第9話 聖ジウサ・アリーナの邂逅 ③
アリーナの公衆トイレから出てきたエイダンは、ローブの裾を直して、ふうっと安堵の息をついた。
「あー、どうなるかと思うた……」
「いやはや、某の食い意地のせいで面目なき事となり申した。がっつかずに完成品を頂くべきでこざったな」
同じく、結界が解けたのでトイレを済ませたホウゲツが、後ろ頭を掻きつつ出てくる。
そこに、廊下の角からぬっと虎が現れた――いや、現れたのは虎ではなく、タマライと彼女の背に乗ったラメシュだ。
タマライは危険な種族ではない、という事は理解したが、やはりその容貌は、いささか心臓に悪い。
「悪ィ事したな。あそこまで変に頑丈な結界は、出来ねえはずんだよ本来。水の質が故郷と違うもんで、加減に失敗したみてえだ」
ラメシュは顔をしかめつつ、ぶっきらぼうに謝罪する。
「はぁ、水の質」
彼と同じく、水に熱と魔力を伝導させる治癒術を使うエイダンにとって、それは耳寄りな情報だった。
「シルヴァミストとテンドゥでは、そがぁに違うもんですか」
「アシハラとシルヴァミストも、まさしく異郷の地にござるよ。水も土も、それらで育つ食べ物も……恐らく、水や食事に含まれる魔力の質も、違い申す。某の術も、少量ながら、絵の具を溶くのに水が必要でござってな。こちらに渡った当初は、戸惑い申した」
と、ホウゲツが口を添える。
「そがぁなかあ。俺も湯を温めんと魔術が使えんけん、気をつけなぁじゃな」
「うん?」
ラメシュが軽く眇めた目を、エイダンに向けた。
「ああ――キッシンジャーの言ってた、もう一人の火属性の治癒術士って、お前か。やけに興味持ってくるなと思ったら」
「あはは、すんません。自分以外の火属性治癒術士さんに会うたん、初めてなんです。嬉しゅうて」
「ふうん……確かに、『火』は爆発力や攻撃性が高い属性だから、治癒者は少ないけどよ」
テンドゥでは火の精霊王ヴラダへの信仰が盛んなため、火の加護属性は特に尊ばれ、保護されてきた、とラメシュは語る。その結果、使い手は少ないながらも火属性の治癒術が確立され、継承されている。
「料理使いはテンドゥの伝統的な治癒者。その多くが火属性だ。オレの使う結界術も、同じ系統の師匠から教わったもんさ」
「教えて貰えるんは、ええなあ。俺には治癒術の師匠ちゅうのがおらんのです」
「お、じゃあテンドゥに来て鍛えるか、西洋人? 料理の修行は厳しいぜ」
からかうように指先を突きつけられ、「ううん……」とエイダンは唸った。海外に渡り、料理修業から始めようというのは、流石に厳しそうだ。エイダンは料理の腕自体がからっきしだし、きっとイニシュカを何年も離れる事になってしまう。
「いやしかし、魔術はともかく、あの『カレー』のレシピは、某も気になるところ」
ホウゲツは、すっかりテンドゥ料理を気に入っている。アシハラの主食である米を、久しぶりに口に出来た嬉しさもあるのだろう。
「是非とも母国に伝えて……そして、アシハラの白飯にも合うかどうか、試してみるのでござる! いやきっと合う! 夢が広がるではござらんか、デュッフフフ!」
「カレーじゃねえ、カリーだ。料理全般って意味で――まあ、何でもいいけどよ」
外方を向いて首裏に手を当てるラメシュだったが、故郷の料理を絶賛され、そう悪い気もしていないようだ。
彼を乗せたタマライが、ぐるる、と小さく喉を鳴らし、ホウゲツのすぐ目の前で、鼻をひくつかせる。
「ど、どうなされたのでござろう?」
「お前らが気に入ったってよ。オレをよろしく頼むと言ってる……おい、その一言は余計だぜタマライ」
「それはその……恐悦至極……」
顔を引きつらせながらも、ホウゲツが深々とお辞儀をした、その時。
