宮中・前
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紫式部は女官。
女官とは宮中に仕える女の官吏。官吏っつーのは役人。
後一条天皇、後朱雀天皇の生母である藤原彰子に仕えた。
正式には貴人に仕える事を宣旨という。
女官の序列も超細かく分けられている。
ざっくり言えば上位40名とその他。
紫式部も上位40名に入る。
厳密な順位があるわけではないが、上位10名に列挙される事が多いようだ。
女官が宮中への入内する際、偉い順で入る習慣があり、大体10番目に入ることが多い。
紫式部より上の面々は大納言や少将、宰相。
身内だけの世界から急遽、宮中という華やかな世界へ入った。その胸中いかばかりか、察するに余りある経験をした方もいるだろう。
紫式部の"式部"とは、中央機関である八省の一つ、式部省に属する者の総称。
主に人事、宮中儀礼、雑用を扱う。要は総務。
父、藤原為時は式部丞という役職であり、これは式部省の中では上から4,5番目に偉い。
ただ残念ながら、式部省自体はそこそこの省。
現代で例えるなら、都庁人事課の4人いる課長の一人と思って欲しい。
為時は辞職と復帰を繰り返し越前(福井県)に派遣された。
紫式部も同行しており「越前嫌。京都に帰りたい」と日記でディスっており、わずか1年で彼女だけが京都に戻る事となる。
紫式部は幼少より記録力が良かった。
漢詩を諳んじ、父、為時を驚かせた。
兄、惟規は愚鈍であったせいもあり女子であった事を悔やんだという。
漢詩は漢字で書かれている。
漢字は男文字。平仮名は女文字と呼ばれ明治時代まで続いた。
とどのつまり、学問において女児には期待していないのが常識だった。
という認識は過ちではないが、平安初期から広まった「平仮名=女文字」は時代が下るにつれ変化する。少ない漢字がより少なく、あるいは完全に使わなくなっていった。
その理由は「平仮名は女性に任せていたから」。
漢字は男用、漢文は男だけ。
でも漢字だけで文字書くのは大変という事で平仮名が使われるようになる。
しかし笑える話だが公文書である宣旨や、延喜式は全部漢字で書かれている。
平安末期になって平仮名混じりの『今昔物語』あたりから男も使うようになる。
もしかしたら意地があったかもしれない。
平仮名を書ける女性とは女官のみ、それらの日記は『仮名日記』に分類される。
紀貫之の『土佐日記』の冒頭には「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて」とあり、 「男が書く日記を、女も書いてみようと思って」とある。この女は女装した紀貫之本人。平安初期での広まりがどれほど早かったのかよく分かる。
『紫式部日記』の分類を厳密にするならば『仮名日記』の中で、女房と主の日々を書き記した『女房日記』の中で正確な時系列と自照性を主とし、和歌をつけ加えた『女流日記』。
紫式部が一という漢字を読めないふりをする。というエピソードがある。
漢字読めないあーしかわいい。
少なくとも1年はやっていたようだ。
『源氏物語』は漢字と平仮名で書かれているので無理な話である。
『源氏物語』は彼女が宮中入りする前の1000〜1010年にかけて書かれた。
書いた理由は夫、宣孝との死別が発端。
紫式部日記』は1008〜1010年の2年間で書かれている。1010年は大きな転機になったようで、翌年には父、為時が越後守に任命されている。その後、宮仕えは3年ほど続く。この3年間に歌集『紫式部集』を書き上げ、『紫式部日記』の補完も兼ねたようだ。
紫式部って? その前に父、為時を深掘り。
晩婚の理由は父、為時が越前を受領したから。
分かりづらいけど受領と呼ばれていた国司の内政官。要は県知事。
為時の一族は代々、中央官僚の超エリート。
娘は引手数多で令嬢はじまったと思うだろう。
だが実のところ、為時は紫式部が幼い時に亡くなった母の分まで愛情深く育てていた。
母と姉を早く亡くし、引っ込み思案で文学少女の紫式部を気にかけていた。
中央から地方へ異動など左遷と思うだろう。実際そういう資料も時折見るが実情は栄転。
受領後も宮中とは個人的な交流は続いており、歌会を通じて道長とのパイプラインに拡大していく。
後に越後守にも任命される。
日本海は明治まで国際海上交通網で越前越後が極めて重要な立地。
あとこれは自分勝手なこじつけなんだけど、過去に越後守に任ぜられた征夷大将軍の坂上田村麻呂の娘は桓武天皇(第50代)と婚姻してますが、桓武天皇が平安京へ遷都した理由の内、立地、経済、衛生問題の他に東北への影響力拡大があります。
越後は重要地点。為時は内政官なので経済的な期待があったはず。
ところがどっこいしょ。漢詩の腕前は言うほど高いものではなかった。
松原に漂流した宋の商人との会話が漢詩集『本朝麗藻』では自画自賛しているが、『宋史』の記録では「越前に漂流して国司と会ったけど、こいつの中国語たいしたことねぇな……」と書かれる始末。
こんな父親で大丈夫? なわけない。
紫式部は二十代半ばの初婚で晩婚だった。
平安時代は基本早婚。男性が17歳前後で、女性は13歳から。
未婚で20歳超えたら行き遅れ。
この時代ではかなりの生き遅れだが、理由は為時の愛情と為時が無官だったから。
無官はお金がない。
お金がないと結婚出来ない。
当時の結婚は男からの通い婚、3夜連続通って「三日夜の餅」を食べる家族総出の盛大な儀式が行われる。『源氏物語』ではより詳しく書かれている。
そんな世の中で結婚を諦めた紫式部はアラサーまで漢詩と和歌に明け暮れていた。
大河を見た視聴者の多くが共感を得る事だろう。
夫は藤原宣孝。
20歳歳上の宣孝は愛人も多く、2人の関係はこじれそうに思われるが、夫婦仲は良かった。
ただしそれは結婚後の話であって、『紫式部集』から結婚直前まで2人の関係は極めてドライだったようだ。
越前で「なんだよこのクソ田舎。独り身の親父の面倒見について来たけどマジなんもねぇ、米しかねぇ、貿易で言葉通じねぇヤツいるし」と愚痴を綴り、軽いノイローゼになっていた。
そんな時期に20歳歳上の男から和歌が届く。
紫式部も律儀に返歌するあたり無視できない偉い人だった。
なぜなら父、為時と同じ国守なのだから。政略結婚に思える。
ところがどっこいしょ。国守同士で横の繋がりを持ったところで大したメリットにはならなかった。
もう一つ。宣孝には紫式部と歳の近い娘がいる。大河ドラマではどう描かれるのだろうか。
結婚から3年、宣孝は死ぬ。
紫式部は夫を亡くした喪失感を何で埋めたのだろうか?
