芥川龍之介『MENSURA ZOILI』
感慨が湧くと言うと噓になる。たかが数頁の本作には,冒険もなければ恋愛もない,喜劇でもなければ悲劇でもない,思想も哲学もあるのか無いのか,筋というのも掴み難かったから自然そこまで印象に残っていなかった。
しかし『MENSURA ZOILI』は芥川龍之介作品に於いて名は知られていないが、確かに重要な発見のある作品である。
芥川の生きた1920年代というのはサイレント映画の黄金期であり,日本での撮影は勿論,ハリウッドやドイツ,フランスの映画の輸入も活発に行われていた。芥川や谷崎といった文壇も活動写真についてはよく言及している。
芥川の『鼻』が発表されたのは1916年であるが,その頃には絵画は印象派から表現主義へと装いを変え、ダダイズムがヨーロッパの各地で潮流を迎える。ピカソのキュビズムもこの時期に生まれた。この絵画におけるキュビズムが、本作の身体の断片的な描写に影響を齎した可能性は十分にある。また,1883年にはイタリアにてカルロ・コッローディの『ピノッキオの冒険』が刊行されている。誰もが知っているピノキオの,嘘を付いたら鼻が伸びるという描写も『鼻』への影響が無いとは断言できない。しかしこうしてみると,スウィフト,ヴォルテール,ルイス・キャロル,カルロ・コッローディなど実に多くの冒険譚が近世には生まれており,これは確実に大航海時代の影響と取ることができる。
では,日本の近世はどうであったか。鎖国体制が敷かれ,ペリーが来るまではオランダ船しかヨーロッパから渡航は許可されず,ある種ヨーロッパ諸国に於いてはマルコ・ポーロの『東方見聞録』にある黄金の島,ジパング的な羨望があったはずだ。だからこそ,近代にはフランスでジャポニズムが生まれ,リュミエール兄弟が記録した『明治の日本』が数多くフィルムに残っているのである。そんな中,芥川の『河童』が生まれるのである。これはどう考えても大航海を経験していない日本で生まれる冒険譚ではない。そこには明らかな海外文学の輸入が現れているのである。
さて,20年代には映画に於けるダダイズムがフランス,ドイツを中心に広まる。また音楽に於いても全く理論にそぐわない不協和音的なダダイズムが生まれだした。では,文学に於けるダダイズムとは何に当たるのか。それはもしかすると芥川の『MENSURA ZOILI』にあるのかもしれない。彼の描く夢の描写というのが,理性を廃した芸術活動,ダダイズムをどうにか文学に於いて表現しようと模索した結果であるのかもしれぬ。