第27話 晩餐会と急展開 ④
扉を押し開けたエイダンは、夜風に晒された頭が冷えていくのを感じつつ、今し方まで自分のいた、白磁のような美しい塔と、その隣の、巨岩を思わせる聖ジウサ・アリーナを振り仰ぐ。
星空をぐるりと見渡し、そこから軽く視線を落とした時、廟の両開きの扉が開いた。
「エイダン!」
「シェーナさん」
シェーナは、エイダンを追ってきたらしい。エイダンの姿を見つけて駆け寄り、安心した様子で胸を撫で下ろす。
「良かった、一人で帰っちゃったかと思った」
「ごめん、ぶち壊してしもうて。……アイスクリーム食えた?」
「食べてない。もう、仕方ないじゃない。全員で出て行くとドナーティさん達に悪いから、マディとフェリックスには堪らえて貰ったけど。二人だって、大分腹に据えかねてたわよ」
特にフェリックスにとっては、イニシュカはもう一つの家のようなものだから、とシェーナは付け加える。
「あたしにとっても同じ。あんな言い方ってないわ。――それにしても、あたしより先にエイダンが怒るなんて、珍しいわね」
「……そうじゃね」
シェーナは至って軽い口調で言うが、先程エイダンが怒鳴った相手は、一応彼女の母親なのだ。
言った事は本心だし、今更後悔する訳でもない。しかし、大人気ない言動ではあった。
浮かない顔のままのエイダンに、シェーナは少し考える素振りを見せてから、改まった態度で口を開く。
「母さんの発言を庇うつもりはないんだけど……あれはね、彼女の劣等感の表れだと思うの」
「へ? サンドラさんの?」
顔を上げるエイダンに、シェーナは左右非対称の、複雑な笑顔を浮かべる。
「うちの母方の家、二代前までは辺境の……それほど立派でもない家柄でさ。祖父母は、まあ成り上がりって奴だったのよ。成り上がる中で何かやらかしたのか、単に性が合わなかったのか。母さん、随分と故郷に嫌な思い出があるみたい。あたし、祖父母の顔も知らないの」
具体的に、少女時代のサンドラに何があって、故郷や親類をどう思っているのか。シェーナに対して、サンドラは何も語ってはくれなかったと言う。
ただひたすら、大都会ダズリンヒルに溶け込み、上流階級に相応しい所作と教養を身につけ、誰にも見下されないエリートに育つ事を、シェーナは強要された。後ろは振り向かず、上昇する事だけを考えなさいと、自身に言い聞かせるようにサンドラは繰り返した。
その末にシェーナは、激烈かつ長大な反抗期を迎え、家を飛び出して現在に至るのだが。
「普段あれだけ冷徹な人が、辺境地域を罵る時だけ、感情を露わにするのよ。どう考えても、自分の職場に勧誘するのに上手い言葉選びじゃなかったでしょ? さっきの」
「うん……」
サンドラとの会話を思い出し、エイダンは素直に頷いた。
「思うに、イニシュカ島を悪く言ったというよりは、自分の記憶と偏見が見せる虚像を罵ってたのね――多分。あの人とちゃんと話し合った事ないから、偉そうな事言っといてよく分かんないんだけどさ、あたしにも」
横髪を弄って、シェーナは照れた風に言葉を濁す。
「だから深刻に捉えないで、エイダン。あんたは怒って正解よ。八つ当たりされたんだから」
シェーナと並んで立つエイダンの背に、柔らかく手が添えられた。
もしも自分に、姉がいたなら。何でも相談出来て頼りになる家族が祖母以外にもいたなら、こんな感じだろうか、とエイダンはよく、彼女に対して思う。
「俺もな……」
「うん?」
「俺も、こないだ……考えてしもうたんよ。珍しい力を持っとるちゅう事は、自分は特別な人間なんじゃなぁかて。ほんまはただの田舎者で終わらん、凄い役目を背負っとって、いつか物語の英雄や勇者みたいになるかもしれんて。そがぁな、驕った頭ん中を見透かされたみたいで、そんで怒ってしもうたんかも」
イニシュカにいては一生見られないような、きらびやかな大都市の光景に酔っていた。
憧れの大都会、高名な魔術士達、彼らに混ざって仕事をする自分。それらのもたらす高揚感に、過度に浸っていた。
「とても、イーファに説教なんか出来んわ俺」
エイダンは気恥ずかしさを募らせて、そう吐露した。
少しの静寂ののち、シェーナが口を開く。
「エイダン、あんたは――確かに特別よ」
「……? いんや、考えてみるとテンドゥとかには火属性のヒーラーもいくらかおるって……」
「火属性治癒術士だからじゃない。エイダンは、いつも村の皆やお祖母さんの事を大切に思ってて、でも赤の他人も全力で助けて、自分の身は後回し……どころか、危なっかしい真似ばかりして」
急に強い眼差しでシェーナに見つめられ、エイダンは我知らず首を竦めた。
「そういう生き方、あたしには出来ない。だから、あんたは特別なの」
「そっ、そがぁな」
反省から一転、頬が上気するのを感じつつ、エイダンは急いで首を横に振る。
「そらぁ単に、俺が深く考えんと、何とかなるじゃろうってすぐ動いてしまうせいじゃ。あんぽんたんなだけ」
「でも、あたしにとっては特別。……誰かが特別かどうかなんて、そういうものじゃない?」
切実とも取れる口調で、シェーナは繰り返した。
