第9話 竜王の吐息と、焦げ目の“境界線”
朝のベーカリー・エデン。ルーカスは鉄板の上に薄い生地を並べ、砂糖と塩を指でつまんで落とした。今日の新作は――クイニーアマン。外は飴の鎧、中はバターの海。火加減が一歩でも狂えば、ただの黒い板になる。
「……二百三十七・八度。湿度五十七。ここからは呼吸で決まる」
【禁忌の業火】を千分の一で固定し、窯の温度を〇・一度刻みで追い込む。飴が“艶になる直前”に【時間停止】を一瞬だけ挟み、世界ごと焼き色を固定した。
鈴が鳴る。
「余は“輪”の次は“艶”を求めて来た」
竜王が私服(に見えるコート)で入ってくる。木箱に置く杖――いや、偽装した巨大な棍棒がミシッと鳴った。
「武装解除、よし。……吐息は武装扱いだ。窯に向けるなよ」
「なぜだ。余の吐息は乾いた炎。硬い皮が――」
「粉が舞う」
言い切る前に、竜王は口をつぐんだ。学習が早い。腹が立つ。
続けて魔王グラディオ、聖騎士セラフィナ、禁魔庁局長ユリウスが揃って入店する。最近この店、客層が国家予算より重い。
「艶の菓子……配布権を」
「公平に……」
「会談は外で」
「焼きたてが冷める」
全員が同時に黙った。いい沈黙だ。
……と思った瞬間、扉が蹴り開かれる。
「竜王がここにいると聞いた! 討伐だ! 名誉だ! ついでにその“艶の菓子”も押収する!」
竜殺しを名乗る一団が、鎧のまま雪崩れ込んできた。剣、槍、鎖。最悪の装飾品の見本市だ。ミーナが笑顔で指をさす。
「武装解除、お願いしまーす」
「断る! 我らは正義――」
ルーカスの目が死ぬ。
「粉が舞うから、外でやれ」
しかし竜殺しは聞かない。床を踏み鳴らし、槍を振り上げ――その瞬間、魔王と聖騎士が左右から肩を掴んだ。
「俺たちの至福を邪魔するな」
「ここは聖域です。条例もあります」
局長ユリウスが紙を突き出す。
「半径百メートル条例違反。罰金。即退去」
「そんな紙切れが――」
竜王が静かに言った。
「余の前で、焼きたてを奪うな」
その一言で、竜殺したちは青ざめた。だが最後の一人がやけくそで叫ぶ。
「ならば吐息を封じろ! 禁魔結界だ!」
光が走り、店内の魔力がすん、と沈む。窯の温度が揺らぐ。飴が黒へ転びかける――。
「……面倒だな」
ルーカスは魔法ではなく、手で火を読んだ。薪を足し、扉の隙間を指で感じ、鉄板の音を耳で拾う。
竜王が小さく息を吸う。
「吐くな」
「吐かぬ。……ただ、温めるだけだ」
竜王は“吐息の先”を、窯ではなく自分の胸元に向けた。熱は店に広がらず、結界も揺らさない。代わりに、竜王の指先がぽっと温まり、その指で砂糖の表面を一撫で――飴の艶だけが、最後の一線で止まった。
焼き上がり。クイニーアマンは黄金の鎧をまとい、割れ目からバターが香った。
竜殺したちは、その香りで膝が抜けた。
「……討伐どころじゃない……」
「……並べ」
ミーナがにこやかに言う。
「私服に着替えてから、ね!」
竜王がひと口かじり、目を細めた。
「この艶……余の宝より尊い」
「食レポ禁止。冷める」
魔王がぼそりと呟く。
「竜王。停戦、三日延ばせ」
聖騎士が即座に続ける。
「いえ、一週間です」
竜王は艶の欠片を見つめ、頷いた。
「よかろう。余の国も、今日は噛む日にする」
こうしてまた、焼きたて一枚で戦が遠のく。
ルーカスは胃のあたりを押さえながら、次の鉄板に生地を並べた。




