第8話 聖ジウサ・アリーナの邂逅 ②
アリーナの形状は、正円に近い。
中心にある大競技場と、その周りを取り囲む階段状の客席には、貴賓席を除いて屋根がついていない。催しは青空の下で行われるという訳だ。一方、客席の下には競技の『裏方』達のための、様々な施設が備わっている。
エイダンはアーチ状の門扉を潜り、更に廊下を進んだ先の扉を開けて、夏の陽射しの突き刺さらない、ひんやりとした部屋へといざなわれた。
室内には、諸々の医療器具が用意されている。隅に積まれた担架に毛布。戸棚には包帯に晒、薬瓶、アルコール。
部屋の中央から先は、衝立とカーテンに覆われているが、その向こうに恐らく、診療用の簡易ベッドが並んでいるのだろう。
軍服を着た二人の女性が、数個のバケツと、人が入れそうなサイズの木桶を前に、何事か点検作業を行っている。
二人が揃って、こちらに気づいた。驚くほど顔立ちが似ている。姉妹、いや双子だろうか? 一人は正規軍陸上部門の制服で、もう一人は、魔道部門の制服を身につけていた。
「戻られましたか、キッシンジャー夫人。そちらの方々が、民間のヒーラーですか?」
「そうよ、少尉」
サンドラが答えるより先に、陸上部門の軍人と思われる女性が、興味津々といった様子でエイダンに歩み寄ってきた。
「へぇー、じゃあ君が、もう一人の火属性治癒術士、エイダン・フォーリー……!?」
「もう、一人?」
面食らったエイダンが、思わず問い返すのと同時に、魔道部門の制服をまとった方の女性が、おっとりした口調で注意する。
「ミカエラ、いきなりそんな風に迫って。驚かせてしまいますよ」
「だって、ハリエット! 火の治癒術士が二人なんて、なかなかないよこんな機会。ラメシュはどこだ? 打ち合わせもあるし、早く呼んでこないと」
「……ラメシュがいない? どこにいるの?」
耳ざとく会話に反応したサンドラが、不機嫌に片眉を跳ね上げる。
「さあ……彼、ほんとに自由ですから。テンドゥ帝国の魔術士って、みんなあんな感じなのかしら。困りますねえ」
やはりおっとりとした、あまり困ってもいなさそうな口調で、ハリエットと呼ばれた女性は首を傾げてみせた。
浅い溜息をついて、サンドラがエイダン達に向き直る。
「紹介するわ。彼女達は、正規軍からの救護班員。……逮捕された部隊とは別のね。身辺調査は済んでいるから、信用して」
「救護班リーダーを務める、ハリエット・プライスと申します。正規軍魔道部門治癒術隊所属、階級は中尉。加護属性は『風』。よろしくお願いします」
ハリエットが一歩進み出て、帽子を取り、エイダン達に会釈してみせた。
姉妹と思われる軍人も、それに倣って帽子を外す。二人とも見事な金髪だが、ハリエットが緩く三つ編みに結っているのに対して、もう一方の彼女は、ショートカットである。
「ぼくはミカエラ・プライス。見れば分かるかもしれないけど、ハリエットの双子の妹だ。正規軍陸上部門医薬隊所属、少尉。薬草師としてハリエット隊長を補佐する」
それからミカエラは、先程点検していた大きな木桶を、親指で示した。
「あの桶、君が治癒術に使うんだって? わざわざ手配してきたんだぜ。一体、どうやって使うのさ。燃やす?」
「えっ? いんや、燃やしたりはせんですけど……」
「ミカエラ、およしなさいって」
まごつくエイダンを見兼ねたのか、ハリエットが妹を窘める。
そこに、マディが近づいてきて、エイダンの肩を叩いた。
「こちらも自己紹介といこう。彼らは、私の冒険者仲間なんだ――」
