第40話 幕引くその手は誰が為に ②
「ああっ――」
と、エイダンは目の前の光景に呻く。
結界だったもの――魔力に満ちた水流は、既に川の水と混ざり合ってしまったらしい。
川面は、異様な状態だった。見渡す限りの水がぬらぬらとした複雑な色合いに変容し、まるで大量の油を投じたかのようだ。その水は泡を噴いて沸き立ち、本来川原だったはずの場所が浸水し始めている。
川の近くには、大勢の人々が集まっていた。近隣の住民や闘技祭の見物客だろう。突然の異変に何事かと慄き、溢れくる水を見て後退りしつつも、まだ避難しようとはしていない。
「……何が起きるってんだ?」
タマライの背の上で、ラメシュが周囲を見渡した。
「はっきり分からんけど、ここにおる人らは逃がした方がええような気がする」
エイダンはしがみついていたタマライの腰から降りて、川岸の方へ目を凝らす。
そこに、アジ・ダハーカの声が響いた。
「全く……腹立たしい魔術士共め……」
底冷えのするような、怒気を帯びた声色。反響しているようでも、くぐもっているようでもある。どこから発しているのかは分からない。姿も見えない。
「アジ・ダハーカッ! どこにいやがる!」
苛立ち混じりにラメシュが怒鳴るが、問いかけへの回答はなかった。代わりに、嘲笑が返ってくる。
「は、は……まあ良い、所詮は余興。己の構築した結界術に牙を剥かれ、右往左往する人間共は見物であったぞ」
――余興。闘技場中を恐怖に陥れた、あれが余興だったと?
エイダンは背筋に冷たいものを感じて総毛立った。だが、今は怯えている場合ではなく、憤っている暇もない。蛇身の悪王の企みは、未だ終わっていないのだ。
「これまでに溜め込んだ魔力があれば、この川を少しばかり暴れさせるには十分……」
アジ・ダハーカは挑発的な態度を崩さず、更に言い募る。
「今より、ダズリンヒルの低地――貧民共の住まいは、悉く濁流に呑まれよう! 山積みとなった死骸が、いかなる人間同士の軋轢を生み、淀みを吐き出すか。いや愉快、愉快……!」
「なっ――」
嘲弄する悪王の一語一句を耳に留め、エイダンは顔色を変えた。
闘技祭初日の夜、エイダンが訪れた貧民街は、港湾側、つまり川の下流域に広がっている。
あの時救ったはずのアイザックが、ベニーが、貧しくとも仲間思いの少年達が、間もなく氾濫した川に飲み込まれる。
「そんなん……そんなん、絶対にいけん!」
エイダンは我知らず、走り出していた。後方からラメシュとタマライの引き止める声が聞こえた気がしたが、足は止まらない。
「今、ここで――」
目の前の川は、いよいよ猛っている。
川岸に溢れ出し、じりじりと嵩を増していた水が、突如爆発的に波打ち、煉瓦造りの堤防を超えて水飛沫を周囲に撒き散らした。
そこからは、ほんの瞬き程の間の事だった。ぬらりとした濁流が塊となって道路に躍り出し、荒れ狂う。川辺に集まっていた人々は、遅まきながら悲鳴を上げて逃げ惑った。その足を捕らえようと、恐ろしい速度で洪水が迫る。
「俺が、風呂を焚く!」
エイダンは人波に逆らって川岸を駆け下りながら、呪文を詠唱した。唱えるのは、今朝作り上げたばかりの結界治癒術だ。幸いと言うべきか、熱する水は目の前に大量にある。
今なら、巨大な結界を作る事も可能だ。魔力さえ十分に注げば。
「……時に弱きを、時に貴きを、
智と血を賜る全てを護るべく、
ここに疾く、憤怒の熱を齎したまえ。
我が身四十四に割いて、二つの腕と十の指を捧げん。
――『沸湯殻晶』!」
濁流のど真ん中に身を投じると同時に、エイダンは魔術を完成させた。
琥珀色の光が、一瞬にして荒れ狂う水を染め上げる。水が湯となり、水蒸気がもうもうと朝の都の空に立ち昇った。
巨大な卵型の水膜が、エイダンを中心として構築され、暴れ回る水を一息に包み込む。
結界術は成功した。濁流が人々を襲うよりも一瞬早く、エイダンは呪術の篭められた川の水を全て掬い上げ、『沸湯殻晶』の中へと納めきった。
が――
「わあああああーっ!?」
術者であるエイダンは、結界の内側にいる。彼は渦巻く呪術の水流に巻き込まれ、さながら洗濯物のようにもみくちゃにされた。
応用を利かせれば、呪術の水流だけを結界内に閉じ込め、エイダンは外側から術を操る、という真似も出来たのかもしれないが、まだこの術を使うのは三回目である。呪文のアレンジを考えている猶予もなかった。
(けっ……結界がもたん、集中が切れる……!)
