第十一話 二〇三号室住人、後藤孝
菜豊荘の二階へと続く階段からその男が降りてきたのは、食べ物を買いに出ようと弥勒が部屋の鍵を閉めた丁度その時だった。
互いに目が合った所で動きが止まってしまう。何となく相手を観察してしまっていたのである。余談だが菜豊荘の階段は建物の両脇についており、男が降りてきたのは向かって左手側の一〇五号室がある方からだった。
『何やってるっすか?早く飯を買いに行くっすよ!』
そしてジョニーはそんな空気を読むどころか、吹き飛ばす勢いでギャーギャー喚き始めた。その声に我に返った弥勒はこれから短くない期間同じ建物に住むことになるのだから、愛想良くしておいた方がいいだろうと結論付けて、こちらから挨拶をすることにした。
「あー、昨日からこの部屋に住むことになった鈴木弥勒という。何かと迷惑をかけることになると思うがよろしく頼む」
「あ、はい、ご丁寧にどうも。僕は二〇三号室の後藤孝です。なので鈴木さんの真上の部屋ですね。イロ、じゃない相上さんから話は聞いています。こちらこそよろしくお願いしますね」
どうやら彼は織江のことを例のあだ名で呼んでいるようだ。そういえば二〇三というと彼女の隣室でもあったはずだ。そうした繋がりから親しいのかもしれない。
「織江からあだ名のことは聞いている。気にせずいつも通りの呼び方をしてくれて構わない。それと俺のことは名前の方の弥勒と呼んでくれ」
弥勒という名前が気に入っていることもあるが、菜豊荘の近辺には鈴木姓が意外と多かったので、間違われないようにするためでもある。
「分かりました。それじゃあ僕のことは孝と呼んで下さい」
一見神経質そうな風貌をしていたが、性格の方は気さくであるようだ。見た目で判断してはいけないと思うと同時に、円滑な人間関係を築くには挨拶が重要であると改めて感じるのであった。
「そういえば、一つ質問をしてもいいだろうか?」
「何でしょうか?」
「織江のあだ名のことなのだが……あれは一体どういう意味なのだ?」
「えっと、それはイロハというあだ名自体のことですか?それとも、知りたければ他の住人に聞け、という意図についてですか?」
「両方だ」
「ふむ。……それを尋ねたのは僕で何人目ですか?」
「孝が最初だが?」
その質問の意味することが分からず、弥勒は疑問形で答えることになった。
「そうなると、僕の方から言えるのはその意図の方だけですね」
「???詳しく説明してもらってもいいだろうか?」
「勿論です。と言ってもそんなに難しい話ではないんですけどね。災害とか何かしらが起きた時に困ることがないように、同じ建物に住む者同士顔見せくらいはしておこう、ということでその切っ掛けにするためなんですよ」
「つまり、孝が教えてしまうと、俺が他の住人に合わなくなる可能性があるから言えない、ということか」
「ええ。話してみた感じから、弥勒さんはそんなことなさそうですけど、これまで入居していた人の中には引き籠りがちな人もいましたから。まあ、余り深く考えずにお遊び感覚でやってもらえばいいと思います」
分かればなんということもない話だった。弥勒は「そうさせてもらおう」と言うと、もしかすると深刻な話なのではと、微かに入っていた肩の力を抜いたのだった。
『もう無理っす!限界っす!腹減ったっす!食料を要求するっす!』
そして周囲の空気が弛緩したことを敏感に察知したジョニーが再び騒ぎたて始めた。
「うわ!びっくりした……。それ雀ですよね、随分と懐いているんですね」
「餌をやったら懐かれてしまってな……」
驚く孝に苦笑で答える。実はたこ焼きを分けてやってから、ジョニーの忠誠度は――あれでも――格段にアップしていた。そして克也たちと同じく、孝はジョニーを〈ちょっと変わった雀〉として見ているようだ。やはり織江の反応の方が特殊らしい。
「何か食べ物を寄こせと言っているようだな」
「あはは。可愛いじゃないですか。丁度僕も昼食を買いに行こうと思っていたので、一緒に行きませんか?」
「それは助かる。昨日来たばかりなので、どこに何があるのか全く分からなくてな」
渡りに船とばかりにその提案に乗ることにした。
孝が案内してくれたのは近所にあるパン屋〈ベーカリー・トオマル〉だった。運良く昼食向け調理パンの第一弾が焼き上がったところらしく、店内には芳ばしい香りが広がっていた。
『美味そうなやつを頼むっすよー!』
食べ物を扱う店に動物を連れて入るのは衛生上問題になる可能性があるので、店の軒の上で待つことになったジョニーが念話で喚いている。
そんなに腹が空いているのなら狩りでもしたらいいと思うのだが、たこ焼きを食べて以来人間の食べ物の味に開眼してしまったようで、『今更虫とかまずい物を食べたくないっす!』と言って憚らなかった。
いくつかお勧めの商品を教えてもらいながら、ジョニーにも食べられそうな物を選んでいく。何だかんだいいながらも面倒見のいい弥勒であった。
その後、孝の紹介で店主たちに挨拶をして店を出る。二人が手に持つ袋の中には紹介料と初来店記念という名目で一品ずつ追加されていた。弥勒は何とも気の良い連中だと呆れる半面、この店に通うことになることが容易に想像できてしまい、苦笑するしかなかった。
「どうせここまで来たのですから外で食べませんか?木陰で気持ちがいい場所があるんです」
という孝の提案に乗ってやって来たのは、昨晩ジョニーが泊まろうとしていた神社の脇にある小さな児童公園だった。木陰のベンチに並んで座り、買ったばかりのパンにかぶりつく。その足元ではジョニーが分けてもらったパンをガツガツと啄ばんでいた。
『美味いっす!旦那の僕になってホントに良かったっす!』
「ものすごい勢いで食べていますね……」
せっかくの焼き立てのパンの美味しさも、その様子にかき消されてしまった感がある。弥勒は今度改めてゆっくりと一人で味わって食べることにしようと決意するのだった。
ベンチに深く腰掛けて食休みをしていると、サァーっと葉擦れの音を残して気持ちのいい風が通り過ぎて行く。夏直前ではあるが木陰にいると案外涼しかった。耳を澄ませるとどこからともなく子どもたちの声が聞こえてくる。
「近くに小学校があるんですよ。多分プールの授業での歓声ですね」
尋ねる前に孝が答えてくれた。
「平和だな」
「全くです」
のんびりと時間が流れるままに任せる二人の足元では、ジョニーが未だに『美味いっすー!』と叫びながらパンを貪り食っていた。
や、やっと織江以外の新キャラが登場しました。
でもやっていることはパン買って食べただけ(笑)。
そしてジョニーは相変わらず自由気ままに動き回っております。