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契り



「お……おい、姐さん、ちょっと待ってくんねぇ」


 憤然と進む涼香の前に回り、伊三次は慌てて行く手を塞いだ。


「どいて、アリジゴクの兄さん!」


「……常盤屋の簪はどうする?」


「もう良い! もう、ど~だって良い! あんたの顔なんか、もう見たくない」


「訳がわからねぇ。どうして、そう急に怒り出すンだ」


 あんたのせいに決まってんでしょ。


 辛うじて声には出さず胸の奥で叫んでみたものの、何故こう腹が立つのか、涼香にも皆目わからなかった。


 只、目の前の男が憎たらしい。


 いかつい顔を見れば見る程、猫の様に爪を出して引っ掻いてやりたくなる。


「お、又、睨めっこする気か。こいつに免じて勘弁しな」


 伊三次は、涼香の視線を遮る様に、描き上げたばかりの絵を掲げた。


 い~え、誰が許してやるもんですか。


 知らん顔をしようとしたのも束の間、薄墨で写し取られた絵姿を垣間見、思わずはっと息を呑む。


 それは恋する女の顔だった。


 愛しい男を間近に感じ、火照る頬を夜風に晒して、切なく星空を見上げる女。その髪には繊細な模様を持つ虫がとまり、透き通った羽根を休めている。


「あ……これが、私?」


「窓へ凭れたあんたを見つめ、その艶のある髪にちょこんと留るとんぼの姿を思い浮かべたら、もう絵筆が止まらねぇ。朧げに夢見てた細工の形がとんとん拍子に出来上がって、そん時にわかったんだよ。あんたしかいねぇ。一世一代、俺の簪で飾りたい、只一人の女が目の前にいると」


「……只一人の、おんな」


「おう」


「あの……私、いつもぼ~っとしてるけど、良いの?」


「それは、こっちが聞きてぇや」


「え?」


「何時の間にあんた、それほど綺麗になったんだよ」


「えぇっ!?」






 隣室で覗く巳代松は「良く言った」と膝を叩いたが、朝霧はただポカンと口を開けたまま二人を見守っていた。


 仕掛けた悪戯の意外な展開に仰天していたのだ。


 涼香が伊三次に心を開く筈はないと頭から思い込んでいたし、伊三次の行動も予想外である。


 あっさり振られる道化役の筈が、世辞を言う器用さなど微塵も無い口を開く度、涼香の心を震わせている。






「張見世で見た時……いや、この部屋で初めて会った時とも、今のあんたは違う。俺の絵筆の前で、見る見る花が開くみてぇで、その」


 掲げていた半紙を下し、伊三次は先程までの緊張感を蘇らせて、涼香を見た。


 何度目かの睨めっこ。


 でも通じ合う思いは、格子越しの、あの半見世の時とは全く違う。


 恥をかかされたと感じ、煮え滾っていた男への憎たらしさが、涼香の中で違う何かに変わり始める。


「何て言うか、その……掛け替えのない、俺だけの観音様を見つけた……みてぇな」


 照れ笑いで歪む男の口を、女の唇がいきなり塞いだ。


 こつんと歯のぶつかる音がし、それでも構わず、しなやかな体が伊三次の胸へ飛び込んでいく。






「へん、あの野郎、観音様たぁ、人のおはこを奪いやがってよぉ」


 ほっとした様子の巳代松を余所に、朝霧は息を呑み、大きく見開いた目を覗き穴から離せずにいた。


 壁の向うで涼香と伊三次は、相変わらず不器用に唇を重ねている。


 廓で口づけを交わす事にどれだけの意味があるか、伊三次は知るまい。


 遊女である涼香が何故、口づけだけ、あんなにも不慣れで不器用なのか、その意味すらも。

 

 唇は特別な男……真の間夫にしか許さない。


 それが恋愛を模した遊戯を強いられ、金や権力を握る男たちの気持ち次第で運命を弄ばれる遊女達に残された最大の矜持であり、意地なのだ。


 覗き穴の向こう側で、伊三次と涼香は、もうそこが廓の一室である事さえ忘れているかに見えた。


 床へ描き散らした半紙の上へ身を横たえ、ひたすら互いの裸身を求めあう。


 甘い呻きと共にのけぞる涼香の喉があまりに白く、妖艶に映え、圧倒される思いで朝霧は唇を噛んだ。

 

「おい、俺の隣で妬くなよ」


「……あたし、思案してたの。盗んだ簪を返す時、どんな顔して謝るか」


「いつもの乗りで誤魔化しな。伊佐さんの何処が気に入ったか知らねえけど、涼香も身請け前の良い思い出ができただろうし、よ」


 小さく頷き、穴から離れる。


 涼香の身請けはおよそ一月後に予定されており、彼女が吉原を去るその日まで大した猶予は無い。


 そして、その前に行うべき特別な催しを常盤屋は準備していた。寛政の改革以来、すっかり廃れている花魁道中を一夜限り復活させようと言うのだ。


 本来、揚屋で呼出しを掛けた客の為、最上位の遊女がとっておきの衣装をまとい、禿や振袖新造と共に、仲の町通りを練り歩くのが花魁道中である。


 太夫よりずっと下の格である散茶が行うのは異例中の異例。身請けにまつわる常盤屋の強い思い入れと、己の財力を誇示する狙いが伺えよう。


 それだけに道中の際、贈られた銀の簪を付けない訳にはいかず、涼香は偽物を作ろうとまでしたのだが、


「……どの道、あの娘には辛い道中になるかも知れないね」


「辛い筈あるかい。文字通り、玉の輿に乗る花道じゃねぇか」


「だと、良いけどさ」


 朝霧は巳代松から目を逸らし、隣室から漏れる涼香の甘い吐息から逃げる様に隠し部屋を出た。


 罪な事、しちまったよ。


 朝霧のその呟きはか細く、ひどく苦しげで、遅れて隠し部屋を出る巳代松の耳に届く事は無い。


読んで頂き、ありがとうございます。

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