第8話 ベーグルの輪と、停戦の“穴”
ルーカスは朝から鍋を沸かしていた。焼く前に茹でるパン――ベーグル。外はつるり、中はむっちり。噛むほど小麦が増えるやつだ。
「輪っかは誓約の象徴、とか言い出すなよ」
ミーナが即座に目を輝かせる。
「言いません! ……たぶん!」
【禁忌の業火】を千分の一、湯を九十五度に固定。茹で時間は三十秒きっかり。そこで【時間停止】を一瞬だけ挟み、“表面だけ締まって中は生きてる”境界を保存する。仕上げに“聖水(魔水)”をひと雫。艶が未来の勝利を約束した。
鈴が鳴る。
「輪のパンはあるか」
魔王グラディオが入ってくる。次の鈴で聖騎士セラフィナ、さらに禁魔庁局長ユリウスまで、なぜか同じタイミングで整列した。
「今日は会談ではなく……円卓です」
「円卓は外でやれ」
ルーカスが言うと、三人は同時に咳払いして黙った。学習している。腹が立つ。
そのとき、入口に背の高い旅人が現れた。コートの襟を深く立て、目だけが金色に光る。
「……香りに呼ばれた。余は――」
「名乗る前に、武装解除」
旅人は黙って腰の“杖”を木箱に置いた。箱がミシ、と鳴る。重い。嫌な予感しかしない。
焼き台に並んだベーグルが、窯から出る。つるつるの輪が湯気を纏い、店内が静かに吸い込まれた。
その静けさを破ったのは、懐かしい声だった。
「魔王! 聖騎士! そして……怪しい旅人! 討伐――」
新米勇者カイルが剣を掲げて突入し、見事に小麦袋に肘をぶつけた。
白い粉が舞う。
ルーカスの目が死んだ。
「粉が舞うから、外でやれ」
「はっ、またデコ――」
言い切る前に、魔王が首根っこを掴み、聖騎士が礼儀正しく抱え、局長がため息をついた。
「条例違反だ。空き地へ」
三人が連携しすぎて、カイルは“音もなく”店外へ運ばれた。
残った旅人が、焼きたてのベーグルを指でつまみ、穴を覗き込む。
「……この穴。竜の巣穴に似ている」
ルーカスは手を止めた。
「今、竜って言ったか」
旅人は観念したように襟を外し、背中の影を少しだけ広げた。鱗のきらめき。――竜王だ。
「余の国と人の国、争いが長い。だが、この輪を配れば……兵は剣を置く」
「配布権の話は外で」
ルーカスが即答すると、魔王と聖騎士が同時に頷いた。
「外でやろう」
「焼きたてが冷めますから」
竜王はベーグルを一口で半分食べ、目を細めた。
「むっ……この弾力……。余の咀嚼が追いつかぬ」
「食レポ禁止。冷める」
ミーナが鐘を鳴らす。
「本日の新作、ベーグル! 番号順にどうぞー! 争った人は……穴に落とします!」
誰も笑わなかった。全員、真剣に噛んでいた。
そして不思議なことに、噛む音だけが店内を満たすと、外の世界も一段だけ静かになった気がした。
「……やっぱりここの輪が一番だな」
魔王のぼそりで、第八の停戦が焼き上がった。




