あの夜、俺が見つめていたのは
「ほら、伊三さん、迷わなくて良いだろうがよ!」
隠し部屋の方では、巳代松が伝わらない友への忠告を、念仏さながらブツブツと口の奥で呟き続けていた。
「この際、嘘でも出まかせでも構わねぇや。お前があんまり綺麗だから、とか、張見世の中に眩しい観音様を見つけちまった、とかよ。何でも良いから、涼香が喜びそうな話をしろぃ」
「眩しい観音様か……お前さん、確か、あたしにも似た様な事、言ったね」
「……え?」
「ねぇ、巳代松さん、嘘でも出まかせでも良いって、あの夜のあんたのアレ、そういう了見だったの?」
今度は巳代松を見る朝霧の目が、見る見る冷たくなっていく。
咄嗟に聞こえなかった振りをし、さりげなく朝霧から目を逸らしたまま、巳代松は隣室の次の言葉に耳を澄ました。
「あれは……あの時、半見世の前に立って中を覗いていたのは、その……言わば俺なりの修行だったんだ」
長い沈黙と思案の末、伊三次はぼそりと呟く。
「簪の細工じゃ俺ぁ、ようやくいっぱしの腕と言われるようになった。けど、物足りねぇのさ。一世一代、他の誰にも真似できない俺だけの簪を工夫してみてぇ」
「それが半見世の冷やかしにどう繋がるの?」
「あんた、番茶に出花って、知ってるか」
「ううん、初めて聞いた」
「上方で流行りのいろはかるたで、何事にも旬があるってぇ例えよ。有るべき時、有るべき所に置かれて、綺麗なもんは一層綺麗に光るもんだってぇ話」
「ん~、簪の旬って何時かな?」
「そりゃ勿論、女の髪を飾る時に決まってらぁ。だから俺は張見世を覗き、巷で評判の別嬪がどんな風に簪を挿し、姿を飾るものか、逐一調べていたのよ」
「ふうん」
飾り職人の技法は、本来、師から弟子へと受け継がれていくもの。
作り手個人の名が世に喧伝される例は稀だが、伊三次の簪にかける思いは功名心の類とは違う。ただ、ひたすら己の腕を極めたいという情熱のみである。
「なぁ、誰にでも合う代物じゃねぇよ。これと見込んだ女、只一人の髪を飾り、そいつにしかない器量を引き出す簪。そんな工夫は京の名人だって試しちゃいない。粋な代物だと思わねェか?」
簪を語る時、伊三次は饒舌になった。きらきら瞳を輝かす様は先程とは別の意味で幼さを感じるが、同時に頼もしくも見える。
涼香は意を決して貰い物の高価な簪を無くしてしまった事情を告げ、代りが欲しいと頭を下げた。
伊三次に断る理由は無い。
早速、失った簪の形を詳細に聞き、常日頃持ち歩いている半紙へ、思い描いたその細工の絵を模写し始める。
「あ~、結局、仕事の話になっちまった。あいつ、何処まで朴念仁なんだよ」
絵を描く他に動きの無い隣室を覗く内、巳代松と朝霧は退屈で欠伸を漏らしたが、この時、二人には気付けない密かな変化が生じていた。
簪だけを描く筈の伊三次の絵筆は、何時しか、その簪を刺す涼香の全身を形どり、たおやかな線で艶姿を映している。
熱が入るに従い、伊三次の眼光は鋭さを増し、肌に突き刺さる感触を涼香は感じていた。
それは決して不快なものでは無い。
月明かりの落ちる窓枠に凭れ、言われるまま姿勢を変え、描かれるのと並行して簪に関する問いへ答える涼香に少しずつ男の熱気が伝わっていく。
軽やかな絵筆の動きが、直接まさぐられるより心地よく涼香の心の琴線を撫で、体の芯を潤ませていく。
二人の間の距離が縮んでいく。
「……ねぇ、伊三次さん」
「ん?」
「半見世の中にいる私って、あなたには、どんな風に見えていたのかな」
不思議な息苦しさを紛らわす為、涼香はふと伊三次に問うた。
「悪いが、あんた、ちょいと黙っててくんねぇ。やっとこさ思いつきそうだ、俺の目指していた細工の形」
「え、あたしの頼んだ簪、作ってるんじゃないの!?」
伊三次は答えない。
憑き物に操られるかの如く微妙に形状の異なる簪と、それを付けた涼香の姿を無数に描き、一枚書き終わる度、半紙を床へ撒き散らしている。
「……ねぇ」
ないがしろにされたと思い、涼香は苛立ちを声に込めた。
「聞いてよ。ねぇ、聞きなさいよ、冷やかしのアリジゴクさん!」
「あ、ありじごく?」
「あなたが廓の前でずっと私を見ていた時、朝霧姉さんが言ったんだ。えらく目つきが悪いし、ごっついし、まるで砂の中にいる虫みたいだって」
伊三次は漸く顔を上げ、額の汗を拭って、困惑気味に苦笑した。
「そいつはひでぇ言い草だな」
「人だって言うなら、私をないがしろにしないでよ」
「ふふっ、そいつは申し訳ねぇ。だがな、本当の所、あの夜、俺が見つめてたのは、あんたと姉さんなんかじゃない」
「えっ!? だって姉さんが肩先に抜けるあなたの眼差しを感じたって」
「さっきも言ったろ。遊女がどうこうじゃなく、簪をどう付けるか調べていたと。ほら、あの人、何本も簪を挿すし、凝った着物ともうまく合わせているから」
「それって、つまり……」
「朝霧さんの肩越しじゃなく、その少し上、髪と簪だけ見ていた。簪が主で、殆どそれしか目に入ってなかったんだよ、俺は」
涼香は微かに呻いた。
男が自分を見詰めていたとの思い込みが崩れ落ち、穴があったら今すぐ飛び込んで、己を埋めてしまいたいとまで思う。
「あの……他に何か言う事は無いのかしら。朝霧さんの隣にはね、こ、この私だってず~っといたのよ」
「う~ん、そりゃ見えてたし、綺麗な人だと思ったけど」
「けど、何さ」
「張見世の中では、あんた、ぼ~っとしてるだろ。霞んでるみてぇでさ、今一つ心に残らねェって言うか」
ぼ~っ……
涼香は虚ろに呟き、がっくりと肩を落とした。
「ばっ、馬鹿野郎っ! けなしてどうすンだよ、けなして」
隠し部屋では、呆れるのを通り越し、巳代松が一人憤慨していた。
「う~ん、涼香ほど浮世離れした人はいないと思っていたけど、世の中、上には上がいるもんねぇ」
「馬鹿のてっぺん極めてやがる。仕事しか頭にない極楽トンボだぜ、全く」
「あら、アリジゴクが育つと、トンボになるんじゃなかったっけ?」
朝霧が小首を傾げた時、隣室でドンと音がした。
二人が慌てて覗き穴へ飛びつくと、逆上した涼香が床を踏み鳴らす勢いで、部屋の外へ出ていこうとしている。
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