第38話 聖域の護衛戦 ⑥
重い鉱物が砕け散るような轟音が響く。
多分、屋内のどこかにあの氷柱が侵入したのだ。
イーファは思わず後ろを振り返った。聖ジウサ・アリーナの廊下は、反響が良いために音の出所が分かりづらい。救護室で別れてしまったエイダンは、無事でいるのだろうか。
「君、立ち止まるとかえって危ないぞ」
ホワイトフェザー騎士団のモーガンが、緊迫した口調でイーファに声をかけた。
「君の保護者の……救護班のエイダン・フォーリーといったか。彼なら大丈夫だ。今は自分の身の安全だけを考えなさい」
「は、はい」
イーファはすぐさま視線を前方に戻し、首を縦に振る。
先程まで、イーファはエイダン達と共に救護室にいた。そこにモーガンが、警告を伝えに来たのだ。
「氷柱が室内に侵入している。ここも危ないぞ、避難するんだ!」
モーガンに告げられたエイダンはしかし、意識を失った患者を前に、逡巡を見せた。
「んでも、あまり動かせんくらい容態の悪い人がおりますけん……」
ラメシュとタマライと、軽く頷き合ってから彼は続ける。
「応急処置だけでも済ませてから行きます。すんませんけど、この子を連れてって貰うても?」
この子、との言葉と共に、イーファの肩にエイダンの手が置かれた。
「エイダン兄さん――」
「世話ないよイーファ。モーガンさんは兄ちゃんよりずっと強い騎士さんだけん」
心細く見上げるイーファを、エイダンが笑顔で宥める。それはその通りだろうが、しかしイーファが訴えたかったのは別の事柄だ。
エイダンと話したい事が、たくさんある。しかし慌ただしい状況の中で、再会してからまだほとんど言葉も交わせていない。
ここで先に避難したとしても、これっきり今生の別れになる訳ではない。それは承知しているのだが、イーファは奇妙な胸騒ぎを覚えた。
「イーファ、だな。君の家族か?」
「みたぁなもんです。よろしくお願いします」
「分かった、必ず無事に外へ連れて行こう。君達もすぐ追いついて来るんだぞ」
頭を下げるエイダンに対し、力強く請け合ってみせてから、モーガンはイーファを連れて救護室を後にした。
そして今二人は、光の魔術士サングスターが率いる避難者達の集団と合流した所である。
――家族みたぁなもん。
複雑な気分で、イーファはエイダンの言葉を反芻する。
多分あれは、本心からの言葉だったのだと思う。エイダンはイーファを、何とか無事な姿でイニシュカ島まで帰らせたいのだ。
「そうじゃ、一緒に帰らな……」
警備兵や大人達に囲まれ、ひたすらに廊下を進みながら、イーファは切実な思いで呟いた。
両親や兄にどれだけ怒られても構わない。エイダンと一緒に、早く島に帰りたい。
エイダンは本当に、すぐ追いついてくれるだろうか?
「皆、止まれッ!」
避難者の隊列の先頭に立っていたサングスターが、鋭く声を発し、自身の杖を掲げた。
彼が杖を向けた先、天井の換気口から、束になった氷柱が襲いかかってくる。サングスターは短い杖の一振りで、眩い多面体を虚空に出現させた。正八面体の、光の塊である。
光は花弁のごとく、ばらりと面を展開させ、迫りくる氷柱を包み込んで難なく砕いてみせた。
「あれが光属性の呪術……」
「流石はサングスター公だわ。私達、助かるのね?」
氷柱の出現に一旦は青ざめた避難者達が、安堵と感嘆の息を漏らす。
イーファもまた、初めて目の当たりにする光の魔術に圧倒されていた。サングスター達と合流した当初は、「えらいお爺ちゃんじゃなあ」などという印象を抱き心配になったが、とんでもなく失礼な感想だったようだ。
一方、サングスターの表情には余裕がなく、先程から厳しく唇を引き結んでいる。
「いよいよ、こんな所まで氷柱が入り込んできたか。という事は恐らく――」
彼が低く呟き、廊下の曲がり角の先を窺った、その時。
ギャリギャリッ! と、ガラス製の雑巾を絞ったかのような耳障りな音を立てて、廊下を覆い尽くす程の氷柱が前方から出現した。
「やはり!」
「『驟雨鏡幕盾』ッ!」
サングスターがすかさず無詠唱の魔術を発動させ、次いでモーガンも盾の治癒術を使う。
