第33話 聖域の護衛戦 ①
カリドゥス・カラカルにとって、その朝は予想外な形で始まった。
彼は聖ジウサ廟の宿坊に潜伏していた。ドナーティの伝手を使い、旅のユザ教修道士だと偽って、僧衣姿で隠れていたのだ。
ユザ教の施設に対しては、正規軍の捜査も及び腰になる。手配書の人相書きを知る者と、顔を合わせないように気を張っていれば、潜伏し続けるのはそう難しくなかった。
――ここを拠点に下準備を進め、そして闘技祭最終日。何も知らず祭りに浮かれるダズリンヒルの住民達、のこのこと会場までやって来た浅はかな貴族達を、恐怖に叩き落とす。
カリドゥスとアジ・ダハーカの目標とする所は、ダズリンヒルの壊滅と、首都機能停止である。……その先の展望はないし、アジ・ダハーカと組むのもそこまでだ。
シルヴァミストという国家を混乱に陥れ、出来る限り多くの血を流す事。それだけが彼らの共通の意志であり、アジ・ダハーカに対して、仲間意識や政治的な共感を抱く訳ではない。
ドナーティは――恐らく、カリドゥスよりも更に展望も何もなく、この計画に協力した事だろう。
バックに反政府組織がいたり、思想絡みの活動をしていたような人間は、そもそも闘技祭のスタッフとして採用されない。ドナーティ自身も彼の周囲も、全くのまっさらだ。
ドナーティにあるのは、カリドゥスへの負い目だけ。そのために人生を棒に振らせた。
哀れだとは思うが、それ以上にドナーティは、計画にとって都合が良過ぎた。重要施設内に容易に入り込めるだけの信頼を築いた、腕の良い料理人。この立場を利用しない手はない。
恨むなら、自分の生まれとあの事件を恨んでくれ。カリドゥスが彼に手向けられる言葉は、それくらいのものだ。
ともあれ、事は一応順調に運んでいた。
そう思っていたのだが。
「アリーナの厨房に置いた『攻化機関』が起動出来ない? どういう事だ、アジ・ダハーカ」
宿坊で仮眠をとっていたカリドゥスは、明け方、不意に現れた蛇の報告に跳ね起き、眉間の皺を険悪に深めた。
「そのままの意味だ。『攻化機関』に魔力を注ぎ、起動させる予定だった眷属共が、混乱しておる。厨房内に侵入者があったらしい」
「侵入者?」
「何日か前に、貧民街で遭遇したあの治癒術士共だ」
奴らか、とカリドゥスは応じたが、彼らの印象はそれほど鮮烈ではなく、計画にとっての脅威とも認識していなかった。カリドゥスが仕留めかけた赤毛の青年など、ろくに戦える訳でもない、ただの田舎者だ。彼らが侵入したとして、何が出来るというのか。
「治癒術士風情が何だと言うんだ。邪魔になるようなら始末すればいいだろ」
「それが困難らしい。一先ず奴らは捨て置いて、廟の中にあるもう一台の方に蛇共を呼び寄せる」
「計画が狂うじゃねえか」
「『攻化機関』はあくまで、魔術の攻守特性を反転させる装置だ。一台でも二台でも、威力はそう変わるまい。元々、どちらかは予備のつもりだった」
告げるだけ告げるなり、アジ・ダハーカはするりと窓から外へ細長い身を這わせ、姿を消した。
残されたカリドゥスは一人、舌打ちをするしかない。
『攻化機関』――カリドゥスがとある魔道技術者から買い取った、最新鋭の魔道具は、二台ある。
一台は聖ジウサ・アリーナの厨房に。そしてもう一台は、この聖ジウサ廟二階の厨房に。どちらも、外観は大陸式の新式オーブンに見えるよう偽装してあった。ドナーティが施設内に運び込み易いようにだ。
魔道具に魔力を注入し、起動させるのは、アジ・ダハーカの眷属達の役割だった。
彼らは皆、主の分身としての能力を授けられている。獲物を石化させ、魔力を吸い取る呪術を行使するのだ。