「ガァッ!」
タマライが、突然虚空を見上げると、口元を歪め、牙を剥き出しにして吠えた。
「ひえっ! 今度はどうなされた!?」
半ば腰を抜かして、ホウゲツが再び問う。タマライに倣う形で、ラメシュも上へと鋭く視線を向けた。
「そこに、何かいるぜ!」
ラメシュの視線の先には、アーチ状の大きな窓がある。ガラスなどははめられていない。
そこから、黒々とした巨大な影が、するりと侵入するのがエイダンにも確認出来た。
「なん――」
疑問を口にするよりも早く、影は窓辺から壁を蹴り、更に柱を蹴って、軽やかに床に降り立った。
群青色の毛並みを持つ、狼だ。その全長はタマライよりも大きく、実にエイダンの三倍はある――
「ヤホー、エイダンくん!」
狼が、そう口を利いた。
そして次の瞬間、狼の姿は青い霧のように、空中で溶け消える。薄れた霧の合間から、極東の華やかな衣を纏った少女が現れ、長い髪を振り乱して、エイダンに抱きついてきた。
「コッ……」
「小宵……! 大妖、錆納戸、小宵殿……!?」
抱きつかれた勢いで床に倒れたエイダンが、相手の顔を改めて確認する前に、ホウゲツが裏返った声で叫ぶ。
間違いない。彼女はコヨイ・サビナンド。エイダンのかつての仕事仲間で、アシハラ出身の『浄めの踊り子』。その正体は、狼型の魔物だ。
「ンッ? 誰? ……アシハラの人ネ?」
エイダンを圧し潰したまま、コヨイはきょとんとホウゲツを見つめた。
以前ホウゲツは、コヨイと一度だけ対面した事があると言っていたが、コヨイの方は、彼を覚えていない様子である。
「コッ、コヨイさん、すまんが重い……」
コヨイの下敷きとなったエイダンは、身動きがつかない状態で呻く。
失礼な物言いかとも思ったが、実際、コヨイの身体は見かけよりも重かった。小柄な東洋人の少女の姿は仮初めのもので、本来は巨獣なのだから、さもありなん、という話ではある。
「アラ。そういうところ不粋ヨ、エイダンくん」
と、コヨイは口を尖らせてエイダンから離れる。
「何者だ!? 魔物か、その女!」
ラメシュが警戒の声を上げ、身構えた。タマライも姿勢を低めて、猫科独特の攻撃態勢を取っている。
「あっ、いんや、この人は大丈夫だけん。タマライさん、ラメシュさん」
腰をさすりながら身を起こし、エイダンは慌てて、二人の前で腕を広げる。
「なんちゅうか、俺の知り合いで……」
「友達って言ってヨ、エイダンくん」
「……友達で」
「そ、某は! 貴殿の『ふぁん』にござる!」
「アラ、ありがとネ。アシハラの人に会うなんて、久しぶりネ」
「――何なんだよ」
ぐだぐだになる三人の会話に、ラメシュは眉をひそめたものの、一先ず、即座に戦闘の必要はないと理解してくれたようだ。タマライの肩口を軽く撫でて宥める。
エイダンはほっと息をついてから、コヨイに向き直った。
「ほいでコヨイさん、どがぁしんさったん? 元気なんは嬉しいけど、ここは軍人さんもいっぱいおる場所だけん、見つかると危ないんと違うかな」
正規軍の上層部や、北方の戦線を経験している軍人の中には、コヨイの姿形を知る者がいる。
シルヴァミスト正規軍にとって、魔物は基本的に、問答無用で排除対象だ。大半の魔物は対話不可能で、人を襲ったり食べたりしがちなので、無理からぬ事ではあるが。
「ンー、チョット遊びに来てるだけヨ。大きなお祭りがあるんでショ? お父様も今、ここにいるし……」
「お――お父様ッ!?」
まるっきり軽い口調のコヨイに対して、エイダンは仰天した。
「ヴァンス・ダラさんが、ここに!?」
「お祭り見に来てるネ。お父様はお風呂も好きだけど、お祭りも好きヨ」
