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あてのない旅路

作者: 樹亜希

少し不思議な物語です。

 この駅の匂いが嫌いだ。

 油のすえたようなにおいに混じる人の靴の、汗の、弁当などの、もしくはゴミ箱とトイレの臭いが絶妙に混ぜられてとても不快である。駅員の方はもう慣れてしまっているのだろうが、洋服にもついていると鼻が良い母にいつも上着をスプレーされてしまう。 

 誰もが普通の顔をして通り過ぎる駅の中で、マスクが当たり前になる前、そう、ずっと前から、私はこの臭いが嫌で夏でもマスクをしていた。だから、指定券を取っていようがグリーン車に乗ろうが、時間の少し前まで駅のホームには近寄らないようにしている。人身事故の巻き添えにはなりたくないし、早く乗ろうが遅かろうが、実際に乗れば何でもいいのだから。

 どのみち、発車時刻がわかっている列車にしか乗らない。普段の外出には車、スクーターを使うからだ。今回は違う。帰ることができればいいが、帰宅する保証はない。

 私は緑川しずく、三十歳を前にしてふと、どこか遠くへ行くことを思いついてしまった。仕事にも燃えていた時代からは大きく自分のモチベーションが下がってやる気をとうのまえに無くしていた。無断欠勤? そんなもの怖くはない。辞めさせられるのも怖くはない。

 プライベートでは長く付き合った、大学時代からの彼氏が長引く感染症のためにノイローゼになってしまい付き合いは終わった。

 なぜ? そんなこと知らない。わかりたくもない。凌平、会えない時間を持った私が悪いとでも言いたげだったよね。でも、この時期にあなたと私は夫婦ではないのでお互いに家族とともに暮らす以上、感染していたらと思うと、距離を置いたのを理解してくれたはず。

 ほかの女に目移りしたことなど、別に気にしていない。私はそんなに心の狭い女ではない。


 ホームに新幹線が入ってきた。

 奮発して、グリーン車に乗り込む。私はこの先会社も凌平のこともそうだがもうどうでもよくなった。一度きりの人生をこんなことで、自分を抑え込んで生きるのはもうごめんだ。自粛や我慢などもうどうでもいい。自由になりたくてこの旅へ出ることにした、行く先を決めてはいない。

 京都駅のタワーを見るのもこれで最後かもしれない。一応パスポートも持ってきた。車窓の向こう、階段のあたりに凌平の姿が見えたような気がした。

 

 もちろん、気のせいだ。彼がここに来るはずなどない。




 新幹線が走り出した。

 私は少し眠気を感じた、だがここで寝てしまうわけにはいかない。

 どこの駅で降りるかは決めていないから、うるさい雑音から解放されて社内は静かだ。メイクなどもしていない、素顔で十分。眼鏡にマスクをすると顔など誰も見ていない。

 向かいに座っている男性の視線が気になる。遠くの向かい、三列ほど先に座る四十歳前後のおじさんは嫌な顔をしてこちらを見ている。私はきちんとマスクもしているし、咳などしていない。なぜにらまれる必要があるのだろうか。

  

 新大阪の手前でトイレに行く途中でそのおじさんが何かを食べ始めた。

 また嫌なにおいが私を襲う。

 どうせ、ここでまたたくさんの乗客が乗り込んできた。降りてしまおう。

「おい、お前。臭いんだよ。おまけに睨んでんじゃないぞ。次見たら〆るからな」

 私は小さなバッグを持って降りるときにそのおじさんにだけ聞こえるように、早口で言って新大阪で降りた。

 私は後ろを振り返ったりしない。紙袋には気が付かないふりをして降りた。もともと私は紙袋など持っていなかったかもしれないし、残すつもりで持ち込んだのかもしれない。

 京都駅でも、一つのバッグを置き去りにした。

 新大阪でも凌平の後ろ姿を見たような気がした。とてもたくさんの人が交錯している。まるでスクランブル交差点のようだ。新大阪、ここは人種のるつぼであると同時に日本では第二の都市だと言える。

 人の大阪は京都の比じゃない。

 ここはどこだろう、新大阪の新幹線コンコースを出ると私はまた一つ、荷物を置いた。これで何個目だろうか。小さい紺色のバッグをゴミ箱の横にそっと置いて遠くを見るような顔をすると、あてもなくエスカレーターに乗った。

 

 荷物がまた一個減った。

 このまま歩いていくと岡山方面に行くのかもしれない。


 凌平が手招きしているのが見えたような気がした。私はどうかしてしまったのかもしれない。

「しずく……。一緒に岡山へ行くはずだったよな」

 世界が感染症で覆いつくされる前に、広島へ行った。その思い出が私にそんな幻影を見せるのかもしれない。

 海外へ一緒に行くことはなかった。だが、岩手、長野、広島と旅をした。

 そのたびに、駅の前で撮った二人の写真が今もスマホに入っている。次は北海道に行くために話をしていたが、感染が広がり、岡山あたりなら行けるかなと話していたところで、もうすでに凌平の顔を見ていなかった。


 お互いに会いたくないはずはない。彼がもともとメンタルが弱かったことも知っていた。在宅ワークになってしまい、ますます会えないし、外食も、デートもしてないのは私のせいではない。

「なんで、わかってくれないの?」

 こうして外で会うこともしんどいはずなのに。

 親に内緒で借りた、ウイークリーマンションで過ごした夜についに口論となった。


「このマンションの家賃だって、私が払ったし、決めたのも私じゃないあなたが会いたいっていうから。ラブホが不衛生だというから……」

「じゃあ、僕も半分出せばいいのか?」

 はあ? 

 私はしかめた顔をする凌平の態度にイラっとしてしまい、後ろからスティッククリーナーで頭を殴りつけた。あまり血が出ることはなかった。何度も何度も頭を殴り続けた。

 本当に怖い病気だと思った、その時は。

 好きだった、愛している。将来結婚するだろうと思っていた相手を、ここまでも残虐に、しかし確実に息を止めるまで殴りつけるほどのストレスを人間に植え付ける感染症。



 それぞれの駅に、置いたのは凌平の一部。

 腕だったり、足先だったりをおいた。顔を胴体から引き離すのは少し勇気が足りなかった。マンションの浴室に置いてきた。

 少しでも最後の旅に一緒に居たかった。一緒に行きたかったよねという思いを抱いて私は旅に出た。ほんの少しでも、一緒にここまでこられてよかった。この先、私は、一人で岡山に行くのだろう。そしてどこかローカルな駅のどこかで電車に身を投げるつもりだ。

 そうか、川に身を投げてもいいかもしれない。



「凌平、もう少しだけ待っていて。あと少しだけ。すぐにそばに行くからね」

 トイレの前で、いつものように私のカバンを待ってくれる彼が見えた。彼ははにかんだ笑顔をしていた。


                                    了




怖かったですか?

次はもう少し怖い物語がいいでしょうか。

それとも甘いお話がいいでしょうか。

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― 新着の感想 ―
[一言] 私には、切なさを感じるお話しでした。
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