せっかく閉じ込めた水流を、ここで放り出す訳には行かない。何とかして結界を維持したまま、呪術の効力を鎮めなければ。
この大量の水の氾濫を、今の状態で鎮める? 無茶だ。どうすればいい?
エイダンの使える魔術は、ほんの四、五種類程度だ。出来る事など、たかが知れている。
(いや……そがぁな、弱気になんな!)
思い出せ、とエイダンは自身の胸の内に呼びかけた。
何故自分は治癒術を学んでいる?
ただただ、人を助けるためだ。
目の前で倒れた、大切な人を助けられなかった悔しさから、この道を歩み始めたのだ。
精霊の力を借りようと、魔道学をいくら発展させようと、人間の起こせる奇跡など微々たるものだ。ほんの少し、誰かに差し伸べる手を、前へと押し出せる程度。そんな事はとっくに分かっている。
……だがそれでも、他者を救おうとするその一瞬の意志には、命を懸けるだけの価値がある。
「愚かな治癒術士の小僧め、最早何をしようと無駄なのだ。諦めよ!」
アジ・ダハーカの勝ち誇った声が、結界の外から響く。
結界が薄れかけているのに気づき、エイダンは気合を入れ直した。
「いやじゃっ!」
濁流の中で長杖を握りしめ、彼は叫ぶ。
両手の中の杖が、荒ぶる濁流の水圧に負け、穴の空いた箇所からひび割れて、真っ二つにへし折れた。エイダンの頬をハンノキの木片が掠める。頬が擦り剝けたが、傷口から溢れる血もすぐに水に流されていった。
「治癒術士が――助ける言うたからには、絶対に助けるんじゃあ――ッ!」
折れた杖を濁流の中心に突き立て、エイダンは再度、詠唱を開始する。
「賢猿の末裔よ。
山より出づる、天より降る、
叡智と義憤の理を布く御霊よ。
義を以て無辜の定命救うべく、
ここに疾く、一吹きの御力を顕したまえ――」
最も使い慣れた、治癒と解呪の術だ。あとは魔力を捧げ実行するのみ。
チャンスは一度きりだと思われた。一度の発動で、この荒れ狂う大量の水を解呪し、鎮めなければならない。それに足る魔力を捧げなければならない。
「――我が身四十四に割いて、その全てを捧げん。
『火精の吐息』!!」
詠唱が完了した。
エイダンの身の内に宿る火の魔力が、宿主の全身を焼き尽くすような勢いで迸る。金色の火花が結界中に散らばり、濁流と混ざり合って、呪術と治癒術の激しい鍔迫り合いが生じた。
同時に、指先から急速に力が抜けていくのを、エイダンは感じる。彼は辛うじて両目を開き、折れた杖を握り続けた。
相手は複数属性を重ね掛けした呪術だが、闇属性ほど厄介ではない。呪いの構造を解析し、川の水をその呪縛から解き放てばいい。何度もやってきた事だ。今回も必ず出来る。
(水よ治れ、治れ、治れ――!)