二人がかりの防衛で、氷柱は大きく押し戻された。しかしそれは廊下の進行方向に障壁となって留まり、まるで避難者達の隙を伺うかのように、凍てついた切っ先を揺らめかせる。
「あの氷の先が出口ですね、サングスター様」
モーガンが鋭く目を細めた。
「ここを突破するとなると……」
「氷に可能な限り近づき、至近距離から私の魔術を浴びせるか」
淡々と、サングスターは提案する。
「もしくは……外からの救助を待つか」
「外から?」
「推測するに、あの氷の呪術による攻撃は、結界の内部にのみ向けられる性質のものだ。ならば、外側からの方が破りやすいかもしれん。これだけの事態だ。既にアリーナ周辺には、正規軍や巡察隊が集まっているはず」
「なるほど」
顎を指で撫でて、モーガンは思案した。
「しかし、破りやすいと言っても、元になった結界は極めて強靭で巨大です。複数属性の重ねがけで守られ、あらゆる魔術攻撃の威力を減退させる」
「……光属性の魔術ならば、あるいは」
「シルヴァミスト唯一の光属性の使い手が、今ここにいらっしゃるサングスター様でしょう?」
何を仰いますか、とモーガンは眉を非対称にひそめる。
サングスターはそんなモーガンを置き去りに、氷塊の方へと慎重に歩みを進め始めた。
「サングスター様、危険です!」
「モーガン、君は避難者達を守っていてくれ。ここで魔術を使い続け、派手な物音を立てれば……いずれ外側の者らが、こちらの意図に気づくはず」
「しかし!」
そこで、モーガンの声を遮るように氷塊が軋み音を上げる。
サングスターの接近に反応したのだろう。氷は複数の刃となって、彼に襲いかかった。
「サングスター様!」
「魔力は温存しておけ、モーガン!」
駆け寄ろうとするモーガンを制止し、サングスターは杖を振る。身の丈程もある三角形の光が連なって虚空に現れ、氷柱を次々と弾き返した。
「光の魔術の使い手……そう、現在の公の発表では、確かに私だけだが」
ゆっくりと出口へと近づきながら、サングスターが独白めかして言う。
「我が国の歴史において、最も多くの『光』の使い手を輩出しているのは――サングスターの一門ではないのだぞ」
光の魔術の使い手。その一族の伝説は、イーファも聞いた覚えがあった。シルヴァミスト生まれの子供達なら、誰でも一度は耳にする話だろう。
昔々のこと、ある偉大な魔術士が、五柱の精霊王から聖なる島シルヴァミストの統治を託された。魔術士は光の力を駆使して建国を果たし、その血は現代まで脈々と受け継がれる事になる……
聖シルヴァミスト皇帝一族の伝説である。
サングスターの魔術に、再度氷塊は後退した。厚い氷の向こう側に、出口が見える。扉は開け放たれている。
突破出来るか、と期待に逸った何人かの避難者が、モーガンの立つ位置まで並び立とうとした。
「駄目だ、前に出るな!」
モーガンが叫ぶ。
イーファははっとして天井を見上げた。細く、針のような氷柱がいつの間にか、天井の配管に沿って皆の真上まで這い寄っている。
「みんなぁ、上っ!」
思わずイーファは声を上げ、頭を庇った。数人の避難者が彼女につられて天井に目を向け、戦慄の表情を浮かべる。サングスターも、後方の異変に気づいた。
「くっ!?」
サングスターが杖を振るうのと、氷柱が避難者達目掛けて切っ先を落下させるのと、ほぼ同時だった。光の魔術の発動より、氷の方が僅かに速く、近い。間に合わない、今にも寄り集まった誰かに突き刺さる――
イーファはぎゅっと目を閉ざした。
一秒、二秒と、時間が経過する。しかし周囲からは、悲鳴も物音も聞こえてくる事はなかった。
奇妙に思ったイーファは、はたと目を開ける。
途端、彼女は再び瞬きをする羽目になった。太陽光にも似た強烈な、そして暖かな光が両目に飛び込んできたためだ。
光は出口の方から差し込み、イーファと避難者達を煌々と照らしている。
氷柱どころか、出口を塞いでいたはずの氷の塊も、すっかり消え失せていた。
辺りそこらじゅうを侵食していた呪術の氷が、音もなく、一瞬にして、搔き消されたのだ。
サングスターの魔術かと思ったが、そうではなさそうだ。彼もまた驚きに目を瞠っている。
