第五十四話 侵食する非日常
管理者と対立関係になったからといって、こなさなければならない日々の雑務というものがなくなる訳ではない。むしろそうしたものが当たり前のように存在することが日常である証といえる。そして元魔王スキムミルクこと鈴木弥勒は日常を大切にする男である。
早朝、日が昇りきらないうちに目覚めると、日課のランニングをこなす。眠い眠いと呪文のように口にする僕のジョニーに『朝飯を抜く』と脅して同行させるのもいつもと同じである。
この早朝ランニングは体力を維持、または増強させるためのものではなく、付近の散策を目的としている。四季の存在により日一日と表情を変える風景は、厳しい環境下であった元の世界の魔族領では見ることのできないものだ。
最近ではやっと、こういうふとした瞬間に飛来する望郷と後悔の念を受け入れられるようになってきた。これは鈴木弥勒であるために必要な感情なのだ、と。
早朝とはいえ、活動している人がいない訳ではない。新聞や牛乳などを配達して回っている人、走り込みをしている若者に弥勒と同じように早朝散歩を行っている年配の夫婦といった具合にそれなりの人数とすれ違うし、幹線道路に出れば大型のトラックが行き来しているのが見える。
そしてすっかり常連となった〈ベーカリー・トオマル〉の店主は昔ながらの童謡の通りに早朝よりも前の時間から仕込みをしている。
「弥勒さん、おはよう。今日も早いね」
「店主に比べればどうということない時間だがな。それはともかく、おはよう。近頃は大分夜明けが遅くなってきたな」
「そうだねえ。六時過ぎても日が昇らなくなると、もうすぐ冬だなって思うよ」
変わり映えのしない挨拶の中にも、少しずつ季節の移ろいが感じられる。そうした何気ない変化を楽しんでいると、へろへろとした足取り――飛んでいるから羽取りか?――でジョニーが追い付いてくる。
『お腹空いたっすー……』
眠気が弱まったので食気が強まったらしい。生物の基本欲求に忠実な雀である。当然色気も標準装備されていて、時折スマートでスタイリッシュな雌雀――ジョニー談――と一時のアバンチュールと洒落こんでいる――これまたジョニー談なので、真偽は不明――そうだ。
「雀君も到着したことだし、できたてを食べていくだろう?」
「いただ――」
『もちろん食べるっす!』
弥勒を遮る勢いでジョニーが答える。鳥語なのだがその必死さは店主にも十二分に伝わっていた。ちなみに最初は失敗作を無料で貰っていたのだが、どう見ても失敗作には見えないことから今ではちゃんと代金を支払うようにしている。
「はい、どうぞ」
まだ湯気が立ち上るできたてのパンを手に、店主が戻ってくる。本日の献立は甘く煮付けた大粒の豆が見た目にも楽しい、豆パンである。パン自体には甘味が付いていないので、全体としては適度な甘みで弥勒もお気に入りの菓子パンの一つである。
『豆、甘い、美味いっす!』
ガツガツともうすぐ亜光速に到達するのではなかろうかという勢いで啄ばむジョニーを後目に、一口大に千切りながら口に運んでいく。
菜豊塾に通う子どもたちやバーベキュー大会の参加者、更には役場の駐輪場のジョニーファンたちによって、弥勒の所の真ん丸雀の非常識さは既に知れ渡っており、近所の住民たちは見て見ぬふりをしていた。
「おはようございます」
と、ジャージ姿の女性が挨拶をして弥勒の後ろを通り過ぎていく。慌てて振り返るも、既に女性は角を曲がったのか見えなくなっていた。
「難しい顔をしているけれど、何かあったのかね?」
「いや、何でもない……」
不思議そうな店主に咄嗟にそう返したものの、苦々しい表情が晴れることはなかった。
軽く朝食を取って出かける支度をする。今日のアルバイトは前半なので、余りのん気にはしていられない。