結界内が激しい火花で満たされる。
視界の全てが、赤々と輝いていた。
エイダンは一旦拡散した治癒術を、杖先に収斂させる。それに合わせて呪術の効力が収縮し、水温が一気に上昇した。渦巻いていた水は、徐々に穏やかさを取り戻していく。
澄みきった湯が、最後の波紋を広げる。
闘技場を丸ごと覆う程の規模を誇った反転結界の呪術は、シャボン玉のような形状へと変化して湯の底へと沈み、そして完全に消え失せた。
嵐が治まってみれば、結界内の水嵩は、エイダンの腰上までしかない。
それはまるで、琥珀色の湯船だった。首都の川のど真ん中で、卵型の巨大な湯船に浸かっている。そんな奇妙な光景だ。
「か……解呪、出来た……?」
ずぶ濡れのエイダンは、自分の成した事が信じきれず、呆然と呟く。
そこで魔力と集中力が尽きたのだろう。結界が消え、エイダンは湯となった川の中に倒れた。
「エイダンっ!」
すかさず、タマライに乗ったラメシュが、ざぶざぶと川面を波立てて近づいてきた。
川の底で溺れかけていたエイダンは腕を掴まれ、引き上げられる。自力で踏ん張ろうとしたのだが、上手く足に力が入らない。
「ラメシュさん、タマライさん、なんとか、なっ――げほっ」
喋った途端、急に喉奥が痛み、エイダンは咳き込んだ。
口元に当てた手の平を見ると、べっとり血がついているものだから、ぎょっとする。
もう一度顔を撫でたところ、そこは川の水とは異なる水分でぬるついていた。鼻と口から、尋常でない量の血が滴っているのだ。
「えっ……なんこれ、俺死ぬ……?」
「全身の魔力を全部捧げたな。無茶苦茶しやがって」
ラメシュが呆れ顔で溜息をつく。
「身体中から魔力を放ち過ぎて、細かい血管があちこち破れたんだ。このままじゃ下手すると死ぬ」
「うへ……」
「うへ、じゃねえよ馬鹿。心配すんな、死なせやしねえ。すぐ治療に入るから安静にしてろよ」
語りかけつつ、タマライの背にエイダンを乗せようとするラメシュである。
が、次の瞬間、事態は急変した。
微かな風切音が耳に届いた――かと思うと、突如視界に、鱗に覆われた大きな尾が飛び込んでくる。
「ギャアッ!」
「うあッ!?」
タマライとラメシュが、鞭のようにしなった尾に勢い良く弾き飛ばされた。
「ラメ……うわぁっ!?」
狼狽するエイダンの脚に、尾が巻き付いてきた。元々立てない程に脱力していたエイダンは、尾に引きずられ、水底へと再び倒れ込む。
「おのれえぇぇ、人間風情が! 取るに足らぬ卑しき猿共めがッ! 儂の遊興を台無しにしおって!」
エイダンが転倒すると同時に、それは長い胴体を水から引き上げ、首をもたげてみせた。
アジ・ダハーカである。
いつから川底に身を潜めていたのか。彼は水中へとエイダンの身を押し込み、ぎらつく両眼で見下してくる。
「致し方ない、此度は街を去るとしよう。……ただし、小面憎い猿を一匹始末してからだ! 無様に溺れ死ねっ、治癒術士!」
「がっ、あ……!」
脚から胴体にまで絡みついてきたアジ・ダハーカの尾を、エイダンは何とか振り解こうとした。だが、もう抵抗する力が残っていない。もがいた拍子に、口から水が入ってくる。
「あ……ッ……」
息が吸えない。身体が動かない。
意識が薄れていくのを感じながら、エイダンは最後の力で、天へと手を伸ばした。
イニシュカ村の景色が脳裡を過る。祖母の顔が浮かび、次いでキアランと、師匠ディランの顔を思い出す。そして、旅立ち前に見つめたロイシンの顔が。
――ロイシンに、言わんないけん事がある。
帰ってくると、そう告げて別れたのに。彼女に何も言えないまま、こんな所で終わってしまうのだろうか。
