水たまりの中には
※お食事中の方はお読みにならないでください。
雨が降ってきました。雨の音は嫌です。私は急いでカーテンを閉め、部屋を暗くしてソファに腰を掛け、じっと息を殺します。
テレビをつけてみると、番組は何度も放送されたドラマ。テロップには豪雨警戒情報の太く赤い文字。そしてけたたましい警報音。
音量を小さくしてじっと画面を見つめます。
道のほうからは人が走る音が聞こえてきます。
そろそろ雨が激しくなってきました。
神様、どうか今日こそは、「普通の雨」でありますように。
私は小学五年生の頃、気の強い女の子でした。自分で言うのもおかしいけれど見た目も成績も良いほうでした。
クラスの女子の中ではリーダー格で、私の言うことを聞かない子は誰もいませんでした。
いわば、クラスは私のお城で、私はお姫様のようなものでした。あの子が引っ越してくるまでは。
<真美はその年の夏に転校してきた。前は田舎に住んでいたのでクラス全体が家族のようなものだった。
目がぱっちりとして、色白で誰が見ても美少女の彼女が教壇の前に立った時、浴びせられたのは男子の賞賛の視線と女子の冷たい視線。
彼女は友達が欲しかった。だが、クラスの女子に話しかけてもまるでそこに居ないかのように無視をされたのだ。
転校してきた一日目から。>
その子はとっても可愛い子でした。声も綺麗で誰にでも愛想よく声をかける優しい子でした。でも、クラスの女子たちは彼女に声をかけられるたびに私のほうへ視線を送ってきました。きっと私はよほど嫌な顔をしていたのでしょう。誰も彼女、真美に言葉を返そうとしませんでした。
イジメなんてする気はなかったんです。今になってこんなことを言ったってどうしようもないことでしょうけれど、それは本当でした。後で私が話しかけよう。取り巻きの一人にしよう、と考えていたのです。
やがて、男子が声をかけ始めました。気が付くと彼女は何人もの男子に囲まれていました。
楽しそうに話をする真美の声が耳に入るたびに、心の中にどす黒いものが湧いてくるのが判りました。
<真美は男子たちに囲まれて戸惑っていたが、話をすることが出来て嬉しかった。
なぜ、女子に無視されるのかは判らない。でも、きっとみんな恥ずかしがってるだけだと前向きに考えた。
明日は、そう、明日になれば。>
翌日も、その翌日も真美は女子たちに無視され続けました。私がクラスの女子全員に彼女に声をかけないよう釘を刺したからです。
でも、それも長くは続かなかったのです。真美には不思議な魅力がありました。私から離れて彼女の取り巻きになっていく子は次第に増えていきました。
城は足元から崩れ始めたのです。そんな時でした。
「あいつ、生意気だよね。やっちゃおうか」
そう言い出したのは親友の茜でした。私は特に仲のいい女子たちを集めて相談し、少しずつ彼女を苛めだしたのです。最初は教科書を隠したり、上履きや体操着を隠したり。取り巻きの子たちも個別に呼んで脅しをかけました。誰も苛められたい子なんていません。思惑どうり、一人、また一人と彼女から離れていきました。
イジメは日を経つごとにエスカレートしていきました。教科書や机に落書きをしたり、トイレに連れ込んで便器の水を浴びせたり。
でも私自身は一切手を出しませんでした。傍観者としてイジメを楽しんでいたのです。
彼女の変わりようは面白いほどでした。
美しかった髪は寝起きのようにぼさぼさになり、肌には艶がなくなり、目は濁ってきました。
そんな彼女から、男の子たちも次第に離れていきました。
<真美は苛められていることを先生に相談した。翌日、学級会が臨時で行われ、先生はクラスのみんなに注意をした。皆、仲良くするように、と。>
彼女は先生に言いつけたのです。私と茜は特に厳しく注意され、真美に謝るように諭されました。
翌日、雨が降りました。
その日は月に一度、母親の手弁当を食べようと学校が設けたお弁当の日でした。私は朝早く来て校庭であるものを集めました。
そして、彼女が登校してきた時、にこやかに声をかけたのです。「おはよう。今までごめんね。これから仲良くしてね」と。
休み時間になりました。彼女がトイレに行くため教室から出ていくのを確認し、私は真美のランドセルを開けました。クラスの子たちは何も言いませんでした。
<その日、真美は初めて春香に挨拶され、謝罪された。少しだけほっとした。きっとそんなに悪い子じゃないんだと思った。
昼になり、家から持ってきたお弁当を開けた途端、悲鳴を上げ、吐きそうになった。ご飯の上にミミズが乗っていたのだ。
真美は弁当をその場で床にぶちまけると、ランドセルを背負って教室から走り出ていった。>
彼女は私の机の横を通り過ぎる時、小声でこう囁いたのです。
「水たまりに気を付けて」
その時、何故か背中がぞくりとしたことを覚えています。でも。
「あ~あ」
「汚ったねえなあ。掃除当番早く掃除してよ~」
ブツブツ文句を言いながら当番の子が弁当を片付けるのを見てると、何となく笑いがこみあげてきました。
これでもう、真美は学校に来なくなる。邪魔者はいなくなるのだと思うと嬉しくてしょうがなかったのです。
雨はますます激しくなっていました。
<真美は一人で家に帰ってきた。雨の中、傘も差さずに走ってきたのでびしょ濡れだった。両親は共働きで兄弟はいない。
ランドセルを開けて教科書を出す。どの教科書にも落書きがされている。
