第35話 聖域の護衛戦 ③
アジ・ダハーカ。
エイダンが口走ったその名前に、シェーナは急ぎ、窓の外へと視線を投じた。
「あれが……!?」
アリーナの隣にそびえ立つ、ダズリンヒルの象徴たる尖塔、聖ジウサ廟。
その頂上に、まるで街を乗っ取り睥睨するかのごとく、長大な胴体の蛇が巻き付いている。
エイダン達から話は聞いていたが、そこから抱いた想像図よりも遥かに巨大だ。
そういえば、アジ・ダハーカは分身もすれば巨大化もするのだと、以前ハリエットが語っていた。
人間には使いこなせない様々な魔術を操る、魔性の呪術士。ラズエイア大陸に混沌をもたらし、欲するままに『淀み』を貪り食ってきた蛇身の悪王が、ついにその姿を、ダズリンヒルの人々の前に現したという訳だ。
「『愚かな人間共よ』とか言い出しそうな感じね」
シェーナがぼそりと感想を述べた途端、大蛇が牙の生えた上下の顎を開いた。
嗄れた大音声が、その口から吐き出される。
「さて、人間共よ!」
「本当に言ったわ」
「シェーナさん結構冷静じゃな?」
エイダンがこちらを見つめて、目を瞬かせた。
シェーナ自身も意外な気分だった。冷静でいられるのは恐らく、彼女が現在、驚いたり慄いたりする以上に、怒っているからだろう。
仲間を傷つけ、貧民街の子供を襲ったあの魔物に対しては、恐れよりも許し難い怒りの方を強く感じる。
しかしながら、怒りに駆られたからと言って、すぐさまアジ・ダハーカを、塔の上から叩き落とす手段は持ち合わせていなかった。そこが治癒術士の辛いところだ。
そもそも一体、彼はこれから何をしようと言うのか?
シェーナが疑問を抱いた直後、アジ・ダハーカは再び、声を発した。
「お前達が愚かにも聖域と尊ぶこの地は、これより我が宴の卓となる! まずは、ほんの余興から愉しむとしよう……!」
そんな口上に続いて聞こえてきたのは、地鳴りのような、低く不吉な響きである。
音の発生源は、アジ・ダハーカが陣取る聖ジウサ廟だ。
廟の壁には加護石が敷き詰められ、アリーナを覆う結界に魔力を供給し続けている。
とめどなく放出される、その魔力の性質は、今まさに、急激な勢いで変容し始めていた。水属性をベースとしたドーム型の結界が、打ち震え、脈動を繰り返す様が、内部からも見て取れる。
「治癒術が変質してるぞ! こいつは――呪術か!?」
ラメシュも結界の異変に気づいたらしく、鋭くエイダンの方を振り向いた。
「おい、お前の言ってた『攻化機関』ってのは確か、治癒術を呪術に転換するとかいう機能の魔道具だったよな? あれは厨房にあった奴だけじゃねえのか?」
「攻化機関が何台あるんかは、俺も知らんけども……ああ! でもそうじゃ、廟のオーブンも新しゅうしたって、ドナーティさんが言うとんさった! もう一台あるとしたら、廟の中……!?」
自分の思いつきに慌てるエイダンの横で、シェーナは顎に手を当てて考え込む。
「治癒術を呪術に転換……。あの結界は、大会の試合中に使われる魔術の効力を軽減させて、選手を保護したり、場外に魔力が漏れないよう吸収する役割を果たしてるはず。それがそっくり呪いに転換されると、どうなるっていうの?」
誰にともなく落とされた彼女の問いかけには、数秒と待たずに回答がもたらされた。
変異を続ける巨大な結界の、半球形の天井から、ヒュッ、と風切音を立て、目にも止まらない程の高速で落下してくるものがある。
それは氷柱を思わせる、ごく細長い形状の氷の塊だった。氷柱はその根を結界の天井に張ったまま、雨垂れの一滴のようにアリーナへと落ちてゆき――
そして何の斟酌もなく、落下地点に立っていた観客の一人を、肩口から勢い良く貫いた。
「ぎゃああ――ッ!?」
貫かれた観客当人と、周囲の人々の口から、絶叫が上がる。
結界の天井は、観客席より遥か高所に位置する。そこから自由落下と同等の速度で、先端が針状に尖った氷柱が伸びてきたのだ。たとえ普通の氷だったとしても、人の皮膚くらいは容易く突き破る。
「きゃあああああ! う、上ッ!」
貴婦人然とした観客が、取り乱して上を指差す。示された先には、水の結界の表面から、植物が芽吹くかのように次々と先端を伸ばし、真下で立ち尽くす観客達に狙いを定める数多の氷柱。
