男のコツ、女のコツ
数刻後、峯屋の二階、奥まった一室で対面した涼香と伊三次は、仰天の余り、呆然と顔を見合わせた。
「あ、アリジゴクっ!?」
「う、嘘だろ、あんたみてぇな売れっ妓が、どうして!?」
後は互いに言葉も無く、睨めっこの再現でもしているかの様だ。
そもそも段取りを重んじる吉原で、客と遊女がいきなり顔を合わせる事など、普通はまず有りえない。
散茶は部屋持ちの格なので、初見の客は揚屋を通し、遊女の承諾を経てから入室。対面の礼を整えた後、一晩泊まるのがお決まりの筋道である。
なのに今宵は高い身分の男がお忍びで使う為の特別な部屋へ放り込まれた挙句、飾り職人という以外、素性のしれぬ男と二人きりで向き合う異常な成行き。
姉さん、幾ら何でも、ちょっとやり過ぎじゃない?
朝霧の間夫とやらは楼主にかなりの金子を支払い、部屋を一晩借り切ったと言う。大店の跡取りとはいえ、容易に出せる額ではあるまい。
その酔狂に呆れつつ、涼香は深呼吸して、いつもの自分を取り戻そうと努めた。
彼女自身も初めて立ち入る豪奢な部屋で腰を下ろし、設えてある盆の徳利を手に、伊三次へ語り掛けてみる。
「主様、どうぞ、一献」
ごつい体がびくっと震えた。
舞い上がっているという点では、伊三次の方が遥かに深刻である。
白粉を厚塗りした半化け女郎が相手と思いきや、峯屋の看板を背負う売れっ子が現れたのだから無理も無い。
「お、おう、頂戴するぜ」
一声返してどっかと座り、強がってみたものの、涼香の酌を受ける御猪口が緊張でカタカタ震え出す。
「あぁ、もう焦れってぇなぁ! 伊三次の野郎。ここへ来る途中、さんざ女のコツは指南してやったろ」
涼香達がいる部屋から壁一枚隔てた隠し部屋で、巳代松は舌打ちした。
その正面には小さな覗き穴が穿たれており、隣室の様子を伺う事が出来る。
向う側からこちらを見ても、床の間の掛け軸で穴は巧妙に隠されていて、気付かれる恐れはまず無い。
これは元々、地位ある者が廓を使う際、警護役をすぐ側で待機させる為の仕組みであったと言う。
凝った代物だが町民の客が増えた昨今、使う機会は激減し、半年前にさる雄藩の江戸留守居役が朝霧を指名した夜から先、宝の持ち腐れになっていた。
朝霧もそんな部屋の存在を半ば忘れていたのだが、巳代松から伊三次の話を聞き、例の「ありじごく」こと、細目の冷やかし野郎と知った途端、閃く物があった。
きっと伊三次は涼香に惚れている。
のっぴきならない状況を作り、その部屋で二人を引き合わせたなら、顛末を隠し部屋からこっそり見届ける事ができる。
月並みな遊びに飽き飽きの巳代松も朝霧の企みに乗った。
後は左之屋の番頭にうまい事を言って遊興費を引き出し、言い出しっぺの朝霧と費用を折半する形で、隠し部屋の借り賃にする。
そして、伊三次がやってくる当日の朝になってから、常盤屋の銀簪を涼香の小物入れから出して隠してしまい、彼女に紛失したと思わせれば良い。
「どれどれ、あたしにも見せておくれ」
巳代松の隣へ身を寄せ、にんまり笑った朝霧は拝借した常盤屋の銀簪を指先でクルリと回し、覗き穴へ目を近づけた。
「あらまぁ、あの人ったら、油のきれたカラクリみたい」
穴の向う側では、まだ強張ったままの伊三次が酒を飲もうとして、御猪口を床へ落としている。
咄嗟に畳を拭く涼香の肩口が、取り乱す男の肩に触れた。
ますます赤くなった伊三次の顔は湯気でも噴きそうな勢いだが、言葉の方は何一つ出ない。
「ほら、伊佐さん、だんまりはいけねぇや。なぁ、涼香を褒めな。言う事が無きゃ、ひとまず褒めンだよ、バカ!」
笑い話のネタにするつもりが、元来お人よしの巳代松は見ている内、伊三次へ同情してしまったらしい。
切なそうに身を揉む間夫の隣で、朝霧はクスクス笑い声を押し殺す。
笑いを堪えているのは涼香も同じだ。
しかめっ面で押し黙る男の指の震えに気付き、肩が触れあった時のうろたえぶりを目の当たりにして、彼女自身は一足先に平常心を取り戻していた。
このアリジゴク、見た目と違い、中身は繊細で優しい男らしい。
それに、持ち前の強い好奇心も涼香の中で疼きだしている。
「あの……主様」
「伊三次って呼んでくれ。その言い方、背中がむず痒くていけねぇ」
「なら、私も涼香と」
「おう」
言われたまま素直にこっくり頷く動作が妙に子供っぽく、三十路を過ぎた男のごつい体と不似合いで、涼香は吹き出しそうになった。
「伊三次さん、教えて。どうして毎晩のように、峯屋の前に立って、張見世を覗いていたの?」
率直過ぎる物言いに伊三次は又、御猪口を床へ落としそうになる。
「意中の女がいるのに、お金が無くて廓へ上れない人が冷やかしするって聞きました。伊三次さんもそうかしら」
「それは、その……」
「お目当ては私? それとも、朝霧姉さん?」
逃げ出したい衝動と伊三次は闘っていた。
例の如く涼香は正面から彼の顔を覗き、一瞬たりとも目を逸らしてくれないのである。
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