第七十話 出立の日
金曜日の朝、弥勒はいつもより念入りに部屋の確認をしていた。
「水道良し、コンロにガスの元栓も良し」
『奥の部屋の窓も鍵をかけたっす』
「うむ。後は玄関の戸締りをきちんとしておけば大丈夫だな」
なぜなら今日は通訳のアルバイトを終えたその足で〈森の館〉へ行き、異世界へのゲートを開いて針生の世界に向かうからである。
考えてみれば菜豊荘に住むようになってから始めて数日家を開けることになるのだった。
一通りの確認を終えて、鍵を持って外に出る。冬の空気は冷たく澄んでいたが、風がないので日差しの下ではほんのりと温かい。
「あ、弥勒さん今からお出かけですか?」
出発の準備を終えた所で二階から降りてきたイロハと遭遇した。
「ああ。悪いが留守の間はよろしく頼む」
「分かりました。えっと、もしも月曜日の朝になっても帰って来ていなかったら、役場に連絡を入れればいいんですよね?」
「そうだ。風邪をひいたとでも言っておいてくれ」
日曜の夜には帰って来るつもりではあるが、万が一ということもあり得る。保険として伝言の約束だけは取り付けておいたのだった。
「はい。それじゃあ気を付けて行ってきて下さいね。お土産話を期待しています」
詳しい話はしていないがなにかしら感じ取ったのだろう、イロハは笑顔を浮かべていた。
幽霊である義則に、それが見える将たち三人、そしてイロハやリィたちといったと規格外やそれに準ずる者たちの巣窟である菜豊荘に住むことになったのは、特異点たる性質故なのだろうか。
最近は智由も何かに目覚めそうになっているようであるし。そんなことをつらつらと考えながら、弥勒は青龍号のペダルを踏むのだった。
何事もなく仕事を終えると、駐輪場に集まっていたジョニー信者たちに――急用があると告げて――丁重にお帰り頂く。
なにやら騒いでいる自称動物愛護者がいたようだが、顔見知りの御年配方に詰め寄られて小さくなっていたので、放置しておく。こちらの世界に来て随分とスルースキルが鍛えられている気がしないでもないが、あって困るものでもないので良しとしておこう。
場合によっては数日間置きっぱなしになる可能性もあるので、店の前ではなく裏口から入った所に青龍号を停めさせてもらう。この後ジョニーはフミカに預かってもらい、代わりに偽装少女を引き取る段取りとなっている。
現状一番の戦力のはずなのだが、どうにもあの姿のせいで近所のガキンチョにしか思えない弥勒なのだった。
表に回り込んでクローズの看板がかけられた店の入り口の方から中へと入る。こちらの内心に呼応したのかドアベルの音も今日ははずんでいるように聞こえる。
「ああ!弥勒さん、ようこそいらっしゃいました」
針生も今日ばかりは落ち着いてはいられないようだ。変装の魔法が一定せずに百面相――というか百人の顔――のようになってしまっている。
それでもお冷とおしぼりを出してコーヒーを入れる準備を始めている辺りは流石というべきか。喫茶店のマスターが板に着くどころか、高級かまぼこにも負けない勢いである。
ヒトミも既にやってきていたらしく、カウンター近くのテーブル席でクリームソーダのアイスをご機嫌でパクついている。その前に並べられているのは小さな旗であろうか?
「あれはお子様ランチに刺さっている旗ですよ。先輩はあれを集めるのが趣味なんですよ」
お子様ランチについては情報だけは知っている。チキンライスまたはオムライスをメインにハンバーグに海老フライといった子どもが好む品を一皿に並べた夢の食べ物だという。
プリンやゼリー、店や季節によってはアイスがデザートに付くという豪華さで、究極であり至高の食べ物だと菜豊塾の誰かが言っていた。
そしてそこには必ず旗が飾られていて、子どもたちのコレクター心をくすぐっている。未だ見ぬ旗を求めて小学生になってもお子様ランチを注文し続けるつわものもいるのだそうだ。
弥勒は成人してから数百年が経っているので、残念ながら注文することができないのではあるが。
弥勒がお子様ランチについて色々と妄想している横では、「可愛いですよね」と不用意な発言をしたフミカがヒトミに睨まれてしゅんとしていた。
はやる気持ちを抑えるために針生が入れてくれたコーヒーを口に運ぶ。苦い。ミルクと砂糖を入れ忘れてしまっていた。
どうやら自分で思っている以上に気が急いてしまっていたらしい。苦笑いをした後で大きく深呼吸する。改めて苦いままのコーヒーを飲み干して立ち上がった。
「さてフミカよ、ジョニーのことを頼む。言うことをきかないようであれば飯抜きにしても構わないからな。それと大丈夫だとは思うが、向こうの連中が手を出してきたら菜豊荘の者たちを俺の部屋へと避難させてくれ」
「分かりました。こちらのことは私が責任を持って引き受けますから、安心して下さい。それよりも異世界なので管理者の力が使えないことも考えられますから、先輩も弥勒さんも十分に用心して下さいね」
「はいはい。気を付けるからそんなに心配しないでも大丈夫よ」
ヒトミは軽くそう言っていたが、お子様ランチの旗を片付けながらだったのでフミカは余計に心配になるのであった。
「針生、玄人と艮の二人はもう部屋から上がって来ているのか?」
「はい。多分奥の部屋で私たちを待っていると思います」
「そうか。それでは行くとするか」
『気を付けて行ってらっしゃいっす』
クッキーを啄ばみながらおざなりな挨拶をする真ん丸雀を見て、帰ってきたら必ずダイエットと称してしごいてやろうと決意する弥勒だった。
針生を先頭に店の奥へと向かうと、中継地点への扉がある部屋で玄人と艮が立っていた。「待たせてしまったか?」と尋ねると二人は横に首を振っていたが、朝方からこの部屋にいたのではないかという気がした。
「ゲート自体は今から三つとも開いて固定しておくが、勝手に通ったりしないように。しかし、もし月曜になっても俺たちが帰って来なければ、その時は各自の判断でゲートを使用してくれ。まあ、そうならない様に立ち回るつもりではいるが、何事も絶対ということはないからな」
扉を開き中継地点へと入る。
「それではゲートを開くから、針生たちはこちらに来てくれ」
扉の向かいにある壁沿いに三人を立たせる。彼らを基にそれぞれの世界のありかを探していくのだ。
まずは玄人のいた世界が見つかる。すかさずゲートを開き、固定する。同時に異世界の怪物がゲートを通って現れた、などという事態を防ぐために通過できる者として玄人と弥勒、ヒトミの三人だけを指定する。
次に艮の世界を発見、同様の手順を繰り返す。
更に少し時間がかかったものの、針生の世界も見つかった。ここでもまた同じくゲートの開門と固定、通行者の指定を施す。
「これでいい。それでは俺たちは針生の世界へと行ってくる。二人とも故郷に帰りたいという気持ちは分かるが、くれぐれも軽はずみな行動はしないようにしてくれよ」
順番については納得していたものの、ゲートの現物を前にすると決意が揺らいでしまうかもしれない。そう思い一応釘をさすと、玄人も艮も神妙な顔で頷いていた。その様子に針生は少し申し訳なさそうな顔をした後で、
「二人とも行ってきます。留守は頼みますね」
と言ってゲートをくぐって行くのだった。
いざ異世界へ!という所で続きます。
次回更新は2月2日のお昼12時です。