第五十六話 戦いの始まり
その日の夜、そろそろ日付が変わろうかという時間に弥勒は外に出かける準備をしていた。
『久しぶりに魔法の訓練っすか?』
祭りの日、つまりは新しい管理者に出会ってから弥勒は夜間の魔法の練習を中止していた。別にサボっていた訳ではなく、彼女に対抗するための方法を模索していたのである。まあ、やっていたことの大半はバトル系の漫画を読むことだったのだが。
『少し散歩に行くだけだから付いてこなくもていいぞ』
『そうっすか?それじゃあ留守番しているっす』
十月も半ば近くになっているので夜はすっかり冷え込むようになっていた。そのためか返事をしたジョニーの声もどことなくホッとした感がある。いや、確実に安堵していた。嬉しそうに毛布の中に潜り込んでいる。帰ってきたら冷たくなった手を押し当ててやろうと決意する弥勒であった。
外に出ると、中天には大きな月が浮かんでいた。そして近くに木には空とは正反対の名を持つ梟が停まっていた。
「ムゲツか。心配するな。少し話をしてくるだけだ」
僕以上に察しの良い梟にそう告げると、いってらっしゃいませと言わんばかりに深く頭を下げた。その姿を見て、僕にする相手を間違えたかしらとつい思ってしまう。ムゲツに見送られて歩き始める。
魔法で飛んで行ってもいいのだが、約束の時間にはまだ少し時間がある。恐らくは先に着いているであろう相手を焦らしてやるのもまた一興だ。
そんなことを考えながら夜道を歩く。今夜は普通の人間であっても不自由しない程度に月の光で照らされている。魔族である弥勒にとっては曇天の昼間とさして変わりがない。歩みを進めるにつれて目的地である神社の木々が大きくなってくるのもしっかり見えていた。
「遅かったわね。来ないのかと思ったわ」
「そちらが勝手に早く着いたのだろう。約束の時間にはなっていないはずだ」
境内に入ると、今日一日の間に何度も見た顔が待ち構えていた。
「そこはそれ、待ち合わせには男の方が先に着いているものよ」
「悪いが、少女漫画にまでは手が出せていないのでな。そんなお約束的なことは知らんよ」
「あらあら、折角色々なお話ができると思って楽しみにしていたのに。まあいいわ。場所を移しましょうか」
女がパチンと指を鳴らすと、二人の姿はかき消えたのだった。
そして数日後、二人は同じ場所で再び相見えていた。異なっているのは昼日向であることくらいか。
そして本来の主であるヒトミは、現在お城山で行われているはずの祭りに参加していて不在である。その掌では真ん丸雀がコロコロと転がされている――感触が気に入ったらしい。ちなみにやり過ぎるとジョニーが酔う――ことだろう。耳を澄ましてみると、獅子舞の鐘の音が聞こえていた。
「辞世の句は読んできたのかしら?」
「生憎とそんな風流な慣習とは無縁でな。それにどうせ俺が勝つのだから必要あるまい」
「チッ!相変わらず口だけは達者ね!」
そう言うと、女は忌々しそうに睨みつける。
「そう思いたいなら思っておくといい。どうせこの後すぐに分かることだ」
その敵意どころか殺意すらこもった視線に曝されてなお、弥勒は泰然としていた。
「それよりも、本当に管理者の力を賭けるつもりなのか?」
「愚問ね。確かにあなた程度の命では釣り合うものではないけれど、一度交わした約束を違えるつもりはないわよ」
あの日、深夜のこの場所で対戦の日付とお互いが賭けるものを決めていた。弥勒がその身、その命を賭けたのに対して、女は何のつもりか管理者しての権限を賭けると言ったのである。
「それならば構わないのだがな。いざ負けた後で駄々をこねる様な真似はするなよ」
「それは挑発のつもりなのかしら?」
「いや、本心からそう思っているだけだ」
「お前の不遜な態度もこれまでよ。管理者とそれ以外の者の決定的な差を知るがいいわ。そして後悔の内にその命を差し出すことになるのよ」
その様を思い浮かべたのだろう、恍惚とした表情を浮かべる女を前にしても、弥勒の態度は変わらなかった。
「妄想に耽るのはその位にしてもらおうか。さっさと終わらせて祭りを見に行きたいからな」
