Signify 前編
(ここは、一体―?)
私は、住宅街を歩いていた。周りには、大小様々な家が立ち並んでいるが、その家々の屋根から窓、さらには道にある街灯まで―全てが黒かった。それだけではない。
青いはずの空も、街路樹の緑も、アスファルトでさえも真っ黒に染まっている。すべてが黒くぼんやりと輪郭だけが時折浮かぶ道を、私は先程からずっと歩いていた。
怖いという感情は不思議と浮かんでは来なかった。それよりも心の大部分を占めていたのは、おそらく私の命の、最後の記憶。
そう、私は確かに数分前に手首を切り自殺をしたはずだった。はずだったのに、今こうして歩いている。思考している。服装は制服。お気に入りの髪型。あの瞬間から一つも変わってはいない。
死後の世界。真っ先に思い浮かんだのはその考え。だったらこのまま歩き続ければどこかにたどり着けるだろうか。だとしたら、そこはきっと…地獄なのだろう。自殺といえど命を絶つことは悪いこと。遠い昔母さんにそう諭されたことを思い浮かべる。
私は一人そっと自嘲気味に微笑んだ。大丈夫・・・・これで全てが解決するのだから。
どのくらい歩いたのだろうか。困惑する私の目の前にあるのは、地獄でもなければ天国でもなく、一件の家だった。
二階建ての家は、その窓という窓に鮮やかな明かりを灯していた。この場にはひどく不釣合いなその家のドアが、きぃ、とかすかにきしんだ音を立てて開き、一人の女性が顔をのぞかせる。
老齢のその女性は笑みを浮かべて手招きをしたかと思うと、家の中へと戻っていく。
ついてこい、という意味だろうか・・・・。私は一瞬の迷いの後、女性のあとを追いかけた。
家の中には玄関がなく、小さなリビングだけがそこにあった。
「いらしゃい。どうぞお座りになって」
少し嗄れてはいたが、しっかりとした声で女性が言う。リビングには二人用の小さなテーブルがあり、二脚の椅子とささやかなお茶の用意がされていた。
「えっ・・・・あの」
「レモンティーは飲めるかしら?」
「だ、大丈夫です」
反射的に答えてしまった私の前に、可愛らしいティーカップが差し出され
る。ついうけとってしまうと、女性は嬉しそうに微笑んで席に着いた。
私もやけくそ気味に席に着き、ティーカップを口に運んだ。そっと口をつけると、さわやかなレモンの香りが口いっぱいに広がる。
「おいしい―!」
それほど大きな声で言ったつもりはなかったのだが、呟きは女性にバッチリ聞こえていたらしい。
「よかったわ。どんどん頂いてちょうだい」
恥ずかしくなり、何度もティーカップに口を付ける。しばらく小さなリビングが静寂に満ちた。
唐突に彼女が言う。
「あなたの名前を教えてくれるかしら?」
「・・・・・・春日井 舞です」
「舞ちゃんというのね。可愛らしいお名前」
自分の名前に特に思い入れはなかったが、微笑む彼女を見てなぜか嬉しさがこみ上げてきた。それをごまかすために、慌ててレモンティーに口を付ける。
ほぅ、と息をついて、私はずっと気になっていたことを訪ねようと口を開
いた。
「あの、ここは」
「死後の世界なんかじゃないわよ」
「えっ、どうし」
「どうしてわかったのかって? 顔にありありと浮かんでるわよ、舞ちゃん」
・・・・・・この女性は一体何者なんだろうか。
「あなたは、何者なんですか?」
「う~ん・・・・・・・・ナイショ」
人差し指を唇に当てて、彼女はまるで子供のように笑った。
「私のことはいいから、あなたのことを教えてくれるかしら?」
なんだかうまくはぐらかされてしまったが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
「私のことっていうのは・・・・?」
「舞ちゃんのことよ。ほら」
彼女は窓の方を見る。つられて見る私の目に映るのは闇。
「ここには、なんにもないから。退屈なのよ」
そういう彼女の目はさみしげで、乾いていた。
「あなたは・・・・ずっとここに居るんですか?」
「そうね・・・・・・・・私は見失ってしまったから」
何を、と問おうとしたが彼女は素早く私の方を見る。
「さぁ、聞かせてちょうだいね」
何も問うな。そう言われたような気がして言葉を飲み込んだ。
私のことといわれても・・・・。ひどく迷い、私はゆっくりと話しだした。
去年の秋、必死に勉強して志望高校に受かったこと。
初めてくぐる校門にひどくドキドキしたこと。
新しいクラスメイトは、みんな親切で明るくて毎日が輝いていたこと。
ある男の人のことが、すごくかっこよく見えてしまって、それ以来夜も眠れなくなってしまったこと。
家の近くの公園の大きな紅葉の木が、うっすらと色付いてきたこと。隣の家の猫がたくさんの子猫を生んだこと。
好きな人が、可愛い女の人と歩いていたこと。その日は一睡もできなかったこと。
彼女は私がひとつ話すたび、どんなに些細な出来事にも驚き、笑い、怒り、その表情をコロコロと変える。本当に楽しげな彼女を見ているうちに、私もなんだか嬉しくなり気づけば一緒に笑っていた。
何時間も話した気がする。この部屋には時計がなかったが、喉の渇きがそれを証明していた。
「ほんとに楽しそうね」
目もとに浮かんだ涙をぬぐい彼女はまた笑った。そして
「どうして、自殺なんてしようとしたの?」
どうしてそれを・・・・?そう聞こうとしたのに、喉が張り付いたように動かない。
「ここは、そういう人たちが来る場所だから。
・・・・・・・・話してくれないかしら、ね?」
話すつもりなんてなかったはずなのに、私の口は勝手に動きだした。
後編も読んでくだされば、幸いです。