この能力で蛇達は、首都の貧民街をはじめ、各地で人々を襲い、魔力を奪ってきた。
奪い取った魔力は、蛇の体内に蓄積される。蛇達は攻化機関内に潜り込み、時が来たら魔力を放出して、機関を起動させる手筈だった。
アリーナの方の攻化機関が使えないとなると、廟の厨房に、アジ・ダハーカの眷属を移動させなければならない。
現在の時刻、廟に勤める修道士達は、夜明けの礼拝を終えて各々の仕事場に出発したばかりだ。街はお祭り騒ぎだが、そんな中でも、広場や学校での説法、修道会所有の畑や醸造所での作業、といった勤めが彼らにはある。
アリーナの厨房と違って、この建物に人払いをかけるのは困難なのだが、幸い元々、人の少ない時間帯だった。
カリドゥスは宿坊を抜け出し、僧衣をまとって、足音を立てずに階下へと向かった。
一階の窓から、慎重に外を伺う。丁度、裏口に荷馬車が到着した所だった。御者台にはドナーティの姿がある。
「ドナーティ、入れ」
小声で命じると、ドナーティは暗い顔を上げた。
「アジ・ダハーカの眷属を連れてきた。アリーナの厨房から……」
「ご苦労」
カリドゥスは馬車の荷を見遣る。人間の大人でも納まりそうな大きさの木箱だ。この中に、蛇の群れを逃げ込ませたのだろう。
裏口に回り、扉を開ける。間近まで寄せた馬車の荷台から、ぞろぞろと大量の蛇が姿を現した。一般人が見たら悲鳴を上げそうな光景だが、彼らはもう見慣れている。
蛇達は雨樋に潜り込み、二階の厨房へと向かう。それを見届けてからカリドゥスはドナーティに、
「お前はもう行っていい」
と、手短に告げた。
「救護班の治癒術士達に、攻化機関の存在が発覚した」
ぼそりと、ドナーティが打ち明ける。
「……もう駄目だ。私が捕まるのも時間の問題だ」
「だから、お前は逃げればいいと言ってる」
カリドゥスは淡々と彼に答えた。
「この後、計画通りに行けば首都は壊滅だ。そうなる前にとっとと姿を消せ。上手く国外まで逃げ果せれば、やり直せる」
「一つの街を破壊し尽くす作戦に加担しておいて、全部忘れて生きろと?」
「ああ、そうだ」
あっさりと頷きながら、カリドゥスは二階に目を向ける。既に彼の興味はドナーティになく、計画の次の段階を考えていた。
「二十年前のあの時、殺戮者となった連中が、殺した相手を悼んだり、自分の行いを悔いたりしたと思うか? いや、ケロッと忘れちまっただろうよ。人間ってのはそんなもんだ。お前だけ贖罪の聖人みたいに生きる必要がどこにある」
「……」
カリドゥスの語る言葉に、ドナーティは顔を青ざめさせたまま押し黙っている。
「これきりだ。忘れろ」
それだけ言い捨てて、カリドゥスは裏口の扉を閉めた。
もうドナーティと顔を合わせる事はないだろう――少なくとも、二度と会わないで済む方が互いのためだろう、とカリドゥスは考える。
彼は二階へと足を急がせた。
廟の厨房に入ると、そこには一際目を引く、黒々とした真新しいオーブンが据え置かれている。
オーブンにしか見えないこの箱の内部や底部には、膨大な呪文と魔道紋様が書き込まれ、複雑な魔術効果を組み合わせた、複数の加護石が埋め込まれているのだ。
これが、攻化機関。治癒術と呪術の特性を反転させる、最新鋭の大型魔道具である。
この魔道具は、今回の計画用に誂えられた特注品だが、これを開発した技術者はというと、アジ・ダハーカの呪術によって魔力を奪われ、現在も石化している。
自分の開発した魔道具に、生贄のごとく自身の魔力の全てを捧げるという、皮肉な末路となった訳だ。悲劇的とも喜劇的とも言えるが、カリドゥスの興味を惹く話ではない。
蛇達が室内へ次々と侵入し、攻化機関の中に潜り込んでいく。
