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飯島京介の無計画的犯行

作者: 星野区

 ゆりかごのような振動を発する電車は、眠れと言わんばかりに乗客を夢の中へと誘い続ける。

 まんまと罠に嵌まった乗客はひとり、うとうとと舟をこいでいた。まどろみの心地よさに身を委ねていたところに、はっと目の覚める音を聞いた。

 ホームに電車が止まる。それと共に鳴るドアの開閉音。飯島京介は堪えきれずあくびをした。乗客は自分以外に誰もいないと分かっていても、大きく開く口を手で覆う。

 乗客が自分以外に誰もいないのは偶然ではなく、必然だった。飯島は始発、しかも下りの列車に乗っていた。人のいない時間帯を狙ったのだ。

 瞼を擦り、ドアの向こうにあるホームの柱を目視する。――まだまだ、目的の駅には着かない。

 飯島はうたたねによってずれた体勢を直し、デイパックを強く抱いた。デイパックはそれほど荷物をため込んでいないのか、大きなへこみを作る。

 早く着かないだろうかと考える飯島の胸中は、期待に満ちた心持ちではなかった。さっさと用を済ませたい。この時は、ただそれだけを思っていた。

 ひとりだけの乗客を乗せた車両は、再び線路を走り始める。目的の駅までまだ時間があるとはいえ、飯島は眠ろうという気にはならなかった。計画が崩れてはいけないという精神が、意識を現実に引き留める。

 とはいえ、大きなゆりかごは眠るまいとする飯島の意識を夢の中へと引きずり込もうとする。否が応でも眠くなる。

 ここ最近、飯島は徹夜続きだった。何日も眠らないことが取り柄と自負していたが、さすがに限界だった。


 ここから先、飯島京介にとって夢のような出来事が起きる。

 これは夢だと判断しかけたのは、何しろありえない光景が目の前に広がるからだ。


 徐々に電車のスピードが落ちていく。

 また、ドアの開閉音で目が覚めるのだろうか。そんなことを考えていた飯島は、ふとドアの方に目を遣った。

 信じられないものを見たかのような目つきで、飯島は思考を停止した。停止せざるをえなかった。

 最初に目に飛び込んだのは、赤いヒール。次に、白いソックス。ピンク色のチェック柄のスカート。……いや、スカートではない。ワンピースだ。幼い手が、背後の太陽光に白く反射する。胸まで伸びた艶やかな髪。

 これ以上、目を上に向けることは、飯島にとって恐怖だった。

 大袈裟とも言えるような動きで、飯島は視線を横に向ける。

 ありえない。――飯島にとっては、これ以上の言葉が思い浮かばなかった。

 ホームから乗り込んでくる足。足は、一人分ではない。二人分の足がホームと電車の隙間を跨いできた。

 二人は談笑しながら電車に乗り込んでくる。

 飯島より少し離れた向かいのシートに、彼女たちは着席した。

 今一度、飯島は、ゆっくりと視線を彼女たちに向ける。確認するために。

 ああ、やっぱりそうだ。いやしかし、ありえない。

 あいつは俺が殺した筈だ。



 殺した。

 飯島は口に手をあてた。あくびをしたからではない。ありえない光景に、嗚咽を漏らしそうになった。

 こんな光景は悪夢としか言いようがない。

 飯島は何度も目をこすり、目を覚まそうと努力し、彼女たちの方へ視線を巡らせ、またそっぽを向くのを繰り返した。はたから見れば挙動不審とも取れる動きだったが、飯島と彼女たち二人の他に乗客の姿はなく、また彼女たちは飯島のことに気付いていない様子だった。

 ぎゅっとデイパックを抱きしめる。

 落ち着け。

 落ち着け。

 これは夢の筈だ。

 飯島は、デイパックを抱きしめる左腕を、そっとつねってみた。痛い。

 これは、現実なのか?

 少女と女性の上品な笑い声が聞こえてくる。

 何度目かの電車のドアの開閉音が聞こえた気がする。

 飯島は、一刻も早くこの電車から降りたい衝動に駆られた。計画のことなどはすっかり頭から抜け落ちていた。あの親子から離れたい。

 親子? そうだ、親子だ。あの二人は親子なのだ。俺はこの手で――

 何度もその言葉を反芻していると、一組の親子はシートから立ち上がった。飯島は向かいの窓に目を向けた。電車がゆっくりとスピードを落としていく。駅のホームが目に飛び込んでくる。