真っ赤な文字で「死ね」「消えろ」「くさい」。
筆箱を取り出そうと手を突っ込む。
すると何かぐにゃりと動くものが手に触れた。
ランドセルを覗いた彼女はまた悲鳴を上げた。数匹のミミズが筆箱の上でうねうねと動いていた。
真美は自室の床にミミズを落とし、ティッシュで掴むとごみ箱に捨てた。
何も良くはならなかった。もう何も出来ることはない。だったら。もう
何もかも壊してしまおうか。ごみ箱に捨ててしまおうか。
彼女は生まれ故郷の村にある祖母の家から持ってきた本を取り出した。
それは村に伝わる呪術に使うもので、呪術師の家系である彼女の一族に代々伝わる秘本だった。昔、こっそり読んだ時から興味を惹かれて、黙って持ってきたものだ。
今から行おうとしていることは禁術。たぶん今まで誰一人それを行ったものはいなかっただろう。
私を苛めることがどんな結果をもたらすのか、あいつらに判らせてやる。
本に挟まれていた紙を床に広げる。それは真ん中に墨で丸が描かれ、その周りには意味の判らない文字がぎっしりと書かれていた。紙の周りに九本の蝋燭を立て、部屋を暗くして本に書かれた長い呪文を唱える。自分の恨みを、そして自分のように苛められて死に追いやられた子達の全ての怨念を込めて。
悶えるように炎が揺らめく。
「ミズタマリ様、ミズタマリ様、こちらにおいでください」
彼女は丸の真ん中に冷蔵庫から取り出してきた血の滴る肉のかけらを置いた。するとそれは紙に吸い込まれるようにずぶずぶと消え失せていく。
「ありがとうございます。後はどうぞご自由に」
ふっと蝋燭が消え、叩きつけるような雨の音だけが部屋の中に響いた。
真美は部屋を出ると風呂に水を溜めた。
美しい水。透き通った世界。そっと手首を浸けるとひんやりと冷たい。カッターナイフの刃が水面に映ってゆらゆらと煌めいている。
さようなら、汚れた者たち。>
激しい雨は下校時間には弱くなっていて、校庭にはたくさん水たまりが出来ていました。
傘を差した生徒たちが三々五々帰っていくのを私はもう誰もいなくなった二階の教室の窓から眺めていたのです。
子供は、特に小さい子は水たまりに足を突っ込みたがります。ばしゃばしゃと服が濡れるのも構わずに。
窓から離れて帰り支度を始めました。突然外から悲鳴が聞こえました。一つじゃない。断末魔のようないくつもの悲鳴。
窓に駆け寄って覗いた時、そこは地獄絵図と化していました。
水たまりに次々と子供たちが飲み込まれていきます。まず、足を取られ、一気に引きずり込まれて。悲鳴はがぼがぼ水を飲む音にたちまちのうちにかき消されました。残った子供たちは必死で校門目指して走っていました。校庭の中ほどに見覚えのある子が茫然と立ち尽くしていました。彼女の傘はすぐ傍に転がっていました。恐怖で動けないようでした。
あれは茜だ。私は教室を飛び出しました。
玄関を出ようとすると、茜が走ってくるのが見えました。
「早くこっちへ!」
彼女がもう少しで玄関に入ろうとした時、すぐ脇の水たまりから大きくて得体のしれない半透明な筒のような虫がぐにゃりと飛び出してきました。そいつは素早く茜の頭部に覆いかぶさりました。ぐちゅりという気味の悪い音が聞こえました。悲鳴は聞こえませんでした。大きく口を開けた茜の潰れた顔が半透明の筒の中でゆっくり動いていました。バタバタ暴れていた彼女の身体はやがて動かなくなりぬるぬると飲み込まれていき、虫は水たまりの中に姿を消しました。
「春香さん、危ないから戻りなさい!」
先生に後ろから抱きかかえられるまで私はぼうっと外を眺めていました。次々と飲み込まれる子供たちを、降り続く雨を。
思えばそれが始まりでした。私や他に残っていた生徒たちや先生は雨が上がり、水たまりが消えるまで学校に閉じこもっていました。
職員室のテレビで、この雨が次々と周りの街へ広がっていき、水たまりの中の何かに人々が食われていることが報道されました。世間は何が起きているか判らず、ただただ混乱していました。夜になって家に電話しても誰も出ませんでした。翌日、私は家に帰りました。家には誰もおらず、その後何日経っても両親は帰ってきませんでした。きっと帰宅中に水たまりに捕まってしまったのでしょう。
『水たまりに気を付けて』
真美の最後の言葉が耳に響いていました。これはあの子の仕業に違いない。どうやったのかは判らないけれど、とにかくそう私は確信しました。でも、どうすることもできませんでした。人に言ったってどうせ信じてはもらえません。
数日後、また雨が降りました。雨の範囲はどんどん広がり、政府の対策は全く意味を持ちませんでした。奴らはいくら退治しても、水たまりさえあれば何処にでも現れるのですから。殺されないためには雨の日に外へ出ないことだけ。この国の機能はゆっくりと麻痺していきました。
あれから数年、私はまだ生きています。
今では日本中にあの怪物が現れます。お金を持っている人たちは既に海外に逃げ出しましたが、この現象が日本だけに留まると誰が断言できるでしょうか。
あ。
今、廊下から水の音が聞こえました。
そっと覗いてみると天井から水が滴っています。雨漏りです。みるみるうちに廊下には水たまりが出来ていきます。
もう逃げられないのでしょう。いえ、逃げてはいけないのでしょう。
水の中からごぶごぶと虫が姿を現しました。真美の笑い声が耳元で聞こえた気がしました。
<END>