「おっ、落ちてくるぞ!」
「逃げろ!」
「助けてぇーッ!!」
会場内は瞬く間に、蜂の巣をつついたよりも酷いパニックとなった。
右往左往する人々の頭上で、数本の氷柱が落下を始める。
「危ねえ!」
ラメシュが叫び、窓際に立つ警備兵を突き飛ばそうとしたが、一手遅かった。窓の戸板を破壊して、室内にまで侵入してきた氷柱が、警備兵の胸を貫く。
「ぐわぁっ!?」
胸を突かれた勢いで、警備兵は床に叩きつけられた。遠目には針のように見えた氷柱だが、間近で観察するとそれは、突撃槍の穂先くらいの太さがある。そして、ただの水や氷ではない。冷却された水属性の魔力を、シェーナは確かに感じ取った。
「『走渦障壁』!」
咄嗟の判断で、シェーナは障壁の呪文を詠唱する。下方から迫り上がり、迸った水の渦が、外から侵入してきた氷柱を半ばの所でへし折った。
仰向けに倒れたままの警備兵に、エイダンが駆け寄って触れる。
「冷やいっ! ええと、出血少量、心音異常なし! でも水属性の冷却特化呪術をかけられとる……あの一瞬で、こがぁに全身に?」
気道確保、呼吸確認、脈拍確認。治癒術士としてのマニュアルに従い、意識不明の患者を処置が取れる姿勢に整えつつ、エイダンは驚きの声を漏らした。
「多分、複数属性の呪術が重ねがけされてんだな。石化呪術も混ざってるぞ」
傍らに屈み込んだラメシュが付け加える。
「元になった結界も、複数属性の治癒術で構成されてたはずだ」
「結界が治癒術として強力だった分、反転すると厄介ね……!」
幸いと言うべきか、エイダンもラメシュも救護班員らしく、この非常事態にあって落ち着いている。ただ、彼らは魔術を使うのに、事前に準備が必要なタイプだ。出来る事は、現状では限られていた。
アリーナの観客席は、大混乱の様相を呈している。客席横の階段を無理矢理下ったり上ったりしようとして、将棋倒しまで発生した。このままでは、氷柱に射抜かれるまでもなく怪我人が続出しそうだ。
そこに――会場中に響き渡る音量で、堂々とした声が上がった。
「落ち着けぇっ! 正規軍警備部隊、一般観客を誘導せよ! 魔術の心得のある者は協力を!」
齢を重ね、地位と実力を兼ね備えた人間独特の、威厳ある声色。シェーナはその声の主に、心当たりがあった。
「あれは……ギデオン・リー・サングスター!?」
「誰だ?」
ラメシュが訊ねる。彼とシェーナの視線の先で、真紅のローブに身を包んだ老齢の魔術士が、貴賓席の屋根の下から姿を表した。
彼は指揮棒に似た短い杖を、素早くも繊細な動きで振るう。
途端、光り輝く正四面体が空中に複数出現し、落下する氷柱をいくつか、まとめて弾き飛ばした。
「シルヴァミストの、正規軍魔道部門の最高顧問じゃ。そんで、俺がちょっとの間通っとった学校の学長で、あと光属性の魔術士」
「光属性!? テンドゥでも滅多に見ない加護属性だぜ。あの爺さんがか!」
エイダンの説明に、ラメシュは目を瞠った。
確かに、サングスターが貴賓席で大会を観覧予定だという話はシェーナも聞いていた。思わぬ形での再会である。尤も、相手は窓の中のこちらに気づいてはいないだろうが。
以前シェーナ達が彼と対面したのは、エイダンを勝手に連れ去られた時だったから、あまり好印象とは言えない人物なのだが、しかし、殊こうした緊急時の最中、正規軍の重鎮が指揮を執ってくれるのはありがたい。
実際、サングスターの一喝と、鮮やかに氷柱を弾き返してみせた彼の光の魔術に励まされたのか、観客のパニックに巻き込まれ、成す術もなかった警備兵達が、規律を取り戻し始めている。
更に間を置かず、サングスターに呼応する者がいた。
「サングスター様、僭越ながら助勢しますよ――『糾え縛縄』!」
入口から会場へと飛び込むなり、その男は土属性の呪術を放ち、氷柱の落下を食い止めてみせる。
都会の紳士然とした上質なジャケットに、帽子とステッキを携えた彼の顔を見て、エイダンが「あっ」と声を上げた。
ホワイトフェザー騎士団のスポンサーにして、フェザレイン鉄道株式会社社長、ノーマン・エドワーズである。
