第十三話 一〇二号室は菜豊塾である
さて、時間は少々遡る。
孝と出かけてから二日後、その日も弥勒はジョニーと一緒にテレビを見ながら〈ベーカリー・トオマル〉で買い込んだパンを齧っていた。
ただのテレビ鑑賞であっても弥勒にとってはニポンやこちらの世界の文化・風習を知るための重要な行為である。また、頻繁に表示されるテロップは言語習得に――多少は――役立っていた。
「やはり基礎基本をすっ飛ばしているので、今一理解し辛い部分があるな」
『それなら本屋にでも行ってみるっすか?確か幼児向けの文字の練習帳があったはずっすよ』
漏れ出た独り言をジョニーが拾う。
『本か……元の世界では考えられないことだが、この国では比較的安価なのだったな』
『まあ、専門書とかになればゆきっちー数人分になることも珍しくないっすけどね』
『それでも十分に破格と言えるな。製紙技術か印刷技術のせめてどちらか一方でも持ち帰ることができば、あちらの文化も飛躍的に向上するだろうに……』
今となっては弥勒たちが造り出した技術の数々が魔族発祥ということだけで忌み嫌われ、廃棄されていないことを祈るばかりである。
『それで、どうするっすか?買うっすか?止めるっすか?』
物思いに沈んでいると、退屈になったのかジョニーが尋ねてくる。
『余り散財はできんのだが……。しかしこれは必要経費と言えるか。よし、買いに行こう』
なぜ練習帳一冊買うのをこんなにも躊躇っていたかというと、いくら安いとは言ってもその値段は、数千円は下らないだろうと仮定していたからである。
その数十分後、弥勒は本屋で目を丸くして、それを見たジョニーが大笑いして焼き鳥にされかけたそうな。めでたしめでたし。
…………。
さて、予定よりもはるかに少ない金額で数冊の学習帳を買いホクホク顔で帰宅した時、それは起こった。三人の子どもたちが弥勒の家の前をたむろっていたのである。
『旦那、知り合いっすか?』
ジョニーの問いに首を横に振る。
『だが、向こうは俺のことを知っているのかもしれない』
『それってつまり……』
『元の世界から俺を追って来た者たちの可能性がある、ということだ』
『で、でもあいつらどう見ても子どもっすよ?』
『魔法でどうとでもなる。見た目は当てにならないぞ。いいか、何があってもすぐに対処できるように準備だけはしておけ』
『ら、ラジャーっす』
ジョニーは不意の衝撃に備えるため全身の羽毛を逆立て始める。ただでさえ丸いその体が一層膨れ上がり、謎の球状生命体と化していた。
と、ここまでジョニーの不安を煽っておいて何だが、実は弥勒は追跡者ではないだろうと考えていた。
根拠としては、まず元の世界において異世界へのゲートを開くことができる程の魔力の持ち主が存在していないことである。弥勒は多大な魔力を持つ魔族においても破格と言える程の魔力保持者だった。
そんな弥勒でさえゲート――転移対象が造った本人のみ、使用回数は一度きりという限定的なものだったが――を一人で作り上げるのは至難の業――というか本来個人で造れるものではない――なのである。
一方人間側の最大魔力保持者は勇者の仲間であった魔術師の女だったのだが、その彼女ですら弥勒の数百分の一程度の魔力しか持っていなかった。
理論的には大量の蓄魔石――読んで字のごとく魔力を蓄える性質を持つ石――と、彼女と同程度の魔術師を百人ほど集めれば可能ではあるが、それ以前に金銭的――蓄魔石は貴重で高価――にも政治的――人類最高レベルの魔術師が一か所に百人も集まることへの危機感――にも実現不可能だろう。現状ではゲートを開くことはできないといえるのである。
余談だが、魔力だけでもこれほどの差があったのに弥勒が勇者たちに敗北を喫してしまったのは、神々の事情と弥勒の油断が複雑に絡み合ったためである。
もう一つの根拠として、ゲートが開かれたことによる魔力の揺らぎを感じていない点が挙げられる。生物の体内に魔力があるように、世界にもまた魔力が満ちている。ゲートが発生するとこれに影響して揺らぎが起きるのであるが、それを感じられていないので元の世界または異世界からの闖入者は存在しないといえる。
では何故ジョニーを脅していたのか?それは危険に対処する訓練にするためである。こちらの世界、特にニポンは稀に見る平和な国であり、弥勒自身ですら危機意識が薄らいでいくのを感じていた。こうした状況では自分の身を守るのが精一杯となり、ジョニーにまで手が回らないかもしれない。なので、自分の身は自分で守れるようにジョニーの訓練にしようとした、という訳である。