「自分のやりたいように出来ない人生は嫌、納得出来ない献身は嫌――あたしはそう言って、故郷も家族も失くした。大切な人にも素直になれない。そんな風だから……エイダンが羨ましかったのよ。ずっとね」
エイダンは何とも答えられず、口を噤む。
――エイダンから見れば、シェーナこそ特別だ。
皆に頼られる熟練の冒険者で、多彩な治癒術を使いこなし、エイダン自身、何度も助けられてきた。彼女がいなければ、彼の冒険は初仕事の時点で終わっていたかもしれない。
もっと言うと――両親がいて、大都会で何不自由ない暮らしを送り、幼くして当然のように魔術を学べる環境。それは幼少期のエイダンにとって、物語や夢の中にしか存在しない、特別で理想的な幸福の形だった。
……だが、今なら分かる。『理想的な幸福』などありはしない。あったとしても、それは決まった型に嵌められるものではない。シェーナの育った環境は、彼女を必ずしも幸せにはしなかった。
ここで隣に立っているエイダンとシェーナでさえ、これほどに違う人間だ。
しかし、まるで違う人間であっても、シェーナが大切で特別な友人である事に変わりはない。シェーナがエイダンにそう言ってくれたように。
「特別ちゅうのは……うん、そがぁなもんかもしれん」
いくらかすっきりした顔を、エイダンはシェーナに向け、シェーナは安心したように微笑する。
「この先エイダンが、都会に出て自分の好きな仕事をしたり、また冒険の旅に出たり、って人生を選ぶなら、それはそれで良いと思うのよ。……でもね、自分の利益のために、都合の良い方向に他人の生き方を誘導するような相手には、気をつけなきゃ」
「それって……サンドラさんのこと?」
「そう。あたしも母さんに、随分と同じ事をされたわ。学校はここに行くべき、服装はこうするべき、結婚相手は――」
シェーナが、そこで唐突に言葉を切った。
困惑混じりの沈黙が、二人の間に落ちる。
「あの」
おずおずと、エイダンは口を開いた。
「俺、こういうのの上手い聞き方が分からんのじゃけど。……さっきシェーナさん、大切な人に素直になれない、て言うてたよね」
「言ったわね。何かこう、勢いで」
失言でもしたかのように軽く口を尖らせ、溜め息を漏らすシェーナである。
「シェーナさんの大事な人ちゅうたら……俺から見ると、えっと、フェリックスさんのことを……」
流石に、自分の発言が野暮を極めている事くらいは自分でも分かったが、とはいえエイダンは、この機に確かめずにはいられなかった。
「……随分ストレートに言及するじゃん?」
「フェリックスさんも心配で。一応温泉で雇っとる身として」
何より、一人の友達として――と、エイダンは言う。
本来シェーナは、優柔不断な人物ではない。寧ろその真逆だ。異性を弄んで楽しむような趣味も勿論ない。
ファルコナー家との政略結婚は御免だと、婚約の件ははっきり断ってもいる。
しかし、フェリックス個人への態度となると、どこか煮えきらない所があった。フェリックスの意志表明がいちいちあまりに真っ直ぐ過ぎるから、彼に比べれば戦場に立った歴戦の猛将でも優柔不断だ、と言えなくもないが。
――先程の言葉から邪推するに。
彼女に迷いや拒絶感を与えているのは、母親の選んだ相手を、目論見どおりまんまと愛してしまった自分自身ではないだろうか?
「あたしは……」
エイダンの視線の先で、しばし黙考を続けていたシェーナが、何事か言葉を紡ぎかけた、その時。
不意に背後から声がかかった。
「ん? おう、お前らか。晩飯はどうした?」
驚いて振り返ると、ラメシュが杖で片脚の義足を支えて立っている。
「ラメシュさん! 何でここに……タマライさんは?」
「治ったぜ。意識も戻った。そのタマライが、どうしても急いでくれって言うんでな。看病をハオマに任せて、ここに来た。こんな所に導かれて、オレだって驚いてるさ」
「っちゅうと?」
今一つ話が見えず、エイダンは先を促した。
「アジ・ダハーカと交戦したあの時、タマライは立派にカウンターを食らわせてたって事だ。ハオマの話じゃ、シルヴァミストの妖精にも同じ力があるそうだが。契約を交わした相手に、自分の足跡を辿らせる能力……」
「うん、そういうんがあるよ」
かつてハオマが、契約を交わした盟友である妖精ノームの居場所を、それで察知したのをエイダンも覚えている。
「タマライが使ったのは、それの応用版だ。自分の魔力痕を、アジ・ダハーカの奴に刻みつけてた。悟られる事なく、オレだけが追えるように」
手にした杖で、前方を指し示してみせるラメシュにつられて、エイダンは地面と虚空に目を凝らした。しかし、彼には何も見えない。
「貴方には、何か見えてるの? ラメシュ」
シェーナにも魔力の痕跡は分からないらしく、エイダンの隣で宵闇の向こうを、頻りに見渡している。
「ああ。戦いになった貧民窟の通りからずっと、でかい肉球の跡が続いてた」
「……可愛いわね」
見たい、とシェーナは口走り、それどころではないと思い直したのか、慌てて両手を挙げてみせる。
「でも、ちょっと待ってよ。魔力痕がこの先に続いてるって事は、『蛇身の悪王』が……あそこにいる!?」
シェーナとエイダンは、顔を見合わせてから同時に、ラメシュの示した先にそびえ立つ建物を見上げた。
聖ジウサ・アリーナである。