一先ずその場はマディが仕切り、一行がそれぞれに名乗りを終えたところで、エイダンは先程から気になっていた疑問を口にした。
「あの、さっきミカエラさんが、まだ他にも救護班員がおるような事を言うとんさりましたよね……?」
「ああ、そうさ。そこのホウゲツ・セッシュウサイと同じく、海外から研修に来ている客人だよ。テンドゥ帝国の軍人だとか」
「テンドゥ帝国!」
ミカエラの回答に、エイダンはまたも目を丸くした。
テンドゥ帝国とは、シルヴァミストの遥か東――北ラズエイア大陸中央部の、熱帯・亜熱帯地域に築かれた国家である。
シルヴァミストも、魔力に満ちた土地柄で知られるが、テンドゥもまた、高濃度の魔力が溢れ、西洋人にとっては未知の妖精や魔物が、数多く棲息していると言われる。
数百年前、大イドラス帝国の国力が最盛期を迎えていた頃、時のイドラス皇帝は、ラズエイア大陸全土を手中に収めようと、大規模な東征を行った。
しかし、圧倒的な軍事力により負け知らずの戦績を誇っていたイドラス軍が、このテンドゥ帝国の魔術士達には、侵攻の足を止められた。
激しい攻防の末、遂にイドラス軍は押し返され、大イドラス帝国の版図は、テンドゥ国境の手前で拡大を終えたのだった。
そんな世界最強の魔術士達を擁する国のヒーラーが、今この場にいる。しかも先程のミカエラの発言からして、火属性の治癒術士だという。
俄かに、言い様もない程の緊張を覚えるエイダンである。
「どっ、どがぁしようシェーナさん! テンドゥの火の魔術士じゃって! 俺、弟子入りとかした方がええ?」
「エイダン、落ち着いて。そう畏まる事もないわよ、その人も研修中なんでしょ?」
「まぁ、そうなけど……」
「テンドゥといえば、火の精霊王ヴラダへの信仰が生まれた地でもありますね。『ヴラダ』の名は元々、古代テンドゥの言葉が語源であるとか」
ハオマがさらりと、蘊蓄を披露した。
彼もまた、北ラズエイア大陸中央地域の出身のはずだ。正確な出生地は、ハオマ自身にもよく分からないらしいが、名前や風貌の特徴からして、テンドゥの近隣国だろう。
「ただ、そのラメシュさん、さっき魔術の準備をすると言って姿を消したきり、戻って来ないのですよね……」
と、ハリエットが頬に手を当てて首を傾げた、その時だった。
「ウオワアアアア!! 何やってんだああああああ!!」
広大なアリーナ内に、こだまが起きる程の絶叫が響き渡ったのは。
「いっ、今のは……!?」
声の出所も分からず、周囲を見回すエイダンの傍らで、ハオマが鋭く、斜め後方を指差す。
「あちらからの音声でした。およそ五十ケイドルの距離があったかと」
流石に、彼の聴覚の鋭さは超人的だ。
「っていうと、厨房……?」
ミカエラが真っ先に駆け出し、エイダンや他のヒーラー達も、成り行きで彼女に続く事になった。
◇
「ドナーティ料理長!」
廊下の前方で、腰を抜かしたようにへたり込む男へと、先頭に立つミカエラが呼びかけた。
大振りの帽子に、頑丈そうな白いコックコートとエプロン。グルメ大国であるイドラスから輸入された、最新式の料理人装束を身に着けている。
呼びかけられた料理人は、震える指で、アーチ型の入口の中を指し示した。
「とっ、とっ、虎が私のキッチンに……!」
ミカエラに追いついたエイダンは、部屋の中を見回す。
厨房は、随分と立派な造りをしていた。貴族の邸宅か、宮殿の設備のようだ。
部屋の奥、黒々とした大きなオーブンの前に立つ男が、腹立たしげにこちらを振り返ったところだった。
「虎だぁ? 何を言いやがる。この都の人間は、どいつもこいつも礼儀を知らねえのか!?」