 あの親子は、この駅で降りるのだろうか。

 飯島は逡巡した後、自分もこの駅で降りることを決意した。あたかもこの駅で降りる予定だったかのように。

 彼女たちから一つ離れたドアの前に立つ。

 電車が止まる。

 ドアの開閉音。

 飯島と親子は同時にホームに降り立った。

 飯島はきょろきょろと辺りを見回す。階段を探すふりをして、彼女たちの死角になる場所を探していた。

 自分たちを乗せた電車を見送った後、親子二人は一言二言、言葉を交わした。すると、後方車両の方へと歩いて行く。

 飯島は、この時点で確信を深めていた。と同時に、柱に身を潜めた。



 母親は笑っていた。

 ぐるぐると、はしゃぎながら母親の周りを回る。危ないわよと、母親の声が耳に届く。電車が走ってくる音も聞こえる。

 点字ブロックの内側へと足を止め、母親をぎゅっと抱きしめる。母親の顔は見えない。見たくない。

「お母さん」

 母親も抱き返そうと、そっと手を伸ばしてくる。その手から逃れるように、

「さよなら」

――母親を線路の向こうへと突き飛ばした。



 心臓が早鐘を打つ。気付けば俺は走っていた。

 どこへ行こう? どこへ行けばいい? ……ここからのプランは練っていなかった。何しろ母親を突き飛ばしたのも、あの時思いついたものだったから。

 階段を一つ飛ばしで登りきり、改札を抜けようとした。

 いや、待て。その前に。

 俺は改札とは逆方向に走り、トイレを探した。あった。

 どちらに入るか、少し迷ったが、男子トイレの中に入った。

 個室に入るなり、長髪のウィッグを投げ捨てた。次に、ネックレスを引きちぎった。母親が誕生日のプレゼントにとくれたネックレス。

 ワンピースを脱ごうとして、もたついた。これも母親が勝手に買ってきた。水玉模様かチェック柄か迷って、結局両方買っちゃったのよと笑った母親の顔が脳裏に浮かぶ。

 ソックスを脱ごうとして、その前に赤いヒールを脱がなければいけないことに気付いた。母親の唇と同じ色のヒール。

 感情のままに全てを脱ぎ捨てた直後、コンコンと個室のドアをノックする音が不意に背後から聞こえた。ギクリとして飛び上がりそうになった。個室を使いたいのか? いや、他にも空いている個室はあった。俺に用が? まさか、さっきの犯行を見られていた?

 ノックの音にパニックになっていると、ドアの向こうから声をかけられた。

「……飯島京介、だね?」

 男の声だ。ああやっぱり、俺の犯行はバレていたんだ、捕まってしまう。ここまでか。絶望感に打ちひしがれていると、どさっと何かが落ちる音が聞こえた。袋が落ちるような音。

 さらに続けて声が聞こえた。

「今、ドアの前に鞄を置いたから。それを使っていい。この鞄の中に、登山用の靴と服が入っている。とりあえずそれを着ていればなんとかなるだろうから……」

――ドアの向こうの男は何を言っている?

 困惑していると、男は焦り気味に言った。

「俺は隣の個室に入っておく。その間に着替えるんだ。そっちの服はなんとかするから。誰かがここに来る前に、早く!」

 俺は慌てていて、男の声に従うしかなかった。



――この場合、犯罪の片棒を担いだ、という言葉は正しい使い方なのだろうか。

 鞄を漁る音を、少女――いや、少年の隣の個室で聞いていた。バタバタと走り去っていく音を最後に、しんとトイレの中に静寂が訪れる。

 飯島は個室から出て、先ほど少年が入っていた個室のドアを開けた。ピンクのチェック柄のワンピース。赤いヒール。髪の毛の塊……ウィッグか。

 飯島はほんの少しの懐かしさと吐き気を覚えた。あとは服やら何やらをデイパックに詰めて、自分がこの駅から持ち去ればいい。


 飯島京介は、母親から「京ちゃん」と呼ばれていた。その名を嫌って、飯島はその昔、「京ちゃん」を殺したのだ。この駅で。

 母は美人だった。しかし、父はそんな母を捨てた。ある日、不倫相手の元へ消え去った。

 そんな折、母は飯島京介を女の子として扱うようになった。「あんたはあの男とは全然似てないんだから」などと言いながら、女物の服やアクセサリーを着せられるようになった。

 最初は家の中でだけだったが、次第に外へ出かける時も。

 化粧を覚えるよう強制させられた。

 町中を歩いていて、同級生に見つかった時があった。……あとのことは思い出したくない。

 そうして、母を手にかけ、「京ちゃん」を殺した。

 飯島京介として生きるために。


 ワンピースをデイパックに詰めようとして、はたと気づいた。

 自殺をするために持ってきたロープがデイパックの中に入っていない。

 ……あの小僧、ロープまで持って行ったのか。いや、この場合、昔の自分か。

「計画が台無しだ……」

 観念したように、飯島京介は独り言ちた。

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