第八話 二〇四号室住人兼管理人代理、相上織江
菜豊荘は築六十年余りの二階建てで、一階に五部屋と二階に五部屋の計十部屋の小じんまりとしたアパートである。周りに菜の花畑が広がっていたことからこの名が付けられた。
耐震化とリフォームを行ってからも十年近くが経過しているため、あちこちに汚れや塗装のひび割れが見え始めているという、よく言えば昭和の情緒を残した風情あふれる、悪く言えばぶっちゃけボロい、そんな建物であった。
そして名前の由来となった菜の花畑は今では造成されて住宅地となってしまっていた。
「えっと改めまして、私は相上織江と言います。住んでいるのは二〇四号室だから鈴木さんの入る一〇三号室の斜め上ということになりますね。一応、代理で管理人を務めていますので、何か分からないことがあったら遠慮せずにおっしゃって下さい」
「役場から連絡があったようだが俺が鈴木弥勒だ。どの程度の期間になるかは分からないが、よろしく頼む」
「はい。特に入居希望者がいる訳でもありませんから、ゆっくりしていって下さいね。それで鈴木さん、とお呼びした方がよろしいですか?それとも弥勒さん?」
「間違えずに呼ぶのならば、どちらでも構わん」
せっかく考えた名前を間違えられて、弥勒は少々ご立腹のようだ。
「あはは……。それじゃあ弥勒さんで。私の方も〈相上さん〉でも〈織江ちゃん〉でも〈イロハ様〉でも好きな呼び方をしてくれれば結構ですから」
「??前の二つは分かるが、最後のイロハと言うのはなんだ?」
「それは秘密です。どうしても知りたいのなら他の住人の方々に聞いてみて下さい」
名前と全く関係が見出せない言葉の羅列に困惑する弥勒とは裏腹に、織江は茶目っ気たっぷりの笑顔を浮かべたのだった。
『変な人間っすね。あんまり関わり合いにならない方がいいと思うっす』
「せっかく同じアパートに住んでいるんですから仲良くしましょうね」
いきなり割り込んできた彼女の声に弥勒は驚きの表情が隠せない。その言葉は何と念話でのジョニーの忠告に頷こうとした瞬間にかけられたのだった。
「いつまでもここで長話をしている訳にはいきませんね。弥勒さんの部屋にご案内します。と言っても直ぐそこなんですけれどね」
その言動を問い質そうというこちらの動きをするりとかわして、織江は振り返り手近にあったドアへと向かった。着ていたエプロンのポケットから鍵を取り出す。
「管理人代理ということで普段は私がマスターキーを預かっています。もしも鍵をなくしてしまったら、私に連絡して下さいね」
と、銀色に輝く鍵を軽く振りながら言った。
「よく知らない人間がいつでも入って来られるというのは、気分のいいものではないな」
「そこは防犯の観点から必要な措置なので諦めて下さい。どうしてもダメ、ということなら役場と交渉して別の住居を確保してもらうより他はないですね。でもアパートやマンションならまず間違いなく、管理者がマスターキーを持っているはずです」
どうしますか?と瞳で尋ねてくる管理人代理。対立するような言動にどう反応するのかを見るのが目的――つまり様子見である――だったので、弥勒はあっさりと両手を上げて降参の意を示した。
「ご理解頂けて何よりです。とりあえず二、三日住んでみて下さい。こう見えて案外いい所ですよ」
にっこりと笑うと織江は弥勒を部屋の中へと促した。玄関からクランク状の廊下を抜けると――正面にはトイレに洗面・浴室があり、入口から居住空間が見えない仕様となっていた――ダイニングキッチンとなっていた。
「ここが一つ目の部屋です……って、弥勒さん!どうして靴を履いてきているんですか!ここは土足厳禁です!早く玄関で脱いできて下さい!」
「す、すまない」
織江の剣幕に一言謝ると急いで玄関へと取って返して靴を脱ぐ。すると魔法で変化させていた革靴が怪しげなものへと変わってしまった。弥勒が身につけている間だけ効果が現れるようにしていたためで、それに改めて幻覚の魔法をかけて既成品の革靴へとカムフラージュしておく。
「もしかして海外生活が長かったんですか?ニポンの住居は基本的に土足厳禁ですから気を付けて下さいね」
ダイニングへと戻る弥勒に失敗の原因を予想した織江から注意が飛んだ。当たらずしも遠からずといったところなので一つ頷くことで了承の意を示す。
「奥にあるもう一つの部屋にベッドが置いてあります。お布団も含めて私が定期的に掃除していたので大丈夫だとは思いますけど、気に入らなければご自分で購入して下さいね」
『おかしいっす。都会ならともかく、この辺りだと家具は自分で用意するのが普通っす』
というジョニーの疑問を伝えてみる。
「ああ、実はこの部屋つい最近住んでいた人が亡くなったんです。とは言っても殺人だとか自殺とかじゃなくて、普通に老衰です。九十歳の大往生でした。それでですね、細かい私物は処分したんですけど、家具なんかはそのまま使って構わないということなので、そのままにしてあったんです。もちろんベッド同様自分で買い替えてもらっても結構ですよ」
ということだったのだが、織江はその説明をジョニーのことを見つめたまま――入り口前の一件で飛び立つ機会を失ったために、ずっと肩に乗っていたのである――していたので、ジョニーはすっかり怯えてしまっていた。
「こいつが珍しいのは分かるが、ちゃんとこちらを向いて説明して欲しいものだな」
有能――かどうかはともかく――な僕を怯えさせたままでは元魔王の沽券に関わる。弥勒は語気を強くして言った。
「あら、ごめんなさい。この子があんまり可愛かったものだから、つい熱い視線を送っちゃいました」
しかし織江には効果がなく、先ほど同様の茶目っ気ある笑顔を見せたのだった。彼女には念話での会話が筒抜けになっていると思って行動した方が良さそうだ。一先ずそう結論付けると、念話機能をシャットアウトしておくことにした。その間にも織江の説明は続いていく。
「電気、ガス、水道は問題なく使えます。あ、冷蔵庫は電源を抜いていたので、念のため使うのは明日からにして下さいね。んー、とりあえずはそんな所かな。何か分からないことはありますか?」
「何が分からないのかが分からない、というのが本当の所だな」
「ふふふ。確かにそうですね。それじゃあ私の端末の番号をお教えしておきますので、分からないことが出てきたら連絡して下さい」
そう言って手近にあった紙に十数桁の番号を書き出した。その桁数が克也の記したのと同じであったことから、弥勒は携帯端末という道具を使用するためのものだと検討を付けていた。そして早急にあの道具を手に入れて、使いこなす必要があると感じていたのだった。
「あ、そうそう。一つ言い忘れていたことがありました」
わざわざ言葉を切り、弥勒とジョニーの一人と一羽を見据える。
「実は隣の一〇四号室にはお化けが住んでいるんです。でも、いい人ですから仲良くしてあげて下さいね」
とんでもない爆弾発言をすると、織江は今度も茶目っ気ある笑顔を浮かべたまま部屋から出て行くのだった。
織江さん怪し過ぎますね。そして隣の部屋のお化けとは一体!?
実は菜豊荘とその住人達は別の作品の使い回し……もとい、再登場になります。とは言っても、未完結・未発表の作品なので実質初登場ですけどね。
そちらの作品も今後何らかの形で発表できればと思っています。
――本日の宿題――
作中でも出てきましたが、なぜ「織江」が「イロハ」なのか時間があれば考えてみてください。ちょっとした言葉遊びになります。
追記:インザスカイに登場したイロハとは別者になります。
時間と興味があったらそちらもよろしく(宣伝)。