アリーナの外から、光に包まれた人影が歩いてくるのが見えた。何名かの正規軍の兵士に囲まれているその影は、ごく小柄で、イーファとそう変わらない身長である。
「陛下……!」
と、サングスターが人影に呼びかけ、その場に片膝をつく。
すぐさま、モーガンがそれに倣った。
「陛下……!?」
「エ――女帝レヴィ二世……!」
呆然としていた周囲の避難者達が、口々に呟き、サングスターと同様に膝をついて頭を垂れる。
イーファは事態が把握出来ないでいたが、とにかく周囲の大人達の姿勢を真似ようとた。
しかし彼女は、膝をつきかけた動作の途中で、不意に身体を硬直させる。
兵士達を従え、光を発しながらアリーナの中へと足を踏み入れた、小柄な人物。
彼女はどう見ても、ビビアンである。
相変わらず美しいブルネットは、固く結い上げられ、光沢のある銀色のドレスをまとっているが、見間違えるはずもない。
「イーファ!」
ビビアンが心配そうな顔で、こちらへと駆けてきた。全身から発していた光は収束し、細まったかと思うとふっと消え、廊下には柔らかな、本来の陽の光が射すのみとなる。
「何たること! そなたが、かように危険な場所にいようとは。大事ないか? 怪我は?」
全力で抱きしめられ、身体の具合を確認されて、イーファはとりあえず、慌てて首を振ってみせた。
「ど、どこも。世話ないよ。……あの、ビビアン……今のって魔術? ビビアンが、氷の塊を消したん?」
「そうであるぞ」
けろりとビビアンは頷き、サングスターの方へと軽く首を傾げる。
「サングスター先生。いかがであったろうか、余の魔術は」
「お見事な初陣でございました。皇家に伝わる光の解呪治癒術……『恐れ去るべし』ですな」
サングスターが膝をついたまま顔を上げ、ビビアンに手を取られているイーファの方へ視線を投げた。
「ところで陛下、そちらの娘はお知り合いで?」
「余の友人じゃ。何故我が友イーファが、この場で危機に陥っておるのか。やはりエイダンなる男を問い詰めねばならぬ」
腹に据えかねた様子でドレスの腰に手を当てるビビアンを前に、イーファは目を白黒させる事しか出来ない。
「ま、待って、エイダン兄さん問い詰めたらいけんて。ビビアン……いやえっと、へ、陛下……?」
陛下とはどういう意味だったか。混乱しきった頭でイーファは考える。いや、単語の意味は分かっている。この国で最も高貴な人物に対する尊称だ。つまり、皇帝レヴィ二世に対しての。
「そなたはそんな風に呼んでくれるな、イーファ」
困ったような笑顔で、ビビアンはイーファに向き直る。
「余には……私には、ビビアンという生来の名があるのじゃ」
即位した時に先代『レヴィ』の名を継いだが、とビビアンは続けた。
――皇帝レヴィ二世その人にして、次代の光の魔術の使い手。
ビビアンの正体がようやく、イーファの頭の中で、文字情報としてまとまる。
同時に、彼女はふらふらとその場に座り込んだ。膝をついて畏まる方が適切な態度ではないかと、一応頭の隅で考えたのだが、腰が抜けてしまったらしく、動けない。
「だ、大丈夫かイーファ!? やはりどこか怪我を?」
「陛下、イーファ・オコナー嬢は混乱なさっています」
ビビアンの後ろに控える兵士達の合間から、クロエがするりと姿をみせた。彼女は変わる事なく、漆黒の正装姿だ。
「ですから、後々ショックを与えてしまうと申し上げましたのに……。さあ、呪術の氷は一部退けましたが、まだここは危地でございます。サングスター公、一刻も早く脱出を」
「そうしよう。皆、安全な場所に着くまで離れないように」
サングスターが避難者達へと指示を飛ばしてその場をまとめ、あと数ケイドル分の廊下を前進し始める。
腰から下がふにゃふにゃになったままのイーファは、モーガンに背負われる事になった。
――結局、エイダンと合流出来ていない。
すっかり思考力のふっ飛んでしまったイーファではあるが、その件だけは依然不安だ。
建物から出ようという時、彼女は今一度、背後を振り返った。
廊下には、誰の影が差す様子もない。エイダンは、イーファを守ってくれた治癒術士の皆は、果たして全員無事なのだろうか。