オリーブ色がかった浅黒い肌に、目鼻のはっきりした顔立ち。典型的な、北ラズエイア大陸中央部の人種的特徴だ。
鍛え上げられた肉体を民族衣装に包み、ロングスカートに近いゆったりとした布を腰に巻きつけている。頭にも、髪を覆い隠すようにして黄色い布を巻いていた。
そして、男の傍らには――確かに、虎がいた。
エイダンは本物の虎を初めて見るが、図鑑やら何やらで、その姿は知っている。
通常、その体毛は褐色と黒の縞模様だと、ものの本は書いてあったはずだが、目の前の虎は、目の醒めるような銀と紺の、美しい縞に彩られていた。成人男性を背に乗せてもまだ余裕があるくらいの体格に見え、だとすると恐らく、普通の虎より一回りは大きい。
「オレはラメシュ。で、彼女は偉大なるドゥン族のタマライだ!」
男はそう紹介して、虎の肩口をぽんぽんと叩いた。
虎の方は、ラメシュと名乗る男の腕に軽く鼻面を擦りつけただけで、特にこちらを威嚇したり、襲いかかったりする素振りは見せない。
「ドゥン族は言葉を話さないが、知性は人を凌ぐ。お前達の話す事は全部分かってんだからな。タマライはオレの脚の代わりを務めてくれてんだ、非礼は許さねーぞ」
「脚……」
エイダンはそう呟いて、長い布に隠れたラメシュの足首に注目した。
左脚がない。
代わりに、木製の杖のような物が布の合間から覗いている。義足だろうか。
「いやっ、しかし……そもそも、ここで何をやっているのかと聞いている! ここは厨房だぞ! 君は、治癒術士として雇われたんだろう!」
料理長のドナーティが、なおも言い募る。
「そのとおり。俺は火の術の使い手、それも『カリー使い』だ。だから下準備には厨房がいる」
「カリー?」
「料理の事だよ。テンドゥではそう呼ぶ」
ラメシュは答え、オーブンの上に乗せられた、二つの鍋へと近づき、蓋を取った。
途端、辛いような甘いような、何とも形容しがたい強い香りが、辺り一面に充満する。
シルヴァミスト人には馴染みのない、複数の香辛料が鍋の中で混ざり合っているのだろう。馴染みはないはずなのに、どことなく食欲を刺激される香りだ。
「何だこの臭いは。それが準備だと?」
「まだ途中だけどな。キッチリ魔術の効果を出すには、あと三種類くらいカリーがいる。今んとこ、一種類煮込んだだけだ」
「そっちの、もう一つの鍋は何じゃろ?」
好奇心から、エイダンはつい厨房に首を突っ込んだ。
「こっちは炊いた米だ」
「コメッ!?」
突如として素っ頓狂な声を上げたのは、ホウゲツである。
「コメ! まさかシルヴァミストで、炊いた米に出逢えようとは!」
「ど、どうしたんだホウゲツ。コメというと……稲の事だよな?」
「さようッ! 即ち、アシハラ人の『そうるふーど』にござる!」
仲間の剣幕に戸惑うマディに対し、ホウゲツは強く肯定してみせた。
「ん? そうか、お前は東洋人か」
「そ、その炊きたての米料理……! 試作でござるか? 一口、頂戴出来ぬものか!」
「別に……構わねえぞ。まだ魔術としては半端な出来だが」
米料理に喜ぶ東洋圏仲間を見つけて、ラメシュは多少、態度を軟化させる。
「よろしいか! かたじけない!」
「あっ、食べてええんなら、俺も一口!」
ホウゲツに続いて、エイダンも挙手をした。
「いいぞ。食え」
あっさりと頷いたラメシュは、タマライの背に跨って、厨房の奥の麻袋へと近づいた。
袋から取り出されたのは、両手に収まりきらない程の大きさの葉だ。
彼は戸棚から平たい盆を取り出して、その上に葉を敷いた。慣れた手つきで、スープ状の煮込み料理と、米のかたまりを順々に盛っていく。
「右手で掴め」