宜孝の事はたしかに愛していたが、宜孝が死ぬ直前だった、
紫式部が妊娠中は愛人宅に転がり込んでいた。
出産は血が出る。
血は明治時代になるまで不浄とされてきた。
平安時代は特にその傾向が強い。
これは浄穢思想が元になっており、血は穢れ。不浄、呪い、災い、忌み嫌うものだった。
穢れが消えるまでそれぞれ、死は1年、生理は7日、出産は1カ月となっている。出産後、父親は母子に近づかない習わし。
ところがどっこいしょ。別にこれ厳密ではない。
信長も秀吉も産の忌が明けない内に生まれた子を腕に抱いている。
なので歴史ドラマでよくある「おぉ、生まれたか! 元気な子じゃ!」は創作の中だけの話ではない。
平安時代も例外ではないと思える部分がある。
紫式部は妊娠中に愛人宅に転がり込む宜孝をディスっている。
この怒りはしばらく続いたようで、生まれた娘、賢子が物心つくまで続く。
よりを戻した途端に宜孝は亡くなる。
紫式部にとってこれは深刻だったようだ。
年齢的に、当時流行していた死因を考えて恐らくは糖尿病だろう。平安時代の貴族の死因は成人病が多いとされている。
仏教の影響で肉食禁止のせいでタンパク質、ビタミン不足に加え、酒の飲みすぎで早々に逝ってしまうのだ。
習わしがどうこう書いたが、紫式部の怒りは間違いではない。
400年の平安時代、夫婦の在り方は変化した。
平安前期の『妻問婚』は夫が複数の妻の邸宅を尋ねる。
中期後期の『婿入婚』『嫁入婚』は現代と同じ同居。
紫式部の時代は平安中期。
古臭い慣習の夫に嫌気がさして当然だったのだろう。
さらにもう一つ。堅物の父、為時は紫式部が幼くして母を亡くしてから悲しみを取り払うかのように後妻に通いつめていた。
また紫式部自身、宣孝にとって後妻だった。
こんなん頭おかしくなるで。
それでも宣孝が亡くなる前の少しの間は仲が良かったようだ。
宣孝亡き後の紫式部はどうしたか?
『源氏物語』を書き始め、それが宮中でも評判となり藤原道長にも届く。
紫式部の立場は父、為時が時の権力者、藤原道長や一条天皇からの恩義に縛られており逃げ場はない。
半年近く引き篭もっていたが結局、政治的圧力に負けて戻っている。
父、為時の地位も必ずしも盤石というわけではない。
彼が一条天皇に気に入られた発端は、歌会で一句奏上し、気に入られて淡路守になったから。気に入られ続け、藤原道長の思惑も重なり越前の国司にまで至る。
盤石に思えるが為時自身は文人の才覚は高いものの、それだけの堅物。
紫式部の娘、賢子はまだ幼い。
越前は退屈、宮中入りは確定事項だった。
紫式部は女官となり、中宮・藤原彰子に仕えた。
中宮とは天皇の奥さん。
幸い、紫式部はベテランの新人という現代企業が求める人材だった。
彼女の和歌の返信速度、品質は高かった。
打てば響く鐘であった。
ところが響き過ぎた。
彼女にとって不幸なのは平安貴族は9割陽キャだった事。
出過ぎた杭にはなれない陰キャの紫式部は能ある鷹となった。
さらにさらに紫式部は可愛げがなく、父ゆずりの融通の利かない女。
あぁこんな事では中宮の彰子様に恥をかかせてしまう。
というわけで思いついたのが漢字の『一』すらわからない無能を演じた。
そんな楽しい日々の中でも紫式部は仕事に奔走する。
そんな時にあの女……清少納言の存在が足かせとなる。
続く