今まで散々、死ぬほどに無茶な真似はしてきたが、とはいえ――死にたくない。
視界はもう真っ暗だ。
しかしその中で、手指の先が何か柔らかな物に触れた。どうやらそれは、毛皮らしかった。
――タマライ? いや、違う。もっと毛足が長い。
「エイダンくん!」
聞き覚えのある、東洋訛りの声。
両瞼を強引にこじ開ける。目と鼻の先に、ずらりと牙の生え揃った、大きな獣の口が迫っていた。
獣はエイダンに巻き付く蛇の尾へと噛みつき、強靭な顎の力で尾を引き剥がしてみせた。
「シャアアアアアッ!」
苦悶と怒りに、アジ・ダハーカが吠える。
「グルガアアアアアアッ! アナタ、ワタシの友達に何するのヨッ!」
蛇身の悪王に、全く引けを取らない剣幕で咆哮を返したのは、群青色の毛並みが美しい、巨大な狼だった。
エイダンのローブを咥えてアジ・ダハーカから距離を取った狼は、咥えていたエイダンを、自身の背中に向けて放る。
「げほ、ごほっ……コ――コヨイ、さん……!?」
「エイダンくん! 生きてるネ? 良かったヨ!」
狼の背中に横たわり、口から川の水を吐き出したエイダンは、ぽかんと彼女の顔を見つめる。
確かに、コヨイだ。闘技祭前に会って以来、姿を現す素振りも見せなかった彼女が、全く唐突にここに出現した。
「ど、どうして……?」
「ンー、今回は隠れてお祭り見物するだけのつもりだったんだけどネ。エイダンくんが危なくなったものだから、ついつい助けに来ちゃったヨ。でも大丈夫、何たってお父様も一緒だものネ!」
「は?」
その時初めてエイダンは、自分のすぐ傍らに人影が立っている事に気づいた。
川の中に立っている訳ではない。その人物は、水面の上に浮いていた。まるで確固たる地盤を踏みしめるかのように、事も無げに。
水の上で、灰色のローブの裾が揺れている。ローブと同じ色の大きな三角帽子を斜めに被った彼女は、鼻の頭に乗せた眼鏡の位置を正して、エイダンの方を振り返った。
「……アビゲイルさん?」
と、エイダンは彼女の名を呼ぶ。
蒼薊闘技祭の一回戦で敗退した、チーム・サウスティモンの治癒術士。アビゲイル・スウィンバーンは、驚愕に目を瞠るしかないエイダンの表情を見て、悪戯に成功した子供のような顔で、にんまりと笑った。
彼女の瞳の色は、明るい茶色だったはずだ。しかし今、眼鏡の奥で妖しい輝きを湛えているのは、真紅の瞳である。
「反転結界の呪術。あの大水を、一人で防ぎきるとはな」
アビゲイルがそう声を発した。だが、エイダンの知る彼女の声ではない。ごく低く、堂々たる自信と威厳を備えた、壮年の男の声色だ。
「蛇身の悪王と、シルヴァミストの貴族共の諍いなど、一匙分程の興も乗らぬゆえ、放っておこうと思っていたが。……いや、なかなかどうして、見物と呼ぶに相応しかったぞ。エイダン・フォーリー」
アビゲイルがローブを翻し、杖を一振りする。流木をそのまま使っている風だった彼女の杖は、見る間に硬質な金属へと変化した。大鎌を思わせる禍々しい形状の長大な杖で、刃の付け根部分に、大きな赤い加護石が嵌め込まれている。
灰色のローブはいつの間にか漆黒に染まり、脱ぎ捨てられた帽子の下から、波打つ黒髪が現れる。身の丈はエイダンより、頭二つ分ばかり高い。
忘れようもない男の姿がそこにあった。
「血を吐いてでも貧民街を救ってみせた、治癒術士の意志に敬意を表して――この祭り、ヴァンス・ダラが幕を引いてやるとしよう!」
朗々と、ヴァンス・ダラは宣言し、鎌状の杖の先端をアジ・ダハーカへと向けた。