と、盆が差し出された。エイダンはややぎこちなく(彼は左利きなのである)、指先で米をすくい、ホウゲツと揃って、煮込みと米を口に放り込んだ。
「んっ……辛……酸っぱい? いや、うまっ……!」
香りから受ける印象と同じく、今までにない、とてつもなく複雑な味わいの料理だ。舌への刺激は感じるが、不快ではなく、しょっぱい訳でも、濃すぎる訳でもない。芳醇、とでも表現するべきか。初めて口にする米の食感も、思った以上にしっかりしていて、食べ応えがある。
料理を飲み込んだ途端、じんわりと、身体の芯から温もりを感じた。同時に、何か柔らかいものに全身が包まれ、浮き上がったような感覚。
エイダンが足元を見ると――なんと、ほんの僅かではあるが、現実に靴裏が床から浮いている。
「うぇえっ!? 飛んどる!」
「おわああ!?」
横に立って米をぱくついていたホウゲツもまた、フワフワと浮き上がっている。彼に触れようとしたエイダンの手は、反発する磁石のように、ぐにゃりと弾かれた。痛くはなかったが、指先に奇妙な熱の集中を感じる。
「あつっ……なんじゃこれ」
「結界治癒術の一種に見えるけど」
二人の様子を観察して、驚きながらもシェーナが発言した。
「そうだな、お前らの言葉で言うなら、オレは『火の結界術士』って訳さ。火を通す料理を使って、被術者の体内に結界を張る。呪術を弾いたり、刃を防いだり……治療にあたる治癒術士自身が保菌者にならないよう、抗菌作用のある結界なんかも張れるぜ。今回は、そのために呼ばれてる」
「被術者の身体が浮き上がる程の結界だなんて、随分強力ね。でも、ちょっと効果が強すぎるような」
「ああ。複数種類の結界を混ぜ合わせて、適度な柔軟さで張り巡らすのが、料理使いの基本だからな。今こいつらが食ったのは『ラッサムの結界』だが、こりゃちょっと頑丈過ぎた。融通を利かせて、思い通りの効力を出すには、あとパルップにキーライに……」
「……あの、俺ちょいと、トイレに行きたいんじゃけど。解除出来んですか、この結界」
得意げに解説をするラメシュを前に、エイダンはぼそぼそと打ち明けた。
ラメシュが、はたとエイダンに向けて目を瞬かせる。
「そいつはまずいな。ま、一口食っただけだから、すぐ結界は消える。十五分くらい我慢してくれ」
「ええーッ」
ラメシュによれば、『ラッサムの結界』を食べたエイダンとホウゲツは、現在、頭から爪先まで透明な甲冑で覆われているような状態だという。
たとえ馬に全力で蹴られても軽傷で済むが、代わりに、自分の体から何かを排出するのも難しい。出来なくはないが、恐らく社会人として避けたい結果になる。何しろ、自分の服にも上手く触れないのだ。
「この米、アシハラのものとは品種が異なるのでござろうか……それとも、炊き方が異なるのか……? パラッとした不可思議な舌触りでござるなあ」
ホウゲツの方は、自分が浮遊している事をあまり気にせず、しみじみと米料理を味わっている。
「実に美味でござる! しかし、このままだとエイダン殿が社会的にまずい事に」
「ちょっと待ってな。今、中和用に豆汁の結界を作ってやるから」
「まだ厨房を占拠する気か!?」
苛々と遣り取りを見ていたドナーティが、目を剥いた。
「こっちだって仕込みがあるんだ。皇帝陛下にお出しする料理も任されてるんだぞ! 早く出てってくれ!」
ラメシュとドナーティ以外、その場の全員が困り顔を見合わせ、頬に手を当てたハリエットが、嘆息と共に首を振った。
「これは……救護室に、簡易キッチンも用意するべきかしら? どんどん豪華設備になるわね」