彼に続いて現れたのは、決勝戦を前に控室で待機していたらしいホワイトフェザー騎士団の面々だ。相変わらず統率の取れた動きで、騎士団はスポンサーを護衛するべく陣形を組む。
「ミスター・エドワーズ! スポンサーに危地の最前線に立たれては、我々が困るじゃないか!」
「カタい事言うなモーガン、我が社の研究室よりは呑気な場所だ」
騎士団のリーダー、聖騎士のモーガンが文句を零すも、エドワーズはけろりとしたものだ。
「全く……『驟雨鏡幕盾』!」
エドワーズの押さえ込んだ氷柱が、モーガンの強力な盾の術によって砕け散る。
「こっちだ、出入口に結界を張る!怪我人と子供から連れてきてくれ!」
ホワイトフェザー騎士団に加え、彼らとこれから決勝を戦う予定だった、チーム北新町魔道管理局警備隊までもがフィールドで杖を振るい、逃げ惑う観客の誘導を開始した。
「シェーナさん!」
時ならぬ高位魔術合戦に、うっかり見入ってしまったシェーナだが、エイダンに呼びかけられて我に返った。
見ればエイダンは、意識のない警備兵をどうにかして肩に担ごうとしている。
「この人と、あと会場内の怪我人も、助けなぁ! 救護室に運べば、水道も風呂桶もあるけん!」
首都に上下水道設備が敷かれているのは、エイダンの治癒術にとって幸運だった。
「そうね、救護班として出動しなきゃ」
シェーナも頷き、入口を振り向く。他の警備兵達は、最早引き止めるつもりなどなさそうだ――というか、シェーナ達に構っていられる状況ではない。彼らは彼らで、壁に立て掛けられた槍や剣を取って出動の準備を進めている。
「ちょっと待て!」
額を押さえて叫んだのは、ラメシュである。
「ラメシュさん、どしたん?」
「今、タマライがすぐ近くに来てる……」
呟いて、彼は詰所の扉を開け、廊下を見回した。
「グガアァァ!」
「タマライ!」
廊下の角から現れるなり、咆哮を上げて飛びかかってきたタマライを、ラメシュが抱き止める。
「すっかり元気になったか! 良かったなあ」
やや心臓に悪い光景だが、タマライの方にシェーナ達を驚かせる意図は、勿論なかった。彼女はラメシュの顎を嬉しそうに舐め、ラメシュもわしわしとタマライの首元の毛を掻いてやっている。
そこに、新たな影が差した。
「シェーナーッ! やはり無事だったんだな、信じていたとも! しかしそれでもこの永遠のような別離に、僕の胸は張り裂けそうだったよ!」
この騒がしさは、顔を確かめずとも分かる。フェリックスである。
彼はタマライの後方から駆けてきて、シェーナの前で片膝をつき、前世以来の再会を果たしたかのごとく、劇的に両腕を広げた。
「ああ、えっと……一晩ぶりねフェリックス。心配かけたみたいで」
複雑な表情で対応するシェーナの横で、エイダンが目を丸くした。
「イーファ!」
廊下の角からそろりと、遠慮がちにイーファが顔を出している。
「エイダン兄さん、あの……大丈夫なん?」
もじもじと訊ねるイーファに、エイダンは走り寄った。
「俺らは元気じゃって。でも一晩放ったらかしてしもうてごめんな、イーファ。探してくれとったん?」
「そうだとも、エイダンくん」
エイダンの問いかけにフェリックスが応じ、肩から提げていた鞄を開ける。
「二人とも礼服のままなんじゃないかと思って、念の為羽織れるを持ってきたよ」
鞄の中から出てきたのは、シェーナとエイダンの愛用のローブだ。
「わあ、あんがとう」
ドレス一枚のシェーナには、着替えている場所も時間もなさそうだったが、エイダンはその場でジャケットを脱いで、お気に入りの一張羅である小豆色のローブを羽織った。
彼の礼服は二年前に仕立てたきりの代物で、身長が伸びてしまったために、ちょっと肩回りがきつく動きづらかったらしい。
「よし、ほんなら……怪我しとる人らを運ぼう! フェリックスさん、タマライさん、手伝ってくれる?」
「当然だとも!」
「ガルルル!」
見慣れたローブ姿になったエイダンが張り切り、一行に加わったフェリックスとタマライが、それに二つ返事で賛意を示す。
そして救護班員達は、行動を開始した。