「俺もどっちも好きじゃけど……いんや、そうじゃなぁて」
「ヴァンス・ダラ……西方だか北方だかの、禁術使いだっけか」
「おお。蛮陀羅天狗の事でござるな」
ラメシュとホウゲツが口々に発言した。二人ともヴァンス・ダラについては知っているらしい。
しかもどうやらアシハラには、珍妙な名前でその存在が伝わっている様子だ。テングとは一体何だろう、とエイダンは不思議に思ったが、ホウゲツへの質問は後回しにしておく。
「……ヴァンス・ダラさんは、今どこにおるん? ほんまに、祭りの見物だけのつもりなんじゃろか」
エイダンはコヨイに訊ねた。
現世代唯一の、闇の魔術の使い手。シルヴァミストの仇敵、魔杖将ヴァンス・ダラ。それがコヨイの父親だ。
エイダンの知る限り、彼は必ずしも悪意で人々を苦しめるような人物ではない。ただ、非常に気まぐれな性分ではある。
埒外の魔力の産物を、人も魔物も区別なく、好き放題に施し与えるものだから、時に途方もないトラブルを生じさせる。それに、自分に降りかかる火の粉を払う際には、容赦などしない質だ。
「どうだろネ?」
コヨイはけろりと首を傾げた。
「これから始まるお祭り……蒼薊闘技祭、だっけネ? 優勝者は毎回、英雄扱いヨ。時には、北の魔物の討伐軍の、お御輿として担がれたりもするネ」
「そうなん?」
「そうヨ。北でお腹空かしてる魔物の子達を心配するお父様が、このお祭りを気にするのは当然ネ」
「ほんならっ……もしかして、大会に参加する人に、危害を加えたりだとか……」
「サァ? デモ、ワタシが確かに言えるのはネ……お父様は、不粋な真似は嫌いって事ヨ。お祭りを楽しむのが一番の目的なのは、間違いないヨ!」
にっこりと、コヨイは紅を刷いた魅力的な唇を吊り上げてみせる。
何と返したものか、エイダンが言葉に迷っているうちに、コヨイは彼らから一歩距離を取り、ぽんと後方に跳ねた。
それほど勢いをつけた風でもなかったはずだが、彼女は大きく宙返りをして、ひとっ飛びに窓辺へと着地してみせる。
「コヨイさん……!」
「お父様も待ってるから、また今度ネ、エイダンくん! 久しぶりに会えて嬉しかったヨ。フェリックスや、みんなにもよろしくネ!」
呼びかけるエイダンのすぐ後ろでは、タマライが警戒の姿勢を緩めず、ホウゲツは「ああああ」と裏返りっぱなしの細い声を漏らしている。
コヨイはひらひらと、袖を揺らして手を振るなり、窓を潜り、煙のように瞬く間に消え去った。
「い、今、某に手を振った!? 錆納戸小宵が某に……!」
「いや、そっちの赤毛に挨拶したんじゃねえのか?」
動転しきっているホウゲツに、ラメシュが冷徹な呆れ顔を向けた。
「テンドゥじゃ、ああいう強い魔物は見つけ次第討伐するもんだぜ。あいつ、街なかに放っといていいのかよ」
「シルヴァミストでも、放っといたらいけんとは言われとりますけど。ただその、コヨイさんには……捕まって欲しゅうはなくて……」
エイダンは、困って眉尻を下げる。
ラメシュは首を捻ったタマライと顔を見合わせ、同時に軽く肩を竦めた。
「――まあ、何か事情があるなら、オレらは通報しねえがよ」
「あんがとうございます!」
「この国じゃ、ドゥン族まで魔物と誤解されがちだ。色々あんだろうさ」
礼を言うエイダンに、ラメシュは答え、タマライはくるりと胴体を返して、廊下の元来た道を戻り始める。
「おい。祭りの本番前の、打ち合わせだか何だかがあるんだろ? キッシンジャーとプライス少尉に、またどやされちまう」
「はっ、はい! ホウゲツさん、戻らんとじゃって」
エイダンは我に返ると、まだ夢心地で窓を見上げているホウゲツの肩を、慌てて揺さぶった。