『知』と『智』
2005年8月10日
サークル棟がお盆休みということで20日まで閉鎖されることになり、一人暮らししているサークルメンバー達はそれぞれの実家に帰っていった。
(あー、退屈だなぁ。)
転移してきたとはいえ、アニメのような剣や魔法が存在し冒険の旅に出る訳でもなく、過去を変えて未来を救うというのも無い。そもそもラビリアンという人種も珍しいものでは無い。つまりは転移したとはいえただの日常の積み重ねになるわけだ。
ネット環境も整っているとは言えず、動画配信サイトもない。つまりは行き着くところ、お盆休みというのはただの暇の積み重ねになってしまうのである。
ブー、ブー、ブー。
携帯が震えた。メールだ。それにしてもいまだにガラケーには慣れない。メールを開こうとしてついつい画面にタッチしてしまう。
そんな自分に呆れて笑える。
メールを開くと絵文字や顔文字を織り交ぜながら読みにくい文字が並んでいた。
《花 '人' 彳テ ⊇ ぅ 》
懐かしいギャル文字ってやつだ。あの頃はサッと読めたのに今ではようやく解読出来るレベルだ。これが長文なら壊滅的だろう。
(花火かぁ。まぁ悪くないかもなぁ。)
もう何年も花火なんて見ていない。まぁ7年も引きこもっていたのだからそうなるだろう。
《了解!駅前に5時待ち合わせでいい?》
ブー、ブー、ブー
すぐに返事が来た。
《 ゃ っ ナニ ね! ぁ 丶) カゞ ー⊂ ぅ 》
ほんとにギャル文字には骨が折れるものだ。しかもこの文字を打つのにわずか数秒。この時代の若者は頭の回転がきっととても早いのだろう。既読機能が無いだけこちらにとってはありがたい。
15時20分、オレは少し早めに家を出た。人間関係はともかくとして、この世界のこの時代の文化なり流行なりを少しでも知りたくて本屋に足を運ぶことにした。
『10年以上昔の世界だもんね。私は本屋とかに行ってこの時代のこと勉強したよ!』
このあいだ紗奈ちゃんとご飯を食べに行った時にそう言っていたのをさっきのギャル文字を見て思い出した。
『逸脱してからまだ6年だし、知ってることのが多いかもね。』
紗奈ちゃんが言っていた通り、この2週間ちょっとで特に違和感を感じたことは無かった。新しい発見というよりも記憶を呼び戻している感覚がほとんどだ。本屋に行ってより詳しくこの世界のことを見てみれば違う発見があるのかもしれない。
本屋に来てまず手に取ったのは競馬の本だ。最初の日、『教授』が言っていたのを思い出したからだ。それに当時は好きだったから記憶に残っているというのもある。2005年といえば20年振りに無敗の三冠馬が出た年でもあるから鮮明に覚えていた。
恐る恐る2005年の前半を振り返るという特集ページを開いてみた。
《皐月賞、1948年以来60年振りの牝馬による制覇!!》
そこには記憶にない文字が並んでいた。知らない過去。これが『教授』の言っていたことなのだろう。この世界にとって無敗の三冠馬はまだ唯一無二らしい。
他にも、もともと興味があった本を手に取ってみた。似ているようでどこか違う。例えばアニメだ。同じアニメでもストーリーは同じなのに声優が違っている。記憶に無いだけで主題歌や監督も違うのかもしれない。
試しに1999年以前の記事が載っているものを手に取ってみる。こちらは完全に記憶と一致する。歴史からの逸脱を嫌でも感じる瞬間だった。
『私たちラビリアンが元いた世界の記憶を使って得しないように上手く出来てるよね。』
あの日の紗奈ちゃんの言葉を噛み締めた。そういえば紗奈ちゃんは友だちとメールする時はギャル文字なんだろうか?今度聞いてみよう。
16時半、少し早めに駅前に着いた。花火大会があるからだろう、人で溢れていた。
ブー、ブー、ブー
《ごめん、おくれる》
よほど時間が無かったのだろうか、ギャル文字に変換されないメールが届いた。
《了解、北口のロータリーにあるコンビニ前で待ってる》
そう送って、コンビニに移動した。
30分ほどたってさらに人は増える。色鮮やかな浴衣姿の人たち。こうやってたくさんの人を見ているとラビリアンということを忘れるようだ。きっとこの中にも何人かはラビリアンが混ざっていて、それでもそれぞれに普通の暮らしをしているんだろう。こんなふうにこのまま日常に溶け込んで人生を楽しむのも悪くないかもしれない。この世界では引きこもらないようにしよう、心の片隅で小さく誓った。
17時15分、約束の時間から15分が過ぎた。もともと待つことは嫌いではない。元の世界では連絡が来なければ花火が始まってもここで待っているだろう。ただこの世界では少し違う。ガラケーでは出来ることも限られている。秋を待たないと通信が定額にならないためむやみに招待制のSNSサイトで時間を潰すことも出来ない。つまるところ暇。
ブー、ブー、ブー
《 今から駅向かう》
ようやく返事が来た。暇つぶしにしていた人間観察ともお別れだ。
「ママはぶらっく、パパはほわいと。」
小さな男の子がキラキラした笑顔で両親に手を繋がれながら歩いていた。
「こうたは男の子なんだからあんまり言わないの。」
そうか、2005年ならあのアニメシリーズも始まっているのか。戦隊モノではなく変身少女モノを選ぶとは将来楽しみだ。しかし歴史から外れていてもまだまだオタクに人権はない、そう実感した瞬間でもあった。
「男の子だって変身出来るもん!ロボットだって変身するんだから!」
そして男の子は立ち止まると振り返ってキラッと笑って言った。
「だよね、お兄ちゃん!」
驚いた。男の子が変身するのかはよく知らないが2018年の作品において確かにアンドロイドが変身していた。この子はそれを知っている。つまりはこの子もラビリアンなのだ。そして間違いなくオレより先の未来から来ている。
いや、驚いたのはそこでは無い。オレがラビリアンだと知っている。たまたまという可能性も否定できなくはないがわざわざ振り返ってまでオレに話しかけたのだ。高い確率で知っていると判断したほうが自然だ。会話の中からラビリアンと気付いた近藤とは明らかに違う。
「またね、お兄ちゃん。」
思考がまとまる前に親子連れは人混みに消えていった。
その日の花火大会はほとんど集中出来なかった。