程なく、攻化機関から、ごく低い振動音が響き始めた。熱した鉄のようなオレンジがかった光が、断続的に黒い機体の表面を走る。
蛇達による、魔力の放出が始まったのだ。
カリドゥスは攻化機関の上部表面へと手を添えた。
発動するべき魔術効果はあらかじめ定められているのが魔道具というものだが、これに関しては、最後の命令を使い手である魔術士が、呪文詠唱によって下さなければならない。つまり、何を標的とするかだ。
――照準は、聖ジウサ廟の外壁を構成する、全ての加護石に。
そこを魔力源とし、聖ジウサ・アリーナ全体を覆う、結界治癒術。これを呪術へと反転させる。
攻化機関に埋め込まれた加護石が、魔力特性反転の効果を出力させ始める。稼動の遅さが、いくらかもどかしく感じられた。魔道具としては大型の装置であるため、魔力が行き渡るまでにタイムラグが生じるのだ。
「眷属共の魔力放出は完了したようだ」
突如、嗄れ声が上方から降ってきた。見上げれば、天井から吊り下がった燭台に、アジ・ダハーカが巻き付いている。
「間もなく、攻化機関は起動する……いやいや、実に愉しみな事だな。お前も長らくご苦労だった」
アジ・ダハーカは上機嫌である。
「計画は、これで終いか。互いに用済みって訳だな」
対するカリドゥスは、淡泊に肩を竦めた。
「どこかの段階で、お前はドナーティを消す気かと思ってたが。勿論、俺の事も」
「消す? 何故儂が、そのような労力を払わねばならんのだ?」
蛇の威嚇音に似た笑い声を立てて、アジ・ダハーカは眼下の人間を嘲る。
「利用価値がなくなれば、人間など邪魔者とすら思えぬわ。お前の魔力は美味そうだが、ここで食らうのも億劫だ。どこへなりと失せるが良い」
言われなくとも、とカリドゥスは、別れの言葉もなく厨房を立ち去りかける。
入口で一度振り向くと、アジ・ダハーカは魔力放出を終えた眷属を引き連れて、窓辺に向かう所だった。
「どれ、せっかく宴が始まるのだ。人間共に挨拶の一つもしてやるか――」
蛇の群れが、アジ・ダハーカに率いられて外壁を伝い登っていく。
今はごく細長い、普通の蛇の姿を取っているが、アジ・ダハーカは眷属達の肉体を取り込み、最大で全長数十ケイドルの大蛇へと変幻する事も出来る。その姿で塔の最上階辺りに巻き付いて、アリーナの観客達を恐れ戦かせようというのだろう。
「魔物の癖に、演出過剰な奴」
独り言に近い悪態をつき、カリドゥスは厨房を後にした。
攻化機関が完全に発動しきるまで、あと一、二分といった所だろう。この場を立ち去り、身を潜めておく必要がある。
僧衣姿のまま、足早に一階へと降りる。人に見咎められそうな礼拝堂方面を避け、回廊を裏手へと進んだ。
写本などの作業に使う、ちょっとした小部屋がそちらにはあった。日光に弱い古紙の類いが保管されているから、あえて陽当たりの悪い造りとなっている。そこの、戸板で閉ざされた窓から脱出するのが良さそうだ。
思考するカリドゥスの耳に、微かな物音が届いた。
弦楽器による音楽である。
礼拝堂に、修道士が残っているのだろうか? いや、ユザ教徒が奏でる音色にしては、違和感がある。これは東方の楽器によるもの。それも――音に魔力が篭められている。魔術の一種だ。
「治癒楽曲。あの治癒術士共の一人か……?」
「いいや! 一人ではござらん」
写本室の戸が、唐突に内側から開いた。人影が一つ、そこに仁王立ちしている。
暗がりから現れた人影の正体は、病衣姿に眼鏡をかけた東洋人である。見覚えのある顔だった。
「やはり、カリドゥス・カラカル……お主であったか! 今度こそ、逃しはせぬぞ!」
右腕に包帯を巻いたその男は、左手の人差し指を、真っ向からカリドゥスに突きつけた。




