第三十五話 飛ぶ前に跳ぶ
ついに! 十万字! 達成!!
カチャ。静まり返った空間に小さな音が響く。続いてキィーという甲高い音を立ててドアが開いた。出てきたのは弥勒で、定位置となっているその肩には彼の僕であるジョニーが乗っていた。
『眠いっすよー』
時刻は午前二時を少し回ったところで、俗にいう草木も眠る丑三つ時である。ジョニーがぼやくのも仕方がないというものだ。
『やかましいやつだな。一日眠らなかったからといってどうということもないだろうが』
と、自分基準で無茶を言う弥勒。人間より身体能力が高いといっても、魔族にも休息は必要であり一日数時間の睡眠は必須である。しかし弥勒は〈魔王〉という一昔前の企業戦士やブラック企業の社蓄も真っ青の二十四時間三百六十五日体制の仕事に就いていたため、数日程度であれば眠らなくても動き回れる――当然ドーピング魔法も併用している――という異常な個体となっていた。
実際に勇者襲来の数ヶ月前から周辺の人間たちの国々による直接的な武力攻撃や間接的な経済攻撃に曝されており、その対処のためにほぼ不眠不休で走り回っていた。
にもかかわらずたった一人で勇者たち四人と数時間にわたってほぼ互角の戦いを繰り広げたのであるから、どれほど異常で規格外であったかが知れるというものだろう。
閑話休題。そんな生活を送っていたため、弥勒にとっては一日中どの時間帯であっても活動時間なのであった。それでも、わざわざこんな深夜にしたのは当然理由がある。
「そう言えば弥勒さん、飛行魔法の訓練をするのはいいけれど、バレないように気を付けてくれよ。人が空を飛ぶなんてこの世界では考えられないことだからね」
「飛行機も飛んでいるのにか?」
「あれはあくまで科学技術やそれによって造られた道具を使っているから飛べるんだよ。弥勒さんからすれば魔法もそういう道具と同じ扱いになるのだろうけれど、こちらの世界の人はその魔法が存在していること自体を知らないから、単身で飛び回っているように見えてしまうだろうな」
「ふうむ……。そんなものか?」
「そんなものだよ。この前使った消身の魔法や防音の魔法は使っておいた方がいいな。それとできるだけ人目に付かない時間の方が無難だろう」
と、このような会話が義則と飛行魔法開発の相談をしている時にされたからである。ちなみに、この前というのは正の部屋に乗り込んで彼を連れさらってきた時のこと――全員犯罪行為であったという自覚はある。だが後悔はしていない――である。
義則のアドバイス通りに防音と消身の魔法を使う。ただしこれまでの物とは違って、防音の魔法は、周囲の空気を圧縮して壁を作り音が伝わるのを防ぐようにしてあり、そこに光の屈折率を変える光学迷彩仕様となっている消身の魔法を重ね掛けしているのだ。
どちらもこちらの世界の科学知識を基に弥勒が生み出したオリジナル魔法である。元の世界において革新的な技術開発を進めてきたラジカルな思考は、こうしたことにも十二分に才能を発揮していた。長年に渡って魔王の座についていたのは伊達ではないのである。
『これで準備は完了っすか?』
やっと目が覚めてきたのか、それとも弥勒の魔力に充てられて強制的に覚醒させられたのかは分からないが、ジョニーが普段の声で尋ねてくる。
『ああ、そうだ』
『それじゃあ後は飛ぶだけっすね』
『バカたれ。いきなり飛んで制御できなかったらどうするのだ。まずは仮説の検証と実験だ』
義則と相談を続けた結果、重力の制御さえできれば後は何とかなるだろうということに落ち着いたのだった。自身にかかる重力をなくすことができれば、動力さえ用意できれば空中を自由に動き回れるのではないか、と考えたのである。
何とも大雑把な仮説であるが、元々魔法という摩訶不思議パワーを用いようとしているのだから、そのくらい適当な方が丁度いいのかもしれない。
『それでは徐々に重力を弱めていくことにしよう』
ジョニーが方から降りたのを見計らって魔法を展開していく。一度に弱め過ぎると危険かもしれないので、最初は十パーセントを目安に重力が減少していく様をイメージする。
同時に普段はやらない魔法発動の三ステップを意識してみる。イロハたちが魔法を習得する際のヒントになることを見つけるのが目的だが、自分の魔法強化にもつながるのではないかと考えたのだ。しかし、
「まずい!」
一瞬で魔力が膨れ上がり、暴発しそうになった。それを懸命にこらえて、突風が吹きすさぶ様をイメージすると、上空に向かって解き放つ。ゴウッ!という音を立てて空気の塊が舞い上がっていく。翌日、龍が天へと昇っていく姿を見たという者が相次いだが、酔っ払いの戯言として相手にされなかったとか。
「あ、危なかった……」
予想外の展開に流石の弥勒も肝を冷やしていた。さほど多くの魔力を込めていないつもりだったのだが、それでもあの有様である。久方ぶりに自分の持つ魔力量が尋常ではないことを突きつけられていた。
『んななななな、何しとるとかーーー!!』
そこに弥勒以上にビビって驚いていたジョニーが大声で怒鳴ってきた。それでも感情に身を任せて突進するようなことをしなかっただけマシだろう。もしそんなことをしていれば、焼き鳥どころか消滅させられてしまっただろうから。
つまりはそれほど衝撃的で恐ろしい出来事だった訳である。ジョニーの足元の地面が濡れているようであったが、それは見て見ぬふりをすべきだろう。
『驚かせて悪かったな……。次からはもっと簡単で使いなれた魔法の時に試すことにしよう』
人間たちの魔法とは魔法発動の三ステップと、その効果のイメージを同時に行うというもので、一種の並列思考能力が求められる。一般的には呪文の詠唱という形でそれらを統合しているのだが、今回弥勒はそれをなしに行おうとしたために、もののみごとに失敗してしまったという訳である。いくら歴代最高ともいわれる元魔王様であっても、最初から上手く扱える代物ではないのである。
さて、気を取り直して重力軽減魔法を試みる。今度はいつも通りの魔族的発動方法である。魔法が発動した途端、若干ではあるが体が軽くなった気がした。試しに動いてみると違和感がある。
『どうっすか?動き易いっすか?』
『動き易さだけを言えば、かえって動き難くなっているなフワフワしていて落ち着かないぞ』
『重心が高くなった感じっすかね?ジャンプ力はどうなっているっすか?』
『試してみよう』
軽く力を込めて垂直飛びの要領でジャンプしてみる。目線が菜豊荘二階の床付近に届いていたのでおよそ二メートルほどであろうか。
『ふむ、高さはあまり変わらないが、落下速度が通常よりも遅かった気がするな』
『普段から二メートルを超えるジャンプ力って、どんな超人っすか旦那……』
サファリな狩猟民族の人たちも真っ青な高さだ。ジョニーが呆れたような声を出したのも無理からぬことである。
「とりあえず、上手く魔法は発動しているようだな。もう少し効果を上げて試してみるか」
それから夜が明けるまで、検証と称して弥勒は跳びはね続け、最終的に重力を半分まで減らした時には三ケタを超える高さにまで到達していたのだった。
低重力でびよーんて感じで跳ねてみたいです。びよーん。
次回更新は12月5日のお昼12時です。