しかしながら弥勒のこの思惑は子どもたちの一言で木っ端微塵に砕け散ることになる。
「おっさん誰だよ?何か用か?」
「おっ!?おっさん!?」
予想もしていなかった言葉に弥勒の思考が停止する。確かに魔族は長寿で数百年生きる者も珍しくなく、弥勒自身ももうすぐ五百歳に手が届こうとしている。
しかし、外見的にはこちらの世界の三十歳前後であり、青年から壮年に移り変わる働き盛りの(以下略)だが、子どもからすれば十分おっさんに見えるのであった。そして、こうなるとやたらと元気になるのがジョニーである。
『ぶわっははははは!旦那、旦那がおっさん!確かにおっさんっすね!』
と弥勒の耳元で大笑いしたものだから、ぐわしっ!と鷲掴みにされてしまう。幸い羽毛を逆立てていたので潰されることはなかったが、
『はっはっは。短い付き合いだったなジョニー。美味しく食べてやるから焼き鳥になった後のことは心配しなくていいぞ』
と壮絶な笑顔で言われて半泣きになっていた。いつもならここでジョニーが詫びを入れて説教、という流れなのだが今回は一味違った。
「鳥いじめんなよ、おっさん!」
「どうぶつぎゃくたいはんたーい!」
「つーほーするぞ!」
と、一斉に子どもたちが喚き立て始めたのだ。
「うるさいぞガキども!口のきき方から叩き直してやろうか!」
対する弥勒も負けじと言い返す。しかし、その姿には大人の余裕も元魔王としての矜持も見当たらなかった。
「大きな声を出して一体何事ですか?」
あわや最終戦争勃発か、という所で両者の間に割って入って来たのは、隣の部屋、二〇二号室から出てきたイロハであった。
「あっ!イロハ先生!このおっさんが鳥いじめてる!」
「ぼくたちのことにらんできた!」
「ふしんしゃ!」
子どもたちの声が聞こえたのかどうかは分からないが、イロハの眼は掴まれているジョニーをロックオンしていた。そしてつかつかと歩み寄って来て開口一番
「弥勒さん、いくらその雀さんと仲がいいとは言ってもやり過ぎです。すぐに離して下さい」
と命令する。
「お、おう……」
初日に続きどうにも逆らい難いその剣幕に、弥勒は手の力を緩める。
『助かったっす!そしてさらばっす!』
「ああ、雀さん……」
その隙を逃さず一目散に逃げ出すジョニーと、まるで去っていく恋人に手を伸ばすような格好で固まっているイロハ。
「……何だこの茶番は?」
弥勒が思わず呟いてしまったのも無理からぬことである。その声にハッと我に返ったイロハは「コホン」と一つ咳払いをして子どもたちの方を向き直る。
「それで皆は弥勒さんの部屋の前で何をしているの?」
「「「え?」」」
どうやら子どもたちはイロハの出てきた隣の部屋と間違えていたらしい。それぞれ「ごめんなさい」と謝ると、逃げるように部屋の中へと入って行った。
「すみません弥勒さん。子どもたちが迷惑をかけてしまって……」
「いや、それは構わないのだが、あの子たちは一体何をしに来たんだ?」
「あ、それも言っていなかったですね。弥勒さんの隣の二〇二号室では、週に何回か塾をやっているんですよ」
「塾、と言うと勉強を教えているのか?イロハも?」
「はい。まあ私が教えているのは基本の復習くらいですけれどね。塾長の祥子先生は小、中、高の全科目何でもござれですよ」
確かジョニーやテレビを通した知識によると、教育の中心機関である学校で教える教師ですら中学以上は専門に分かれていたはずである。それらすべて対応可能というのはかなりの逸材なのではないだろうか。
「ただいまー。イロハちゃん、留守番ありがとう」
のんびりとした声が聞こえてきた方を振り返ると、赤ん坊を抱いた一人の女性が立っていた。
「丁度良かった。祥子さん、こちらこの前越してきたススキミ、じゃなくて鈴木弥勒さんです。で、弥勒さん、そちらが一〇一号室の四谷さん家の若奥様で、菜豊塾の塾長先生の四谷祥子さんです」
「四谷です。これからよろしくお願いしますね」
女性が挨拶で頭を下げた途端、抱いていた赤ん坊が泣き出し、三人はあたふたとその子をあやし始めたのだった。
おいおいジョニー君、話を途中で切ったのに、一番短い話の二倍近い文量ってどういうことよ(笑)?
まあ、今回の場合は解説的な文章があったのも文字数が増える原因となっていますけどね。
というわけで、次回はこの続きで四谷さん一家の登場となります。




