第30話 そして夜は明ける ①
イーファは目を醒ました。
瞬きをしてから辺りを見回す。周囲はほの明るい。日の出の時刻くらいだろうか。
すぐには自分のいる場所が把握出来ず、彼女は混乱した。
そこは広々とした寝室で、身を横たえていたベッドも、寝ぼけ眼で這い出すのが大変なくらいに広大だった。ベッドの傍には、装飾の施された化粧台がある。
ビビアンの滞在している宿だ、とイーファはようやく、昨夜の事を思い出した。
◇
路傍で泣いているところをビビアンに拾われたイーファは、とりあえず馬車に乗せられたが、その後、もっと落ち着ける場所に行こうという事になり、すぐ近くの立派な建物へと通された。
建物内の一室で、運ばれてきたハーブティーを前に、自分がどこから来て、今までに何があり、何故号泣しているのか――イーファは全てそっくり、ビビアンに打ち明け終えた。
「そうだったのか。西の果てのイニシュカ島から、船の中に迷い込んで……何とも、冒険物語の主人公のような真似をしたのだな」
イーファの話を聴き終えたビビアンは、感心した風に呟いた。
ビビアンこそ、お伽話のヒロインになれる特別な女の子のようだと、イーファは思っていたのだが。
続けて、どこか切実な眼差しで、ビビアンはイーファに告げるのである。
「イーファ、そなたの将来への志が悪しきものであるとは、私は思わぬぞ。……応援したい。心からじゃ」
「えっ……あ、あんがと……でも、うち」
「本当は嫌ってなどいないのに、家族や故郷をつい罵ってしまい、それを今そなたは悔いている。その気持ちも分かる。私も……以前、そういう事をしてしまった。何なら、今でもよくやらかす」
と、ビビアンは沈んだ表情になり、顔を俯ける。
「誰の事も、憎んでなどおらぬ。ただもう少し、思い通りの、自由な生き方をしたいだけなのに……」
イーファはぽかんと彼女を見つめた。
「ビビアンて、うちの心とか何でも分かるような、魔術が使えたりするん?」
「まさか。……これは、私の思いじゃ」
ビビアンに言われ、やはりイーファは目を瞬かせるしかない。
こんなにも――ドレスも容姿も威厳も、人の羨むような物は全て手中に収め、同世代のイーファよりずっと物知りに見えるビビアンが、イーファと同じ悩みを抱えているとは。
しかし思えば、短い時間の中で彼女と打ち解けられたのは、自分とはまるで違うはずなのに、どこか通じ合えるものを感じたからではなかったか。
……闘技祭や都会の景色や、屋台のお菓子に興奮ばかりしておらず、ビビアンの話にもっと耳を傾けておけば、もう少し早く、エイダンや家族に謝罪出来たかもしれない。そんな風にイーファは省みる。
「それと私が思うに、エイダンなる男は、そなたを蔑んだりはしておらぬはずじゃ。そなたの認めた者であるならば」
ビビアンが、つんと鼻先を上向けて意見を述べた。
「ん? そうなん? それ、何か変な理屈にならん?」
「ならぬ。もしエイダンとやらが、かように狭量な者であるなら、私はそなたに、そんな男の事は忘れるよう助言せねば」
「……あんね、ビビアン。うち別に、エイダン兄さんの事好きとかじゃないけんね。うちは都会で暮らし始めたら、もっとかっこいい人を見つけるって決めとるし……それにエイダン兄さん、他に好きな人おるっちゅう噂じゃもん」
「何じゃと。けしからん」
「けしからんくはないよ!?」
どこかで誤解が生じていたらしい。――いや、誤解という訳でもない。イーファにとってエイダンは、確かに憧憬の対象だ。だが、エイダンがイーファを丸っきり子供扱いしていて、大事な親友の妹、家族同然に育った隣人としか見ていない事も、理解している。
イーファはそれが不満だった。だが、そう扱われるのも当然かもしれないと、今は半ば、納得しつつある。
「……どれ。少しは落ち着いて、元気も戻ってきたかの、イーファ」
ふっと力の抜けた優しいに表情になり、ビビアンがイーファの顔を覗き込んできた。
気づけばイーファの涙は、さっぱりと乾いている。
「この時間では、そなたの滞在する宿も門扉を閉めておるじゃろう。使いは遣っておくゆえ、この宿に泊まっては如何か」
「宿? ……ここ、宿屋?」
その時初めて、イーファは自分のいる部屋を見渡し、調度品の数々を認識した。
柔らかな椅子とテーブル。高い天井。煌びやかなランプ。ラウンジと呼ばれる、主に上流階級の邸宅などに設けられる待合室の一種だろう。
「私の滞在している宿であるぞ。他の何だと思っておったのじゃ?」