「風情の分からない男ね……。でもお前の顔も見飽きたことだし、終わらせてあげるわ」
「それでは、始めようか!」
言い終わるかどうかという内に急接近を仕掛ける弥勒。格上の存在相手に卑怯だの何だのと言っていられる余裕はない。打てる手は全て打つ必要があるのだ。
「喰らえっ!」
急加速による体当たりと見せかけて、肉薄した瞬間に練り上げた魔力を女に向けて一気に解放する。ただの魔力の塊だが零距離からの必中の一撃である。避けられるはずはないという確信があった。
「ふんっ」
しかし女はそれを読んでいたかのように後方へと倒れ込みながら、右膝で上空へと蹴り上げられる。弾かれた魔力塊は何かにぶつかり消滅していった。
「結界の出来も問題ない様ね」
くるりとトンボを切って立ち上がる女から急いで離れる。
「……ああ。これならば存分に暴れられる」
予想通り避けられることはなかったが、その代わり完全にいなされてしまった。内心の驚きを出さずにそう平然と返した自分を誉めてやりたい気分だ。
しかし虚を突いたはずの攻撃をあっさりと対処されてしまったことで、こちらの不利は一層厳しいものになってしまった。弥勒にとってそうした相手の隙を突く攻撃こそ唯一勝ちを拾うことにできるものだったからである。
つまり、最初の一撃で決めることができなかったことで弥勒の勝率は限りなく低いものになってしまっていたのだった。戦況は開始早々に分が悪いどころか絶望的になってしまったといえる。
「どうしたの?まさか今のでおしまいだ、なんていうことはないわよね?でも、もしもそうだとしたら、さっさと負けを認めた方がいいんじゃないかしら?」
こちらが既に詰みかけていることが分かっているのだろう、女はひどく楽しげな声音だ。
「それこそまさか、だな。この程度で白旗を上げるくらいならば、最初から喧嘩など売っていない」
今度はいくつもの魔力塊を発生させる。
「今度は数で勝負?」
「いいや、まだまだ仕掛けは残っているぞ」
その声に呼応するように魔力塊に変化が生じていく。ある一つは燃え盛る業火に、またある一つは凍て付く氷塊に、そしてまたある一つは吹き荒れる嵐に、といった具合にそれぞれに異なる属性が付与されていた。
「さあ、これならどうだ!」
炎、氷、嵐、光、闇といった属性を得た魔力弾が殺到していく。
当たった!と思った次の瞬間、魔力弾が消えて平然と立つ女が見えた。属性弾の多段攻撃の後に近距離戦へと持ち込もうと走り寄っていた弥勒は、急激な方向転換を迫られることになる。
「なかなか面白いことをするわね」
涼しい顔の女がその手に持つのは魔力を押し固めた剣だった。おそらくはその剣の一振りで魔力弾を消し去ったのであろう、その余波で弥勒の左腕にはザックリと大きく切り裂かれている。
もしもあのまま突っ込んでいたならば、間違いなく上半身と下半身が生き別れになっていただろう。
額に浮かんでくる脂汗を拭いながら左腕の治療を済ませる。管理者という相手との格の違いは感じて理解していたつもりだったが、認識が甘かったと言わざるを得ない。
仮にも魔王と呼ばれ、元の世界では比肩するものがいないほどの魔力の持ち主であった自分がここまで何もできないとは思ってもみなかった。
辛勝以上は望んでいなかったが、たとえ負けるとしても惜敗程度には持ち込めるものと考えていたのだ。だが蓋を開けてみたらどうだ、大敗どころか完敗の様相を呈している。
「そろそろ負けを認めた方がいいんじゃないのかしら?」
「奇遇だな。俺もそう思っていたところだ。……だが俺は諦めが悪いのでな。まだまだ悪足掻きさせてもらう」
そうでもなければ勇者たちに敗北した時に異世界へと逃れようなどとは考えなかったはずだ。そう、彼らにはあの時の借りを返さなくてはいけない。こんな所で管理者などという訳の分からない存在に負ける訳にはいかないのだ。弥勒は女をしっかり見据えていた。
「その眼、生意気ね。それじゃあ今度はこちらの番。精々死なないように耐えてみなさい!」
そして蹂躙が始まる。
どうしよう、バトル始まっちゃった……。
次回更新は1月9日のお昼12時です。