内で紫式部と共に愚痴を零す程度には気が合った。



 

 『源氏物語』?




 この頃になると『源氏物語』は宮中では准ベストセラー的人気を誇っており、一条天皇も好んでいた。

 すでに『枕草子』も宮中では知られていた。


 この2つは対比されがちだが、種類は違う。

 『枕草子』は随筆であり、随筆とは簡単に言えばエッセイのようなもの。

 心に思い浮かんだものを随想といい、それを好きに書く雑記。


 一方の『源氏物語』はその名の通り物語。

 平安時代らしく和歌をちりばめたもの。

 『源氏物語』には役800首の和歌があり、紫式部は執筆にあたり、下地になった物語が数多くある。

 厳密には『作り物語』といい、要は創作物。

 『うた物語』に分類される『伊勢物語』『大和物語』『平中物語』の3つと、『伝奇物語』に分類される『竹取物語』『うつほ物語』の影響を色濃く受けた悲恋ストーリー。

 『源氏物語』は後に『狭衣物語』『栄花物語』にも影響を与えている。

 影響しないわけない。


 物語は流行していた。

 がしかし、和歌よりは一段二段下に見られていた。

 和歌は知識と知恵が必要。

 当人たちの知恵比べとも言える。

 知的コミュニケーションであり、為時がそうであったように偉い人の御眼鏡に適うと一目置かれる。


 平安時代の陽キャとはコミュ強と『もののあはれ』である。


 『もののあはれ』とは平安独特の刹那的、風情、情愛に対する共有価値観、美意識そのものを共感すること。要は空気。

 『枕草子』も根っこっこは同じ。自然風景、心象風景を主体に、時に和歌を交えつつ、清少納言がストーリーテラーとなって主、定子を褒め立てるべく作ったもの。これは言わば演出だった。


 物語調ではなく自然体。

 自然体でありながら主、定子を輝かしく称え、都合の悪い部分は除外している。

 それゆえに美しく見える

 ジャンルで比べれば『源氏物語』ではなく『紫式部日記』である。

 だがもし仮に『源氏物語』ではなく『紫式部日記』が宮中で流行れば紫式部は越前にひきこもるだろう。


 一条天皇って誰?


 一条天皇は傑物であり、変人だった。

 歌が文化の主流だった時代、一条天皇は文学を流行らせた。

 同時に猫好きであり、清少納言もまた猫好きであった。

 『枕草子』には一条天皇と猫のエピソードも書かれている。

 清少納言は定子とは主従関係とはいえ、かなりの陽キャだった。

 それまで女性は慎むべきという風潮を嫌う先進的な考えを持つ一条天皇に気に入られた事もあり文学が華開く。


 このような宮中で、入れ替わりに入内した彰子に仕える紫式部。

 これを周囲の人間の目にはどう映るだろうか?


 紫式部が陰キャであるように、彰子もまた陰キャである。

 彰子の父、藤原道長は時の権力者であり、使命を全うしなければならない。

 そこで『源氏物語』を書きまくった。

 『源氏物語』が100万字(文庫本約10冊分)の長編になった理由である。

 その結果かどうか知らんけど、一条天皇は16歳の彰子にベッドインしまくるようになり、ついには子を授かる。

 この子は後一条天皇。

 紫式部は見事使命を全うしたのだった。


 定子が作り上げた宮中の華やかな空気は払拭できただろうか?

 否、未練がましくも過去を懐かしむ声は絶えなかった。


 紫式部が清少納言を嫌う原因は『枕草子』である。

 それ以前、陰キャは陽キャを気に入らない。

 ところがどっこいしょ。清少納言の容姿は美しくない。

 髪は縮れ毛で、髪は女の命、髪飾りなどありえない時代。

 ギャップ萌えで男性人気が高かった。 

 清少納言は和歌を通じて色々な交流を持った。

 和歌、つまり漢詩知識で男たちを魅了した。 

 これらを紫式部は「知識をひけらかす中身のない人間」とディスっている。

 宮中では何かと主従共々比較されてい中、清少納言をディスる事で定子が作り上げた華やかな雰囲気を崩す狙いもあっただろう。




 紫式部の闇が今はじまる。




 続く

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