歯を磨き、髪を整えて鏡で身だしなみを確認する。一方そんな必要のないジョニーはテレビでワイドショーの本日の占いを真剣に見ていた。それにしても血液型占いには雀も入っているのだろうか?それ以前に同じ血液型なのか?謎である。
「そろそろ行くぞ」
いつまでたってもテレビの前から動こうとしない真ん丸雀をむんずと掴み、外へ出る。『アイアンクローはやばいっす!』とか何とか騒いでいるジョニーは無視して、建物前の掃除をしているイロハと挨拶を交わす。
「おはようございます。今日のアルバイトは朝からですか?」
「ああ。それでは行ってくる」
駐輪場で青龍号に前籠にボール状の物体を放り込み、鍵を外していざ出発。通勤・通学ラッシュの時間帯は過ぎているのか、交通量はそれほど多くはなくなっていた。それでも事故に遭うと大変なことになる――主に相手側が――ので安全に気を配りながら進んで行く。
折悪く、丁度歩道が途切れた所で前方から来た自転車とはち合わせてしまう。田舎なので歩道が設置されているのが片側だけという道も多く、こういうことは割と頻繁に起こることである。弥勒も慣れたもので、一旦青龍号から降りて相手に道を譲った。
「ありがとうございます」
礼を言って女性が通り過ぎた後で、弥勒は「チッ」と、小さく舌打ちをしたのだった。
弥勒の仕事というのは通訳が必要な相手がいて初めて成り立つものである。従って日によってはわずか十数分しか仕事がないということもある。
当然忙しい者たちからは非難の目を向けられることになるのだが、雇用条件の詐称になったり秘匿案件があったりするので、無暗矢鱈に手伝いを申し出ることもできなかったりする。
こちらの有用性については十分に見せ付けているので特に問題が起きることはないのだが、いかんせん居心地が悪い場合もあるのだった。
そしてどうやら今日はそんな日であったらしい。朝から待てども通訳を必要とするものは一人も現れない。仕方なしに趣味と実益を兼ねた語学、エー語の勉強を始める。
共通語の元となるものも存在するらしいのだが、国家間の力関係やその他諸々の社会事情により、まずはエー語からというのがニポンの習わしだそうだ。
弥勒にとって幸運なことにエー語は元の世界の言葉に近く、予想していたよりも習得は楽に進んだ。むしろ子どもたちと一緒に祥子に教わっているニポン語の方が難関となっていたりする。
勉強に没頭していたためか、気がつけば時計の針が揃って真上を指していた。昼番の数人を残して職員たちが一斉に動き始める。
「鈴木さん、場所いいかな?」
「ああ。片付けてしまうから少しだけ待っていてくれ」
弥勒たち通訳のアルバイトが待機場所として使用しているのは、いわゆる応接セットで弁当組の昼食の場所となっていた。以前もっと別の場所で食べた方が落ち着くのではないかと尋ねたことがあったのだが、昼番の補助としてここで食べているとのことだった。
出していた洋書をバッグへと放り込んで席を開ける。
「たまには一緒にどう?」
というお誘いに、
「弁当を作る力量などない!」
と軽口で返して、食堂へと向かう。出るのが少し遅れたためか結構混雑していた。馴染みになったジョニーファンのおばちゃんに日替わり定食――本日は唐揚げ定食。プラス五十円で味噌汁を豚汁に変更可――を注文して、湯呑みを持って空いた席に座る。
テーブルの上に置かれた大きなやかんからお茶を注ぐ。十月に入って用意されているお茶も温かいものへと変わっていた。そんな小さな変化を楽しみながら料理が出てくるのを待っていると、向かいから声が掛けられた。
「あの、相席よろしいですか?」
視線を上げると、弥勒と同じ日替わり定食――しかも豚汁――が乗ったお盆を持った女性が立っていた。見回すとまだまだ食堂は混み合っている。弥勒は大きく溜め息を吐いた後で
「どうぞ」
と一言だけ喉の奥から絞り出したのだった。
♪あっさいちばんはっやいのは♪というあの歌です。
分かるかな?
次回更新は1月5日のお昼12時です。