「な……何じゃろう。こういう場所知らんし……皇帝陛下の宮殿って、こんな感じ?」
「あっははは!」
冗談のつもりはなかったのだが、ビビアンは何故か、おかしそうにソファの上で笑い転げた。そして、不可解な言葉を付け加える。
「宮殿よりも、ここの方が退屈しない場所じゃな。そなたがおれば特に」
◇
「う、うわぁ……」
昨夜の出来事を思い出したイーファは、寝室の真ん中で頭を抱えた。
あの後、眠気と疲れが限界だった事もあり、ビビアンに勧められるがままに流されて、用意された部屋で、ありがたく寝こけてしまったのだ。
取り乱していたとはいえ、結構なやらかし具合である。
救護班の皆は心配しているだろうか。
考えてみれば、今日は蒼薊闘技祭の最終日だ。
決勝戦は、『ホワイトフェザー騎士団』対『北新町魔道管理局警備隊』。なんでも、大本命同士の激突だそうで、実力は拮抗しており、怪我人が多数出る事が予想される――と、ミカエラが試食会の席で、興奮気味に語っていた(救護班員としてはどうかと思う)。
救護班が忙しくなるなら、その前に、一度エイダンと話しておこう。どんな会話をするべきか、まだ頭の中はまとまっていないが、とにかく会いたい。
イーファがそこまで考えた時、計ったようなタイミングで、寝室の扉が叩かれた。
こちらはまだパジャマ姿である。躊躇いつつもそっと扉を開けてみると、そこにはきっちりと身なりを整えたクロエと、数人の女性が立っていた。
「おはようございます、お嬢様。身支度をお手伝い致します」
「ええっ!? あっ、いやっ、大丈夫です! 自分でやるけぇ!」
思いがけないクロエの申し出に、慌ててイーファは首と両手を振る。同性であっても、見ず知らずの大人達に着替えの世話など頼むのは、慣れていないし慣れる予定もない。
「そうですか。しかし、お迎えの方がお急ぎのご様子なので」
「……お迎え?」
問い返したところで、突如その場に、「キャッ、虎!?」と小さな悲鳴が上がった。
クロエの後ろに控えていた女性の一人が、廊下の向こうを見て口を押さえている。
廊下に首を出して、彼女の視線を追うと、カーペットの敷かれた廊下を、音もなくこちらへと走り来る、タマライの姿があった。
その背には、マディとハオマが乗っている。三人乗せるのは重量オーバーになるのか、隣をフェリックスが全力で並走していた。
「早朝にすまない! エイダンとシェーナとラメシュは、こちらに来ていないか?」
タマライの背から飛び降りたマディが、勢い込んでその場の全員に訊ねた。
「エイダン兄さん? ――あれ? 兄さんらは、うちが試食会から出て行く前に、宿に帰ったはずじゃ……それに、ラメシュさんは」
「グルルゥ」
酷く気遣わしげな唸り声を、タマライが立てる。マディに続いて床に降り立ったハオマが、毛皮に覆われた肩を、宥める手つきで叩いた。
「ラメシュは、タマライの意識が戻った後、彼女からアジ・ダハーカに付けた『痕跡』の話を聞き、すぐに宿を発ってしまったのです。同行すべき所でしたが、タマライもまだ一人にしておける容態ではなく……」
悔いるように、ハオマは閉じた瞼の間に皺を寄せる。
「……深追いはしない、とラメシュは言っていました。しかし、一晩経っても帰って来ないのです。不測の事態が起きた可能性が高い。もしかすると、エイダンとシェーナにも」
「『痕跡』……? 一体、貴方がたは何を?」
黙って会話に聞き耳を立てていたクロエが、怪訝な目を一行に向けた。
「こ、この際……色んな人に、協力を……仰ぎたい。説明しようじゃないか……」
フェリックスが、ぜいぜいと荒い息を吐きながら、片手を挙げて語る。タマライと並走するのは、彼にも相当きつかったらしい。
「人命に関わる事態だ。……いや、それどころか! 今日は闘技祭の最終日。テロリストが何か仕掛けるとしたら、今日なんじゃないか? だからきっとラメシュも、焦って無茶な行動を」
ラメシュ達の安否が心配なだけではない。このダズリンヒル全体を揺るがす事件が、これから起きるかもしれない。フェリックスは真剣な表情で、クロエに訴えかけた。
「事件? エ、エイダン兄さんが、どうかなるん――?」
寝起きの頭には、あまりに負荷の強い情報量を詰め込まれ、イーファは眩暈にも似た感覚に襲われた。
意識をしっかりさせたくて、彼女は両手で頬を押さえ、左右に首を振る。
廊下の窓に、昇りゆく朝日が映えていた。




